2020@TOKYO

音楽、文学、映画、演劇、絵画、写真…、さまざまなアートシーンを駆けめぐるブログ。

バロック風ディナー

2008-08-31 | ■世界のグルメ
■PENTAX K10D smc Limited 21mm (C)Ryo

  ベネデット・マルチェッロが書いた「当世流行劇場」、とりわけ本書に掲載されている小田切慎平さんの素晴らしい解説を手がかりに進めてきたヴェネツィア・バロック音楽の話が一段落したところで、わが家の夕食をバロック風の色彩感で撮影してみました。

  時代考証もなにもあったものではありません。18世紀ヴェネツィアの人びとがどんなものを食べていたのか…そのことには詳しくありません。

  ただ、5回にわたる連載の中に流れる空気を料理に投影すると、この写真のようになるのではと考えました。

  あとは、マルチェッロやヴィヴァルディ、アルビノーニたちの音楽が流れていれば万全です。

  (前述のとおり、「ベネデット・マルチェッロとヴェネツィアの音楽」の連載は、ほとんど「当世流行劇場」、とりわけ小田切慎平さんの解説を話のネタとしております。ご興味のある方は、ぜひ本書をお読みになるようお薦めします。本書は未来社から発行されています)。
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ベネデット・マルチェッロとヴェネツィアの音楽-5

2008-08-31 | ■芸術(音楽、美術、映画、演劇)
■Venice GR Digital (C)Ryo
  
  アルブレヒト・マイヤーのCDには、トマゾ・アルビノーニのオーボエ協奏曲も収録されています。マルチェッロやヴィヴァルディと同じ時代を生きたアルビノーニ、一般的には「アルビノーニのアダージョ」が有名ですが、残念ながら、これは彼の作品ではありません。

  オーボエ協奏曲の第2楽章を聞いてみてください。ストリングスのアルペジオに誘われてオーボエが歌う旋律は、現世のいっさいの苦悩を洗い流すかのように清く優しく心に染み入ります。

  トマゾ・アルビノーニは、富裕な紙商人の家に生まれて、生活を気にすることなく音楽に専念できる環境にあったようです。ヴェネツィアに生まれ、ヴェネツィアに没したアルビノーニですが、生年は1671年と分かっているものの、没年に関しては1750年と51年の2説があります。さらに、1720年あたりから、記録の上でもぷつりと足取りが途絶えてしまいます。ドレスデンの博物館などに保管されていた遺稿は、第二次世界大戦の戦火でほとんどが焼失してしまいました。

  オーボエ協奏曲の第二楽章を聞いていると、アルビノーニが、この美しい音楽が描き出す無限の宇宙の彼方に、ひっそりと消えていったようにも思えます。

  アルビノーニの人生における空白の30年間、今度ヴェネツィアに行く機会があれば、運河にかかる橋のたもとや、狭い路地裏に彼の足跡を追いながら、アドリア海の潮風が運ぶ至高の音楽に耳を傾けたいと思います。
  

  
  
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ベネデット・マルチェッロとヴェネツィアの音楽-4

2008-08-31 | ■芸術(音楽、美術、映画、演劇)
■Venice GR Digital (C)Ryo

  3日前、一昨日、昨日からのつづきです。

  私の心を動かしたベネデット・マルチェッロの作品 "Cadennza : Se morto mi brami perche non m'uccidi"。マルチェッロが生きていた時代の劇場の風景からは想像もつかないほど美しい楽曲です。

  音楽に関する知識と技量を充分に持ち合わせていたばかりでなく、ラテン語を理解し、ギリシャ・ローマの歴史に通じていた大教養人マルチェッロの嘆き、あまりにも生への欲望をむきだしにしたヴェネツィアの聴衆への諦めが、あの作品に表れているようにも思えます。

  もうひとつは望郷の念。ベネデット・マルチェッロはヴェネツィアの貴族として生まれ、この地で数々の要職につきながら、52歳にして左遷同然の身でプレシアに赴任、翌年、故郷に帰ることなくこの地で客死します。

  たまたまアルブレヒト・マイヤーのCDジャケットが、ヴェネツィアの大運河を背景に、ゴンドラの舳先に立ってオーボエを吹くマイヤーを描いていたことから、マルチェッロの望郷の風景が浮かんできました。

  一方、ベネデット・マルチェッロの宿敵、アントニオ・ヴィヴァルディはマルチェッロの死後、ほんの一年足らずのうちに慌ただしくヴェネツィアを後にします。当時、アドリア海の商権をめぐって神経質になっていたヴェネツィア政府は、外国人との派手な付き合いを続けるヴィヴァルディに監視の目を光らせていました。また、国内での自由奔放な振る舞いも限度を超えていたようで、陰に陽に様ざまな脅しが彼の身に降りかかるようになります。ヴィヴァルディは、得体の知れない恫喝に脅えながら、ヴェネツィアを後にしました。

  新たな人生を求めて旅立った地はウィーン、かつて世話になったカール6世の庇護を求めたものの、カール6世は急逝、その後に勃発した王位継承戦争のあおりを受けて、ヴィヴァルディは、この地にひとり取り残されてしまいました。翌1741年、マルチェッロの死から2年の後に、彼は安宿でひっそりと息を引き取りました。当時としては最低ランクの葬儀が執り行われましたが、遺骨は今もって行方不明のままです。

  そんなヴィヴァルディの生涯を思いながら、再びマルチェッロの曲を聞くと、祭りのあとの静寂…人生の終焉という思いがよぎります。ヴィヴァルディが倒れた安宿「さまよえる騎士亭」は、ウィーンの名物でもある環状道路=リング(Ring Strasse)建設のために取り壊されていきます。マルチェッロやヴィヴァルディが覇を競ったサンタンジェロ劇場も歴史の中に風化し、今は存在しません。

  (つづく)

  
  

  
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ベネデット・マルチェッロとヴェネツィアの音楽-3

2008-08-31 | ■芸術(音楽、美術、映画、演劇)
■Venice GR Digital (C)Ryo

  前々日、前日からのつづきです。

  「当世流行劇場」には、訳者による解説の中で、当時の劇場の様子があたかも映像を見るように活写されています。

  『(前略)また、劇場という存在は、今で言う劇場というだけでなく、社交場、クラブ、バー、レストラン、カフェ、カジノ、テーマパーク、テレビ、ラジオ、そしてラブホテル、風俗までを兼用した総合的なエンターテインメント施設でした。つまり、当時のイタリアでは、町の娯楽のほとんど全てが、劇場に集中していたと考えていただきたいのです。』

  ここからは、ハイビジョンカメラが客席と舞台を縦横無尽に駆けめぐるように、劇場内のパノラマが現れます。

  『一階の平土間は、劇場によって、席が置かれていたり、立ち見だったりしていました。平土間席は下層市民のための場所で、どこかしらいかがわしい人間たち、労働者や職人たち、召使い、ゴンドラ漕ぎ、無鉄砲な若者たちがうごめいて、舞台を気にすることなく、物を食べたり、煙草を吸ったり、政治を論じたり、カード遊びで騒いでいました。ひっきりなしに、ささやき、笑い、拍手、口笛、動物のような叫び声が聞こえ、アリアの最中に主役の名を呼んで喝采し、掛け声をかけたといいます。また、ゴンドラ漕ぎはさくらとして雇われている場合があり、そういう時には入場無料だったようです。』

  『そして、上のバルコニー席からは食べ物のかすが、リンゴやオレンジの皮、油だらけのマカロニなどが投げ落とされ、有名歌手を称えるソネットを刷った紙が降ってきたり、仮面をつけた紳士の吐いたつばが飛んで来たりします。平土間の庶民たちも慣れたもので、そうした非礼に怒ることなく、容赦ない皮肉で応酬します。その間を、いかがわしい女たちが飲み物や彼女たち自身を売り歩いていました。』

  『まわりを囲む何層ものバルコニー席は、劇場のパトロンや貴族や金持ちといった有力者たちの定期契約となっていて、彼らにとって一種の応接間となっていました。借り主の好みによって高価なタペストリー、シャンデリア、姿見、ソファといった内装がしつらえられ、扉に鍵をかけて、舞台に面した鎧戸の窓を閉じると、そこは全くの密室となります。紳士淑女の観客たちは、お互いにバルコニー席を訪問しあい、女たちは噂話に花を咲かせ、男たちは、政治上の、取引上の密談を凝らし、そして男も女もそれぞれ愛人を引き込んで格好の密会の場としていました。』

  『また、一番下のバルコニー席は、平土間席で面談を成立させた娼婦たちの仕事場として、一種のラブホテルとして認められていたようなふしもあり、劇場支配人たちも娼婦たちを客寄せのために無料で入場させていたとのこと。』

  『そのような観客の要望に応えるため、劇場では料理や飲み物を頼むことが出来ました。バルコニー席にさまざまな飲み物、凝ったビュッフェや夜食を運ぶため、召使いたちが狭い通路をひっきりなしに行き来して、通路はごった返していました。』

  『また、不安定なチケット収入やバルコニー席の賃貸収入をカバーするために、劇場のロビーやゲーム室には、賭博のテーブルが抜け目ない劇場支配人によって設けられ、堂々とそこで賭博に興じることが出来ました。賭博場は幕間だけでなく、オペラの上演中も開いていて、退屈なレチタティーヴォに飽きた観客がここでひと勝負して、華麗なアリアが聞こえてくると、あわててバルコニー席に戻っていったりするのでした。』

  (中略)

  『当時のイタリアの貴婦人の間では、芝居に興味を示さないことが上品jとされていましたから、バロック・オペラはもともと熱心に見られたり、聞かれたりしないものでした。当時の劇場での観客の鑑賞態度を考えてみると、物語なんかどうでもいい、レチタティーヴォなんかどうでもいい、時々カストラートをはじめとする歌手たちの超絶技巧の即興歌唱が楽しめればそれでよかったのですから。』

  『舞台を見るより、社交や逢引にいそしんだり、魅惑的な浮かれ女がいたり、賭博の興奮があったり、美味しいもの、楽しいものが、劇場にあれば、すぐそちらに関心が向いてしまう人々、それがあくまで自分の快楽を主体に行動したバロック時代のヴェネツィアの観客でした。ある意味ではまさに悪徳の巣、言い換えれば、人間の生の欲望がさまざまに渦巻いているのが、劇場という世界だったのです。』

  (つづく)
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ベネデット・マルチェッロとヴェネツィアの音楽-2

2008-08-31 | ■芸術(音楽、美術、映画、演劇)
■Venice GR Digital (C)Ryo

  前日からのつづきです。

  「当世流行劇場」が発刊されたときの表紙は次のようになっています。まず、タイトルは、当世流行劇場とあります。その下に、現在でいえば本の表紙に巻かれている宣伝帯のような文言が並びます。それは次のとおり。

  『当世流行劇場、またはイタリア・オペラを当世風にうまく作曲し、上演するための確実で容易な方法。台本作家、作曲家、カストラート、男性歌手、女性歌手、劇場支配人、演奏家たち、舞台装置家、背景画家、ブッファ役、衣装係、小姓役、群集役、プロンプター、写譜係、女性歌手のパトロンや母上、ほか劇場に登場する人々への、有益かつ不可欠な忠告。』

  さらに、表紙には以下のように記されています。

  『著者から、ここに描かれた作曲家に献呈  ボルギ・ディ・ベリサーニャにおいて、アルディヴィーヴァ・リカンテのために印刷された(後略)』

  さて、ここに記されたアルディヴィーヴァなる人物こそが、あのヴィヴァルディのことで、Vivaldiの文字を並べ替えて、Aldivivaとしたわけです。

  何故、マルチェッロはヴィヴァルディをこれほど目の敵にしたのか?それは、日本語訳の解説に詳しく載っていますが、この二人の争いは親の代から続いており、様ざまな利権をめぐって、40年以上も紛争が続いていたようです。

  ただ、ヴィヴァルディに対するマルチェッロの冷ややかな視線は、興行などをめぐる紛争ばかりではなく、もっと本質的な、音楽家としての立ち位置に起因するようです。これについては、本書の「作曲家」という項の解説で、訳者が次のように書いています。

  『(前略)ここで明らかにされるのは、マルチェッロとヴィヴァルディの、音楽に対する根本的な立場の相違です。その両者の溝というのは、現在の音楽業界でも全く変わっていないようです。』

  『貴族階級に属し、オーソドックスな対位法やソルフェージュを作曲理論として学び、自らを「ヴェネツィア生まれの高貴な対位法の愛好家」と自称し、「聡明で教養があり、多様な能力とまれに見る資質を持った創作家であったが、芸術を金で売買できる商品と考えることが出来なかった」マルチェッロ。』

  (中略)

  『一方は、庶民階級の理髪師の息子で、ヴァイオリンを縦横無尽に弾き、観客を喜ばせるためなら、不協和音ぎりぎりまで即興演奏する卓越した演奏家(ヴィルトゥオーゾ)だったヴィヴァルディ。彼は、人間の感情を堅苦しい作曲規制に押し込めることなく、より自由、奔放、闊達な感情表現を求めて、作曲方法の領域を広げようとしました。それは、何十年も習得にかかる技術や、古代からの煩瑣で厳格な規制を知らなければ理解できない作品ではなく、より簡単に技術を身に付け、理解できる、新しい商人階級のための音楽だったのです。』

  作曲ばかりでなく、ヴィヴァルディにはプロデューサーとしての才も備わってたようで、チケットの価格をダンピングして完売をもくろむ強引な劇場支配人と結託して、音楽ビジネスとしての成功を勝ち取ったようです。放送もCDも無い時代、音楽を伝達するメディアの本拠地は劇場でした。ヴィヴァルディの音楽がヨーロッパを席巻し、今日まで数多く遺されているのに比して、残念ながらベネデット・マルチェッロの曲は、イタリアンバロックの資料としてしか存在していません。

  やがてグルックが登場し、モーツァルトが「フィガロの結婚」(1786年)、「ドン・ジョバンニ」(1787年)、「コシ・ファン・トゥッテ」(1790年)、「魔笛」(1791年)と立て続けに歴史的な大名作を連発した後に、オペラは今日の姿を形づくりはじめます。

(さらにつづく)

   
  

  

  
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ベネデット・マルチェッロとヴェネツィアの音楽

2008-08-30 | ■芸術(音楽、美術、映画、演劇)
■Venice GR Digital (C)Ryo

  ベルリン・フィルの首席オーボエ奏者、アルブレヒト・マイヤーのCDアルバムが出たので聞いてみました。

  Albrecht Mayer in Venice というタイトルで、文字どおりビバルディやマルチェッロなど、17-18世紀のイタリア・ヴェネツィアを中心に活躍した作曲家たちの作品を集めたものです。

  全部で17あるトラックのうち、私はとりわけ11番目のトラック、ベネデット・マルチェッロ (Benedetto Marcello)の Canzona:Se morto mi brami perche non m'uccidiに心を動かされました。

  夏休みのあいだ外で騒いでいた近所の子供たちの声が鎮まり、大掛かりなスポーツの祭典が終わり、折からの長雨に蝉の声も聞こえない…、夏の強烈な光が去る間際、祭りが去った後の心の隙間にそっと忍び込むような旋律、それがマルチェッロの作品から聞こえてきました。

  それは同時に、17世紀から18世紀にかけて、ヴェネツィアのオペラ劇場を中心に連夜繰り広げられていた喧騒と享楽の日々を、緞帳の後ろに立って静かに見つめていたマルチェッロ自身の心の声のようにも聞こえました。

  ベネデット・マルチェッロ=1686年ー1739年、イタリアの貴族にして作曲家、兄のアレッサンドロ・マルチェッロは、映画「ベニスの愛」で有名になったオーボエ協奏曲を書いた人です。ベネデット・マルチェッロには、1720年頃に出版した「当世流行劇場=Il Teatro Alla Monda」という著作があり、これは小田切慎平さん、小野田香織さんの二人によって翻訳され、日本語で読むことができます(未来社刊行)。

  この本の内容を、訳者の小田切さんが書いた解説から抜粋してみましょう。

  『ベネデット・マルチェッロは、由緒あるヴェネツィアの貴族として生まれ、二十一才でヴェネツィア共和国大委員会委員、二十五才で弁護士、三十才でヴェネツィア共和国で財政を主として受け持つ四十人委員会委員となるなど、政府の要職を歴任した政治家です。最後は五十二才で、ヴェネツィアの西一七〇キロに位置し、ミラノにほど近いプレシアの司教座聖聖堂参事会の議長として赴任し、結局ヴェネツィアに帰ることなく、翌年その地で死去しました。』

  (中略)

  『その、ベネデット・マルチェッロが、一七二〇年、三四才の時に出版したのが、この「当世流行劇場」という小冊子でした。匿名で出版されたこの小冊子の値段は、当時としては手頃な三〇ソルディ(二〇ソルディ=一リラ)。オペラの台本と同じ大きさの安っぽい紙に印刷され、値段は、ヴェネツィアでも、大衆的な劇場であったサンタンジェロ劇場の入場券とだいたい同じくらいでした。そして、その内容は、当時の百鬼夜行ともいうべきオペラ業界の姿を辛辣に暴き立て、そこに巣食っている、台本作家、作曲家、カストラート、男性歌手、女性歌手、劇場支配人、演奏家、舞台装置家、背景画家、踊り手、ブッファ役、衣装係、写譜係、女性歌手のパトロンや母上、などありとあらゆる人々が、いかにオペラで手抜きをして、成り行き任せで、ずる賢く、名誉や利益を求めて、うまく立ち回ろうとしているかを描き出しているのです。』
 
  『そして、その最大の矛先は、当時サンタンジェロ劇場を活動の中心とし、作曲家、劇場支配人、興行師として辣腕をふるい、何本もの自作のオペラを上演していた、アントニオ・ヴィヴァルディに、そうあの「四季」で有名な作曲家のヴィヴァルディに向けられていたのでした。』

(つづく)

  

  
  

  
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パルミジャーノ・レッジャーノとサラダ

2008-08-26 | ■世界のグルメ
■Konica Digital Revio (C)Ryo

  この手のサラダ、日本で食べたくてもなかなかお目にかかれません。ドサッと盛って、チーズも大判振る舞い!

  これを食べたあと、体の中の血液がサラサラと流れる音が聞こえてきそうな一品です。

  
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3種のパスタ

2008-08-25 | ■世界のグルメ
■Konica Digital Revio (C)Ryo

  これは、日本でもおなじみのゴルゴンゾーラのペンネ、ジェノベーゼ(バジル風味)のパスタ、トマトソースのペンネを盛り合わせたもの。

  盛り合わせの妙と言いましょうか、いかにも美味しそうな風情です。日本にあるイタリアン懐石のようなものは、どうもしっくしきません。女性向けに上品に盛られたイタリアン懐石には、アドリア海の潮風を感じません。この3種のパスタ、上品な盛りつけとは言えませんが、ある種の荒々しさの奥に潜む料理本来の力のようなものを感じます。

  
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サーモンのタリアッテレ

2008-08-24 | ■世界のグルメ
■Konica Digital Revio (C)Ryo  

  番外編としてアップしておきます。ここはホイリゲではありません。撮った季節も異なります。

  ここは地元の人しか知らないウィーンのイタリア料理店。美しいガーデンで食事ができる仕掛けになっています。

  本日は、サーモンのタリアッテレをご紹介します。パスタそのものは超アルデンテで、私にはちょっと重すぎました。

  とはいえ、昨日のブログと同じく、やはり自然の空気の中でいただく料理こそが最高の味わいを与えてくれます。(番外編つづく)
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これが全景!

2008-08-23 | ■世界のグルメ
■Konica Digital Revio KD400Z (C)Ryo

  パーツごとに見てきましたホイリゲの料理、これが全景です。一週間お付き合いいただき、ありがとうございました。

  ドイツ料理に豚肉(Schweinefleisch)は欠かせません。日本でも有名なのはアイスバイン(Eisbein)、塩漬けにした豚の足の骨付き肉を柔らかく茹でた料理です。これには、先日ご紹介したザウアークラウトが付け合せに使われます。

  片仮名で書くと全く同じアイスバインですが、ドイツ語のスペルではEisweinというものがあります。ドイツ最高クラスの貴腐ワインの名称で、凍結した葡萄が原材料となります。甘口のドイツワインがお好きな方なら、よくご存知だと思います。

  これで料理は揃いました。最後に、写真ではご紹介できない最高の味付けがあります。それは、このホイリゲ全域に流れる清涼な空気。大自然の中で大自然の賜物を授かる、やはり私たちは、何が何でも元気で生きていなければならないのです。

  
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パン

2008-08-21 | ■世界のグルメ
■Konica Digital Revio KD400Z (C)Ryo

  そして、パンです。日本のベーカリーで買うことのできるパンは、ほとんどが柔らかく舌触りのよい生地で出来ていますが、ヨーロッパに行くと、重くてざらついていて、「硬派」と呼びたくなるツワモノのパンが揃っています。

  このホイリゲで出されたパンも、まさしく硬派そのもの。よほどアゴが頑丈でないと太刀打ちできませんが、味わいは格別です。(つづく)

  
  
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ザウアークラウト

2008-08-20 | ■世界のグルメ
■Konica Digital Revio KD400Z (C)Ryo

  ザワークラウトこと、ザウアークラウト(Sauerkraut)です。広辞苑には以下の解説が…。『ドイツの漬物の一種。キャベツの細切りを薄塩で漬け、自然発酵させたもの』。また、クラウン独和辞典によると、『ザウアークラウト=千切りのキャベツに塩や香辛料を加えて発酵させて作る』とあります。

  sauer(ザウアー) は英語で sour(サワー)、要するに酸っぱい、酢に漬けたという意味。kraut(クラウト)は、もちろんキャベツの意味ですが、ハーブや薬草といった別の意味もあります。

  面白いのは、『(食用にならない)雑草』という意味もあって、Das macht das Kraut nicht fett.(それも役に立たない、それも大差ない)などという言い方もあるようです。

  ドイツ料理店でソーセージの付け合せになっているザウアークラウト、私たちにとってはありがたい健康食品です。(つづく)
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サラダ

2008-08-19 | ■世界のグルメ
■Konica Digital Revio KD400Z (C)Ryo

  料理を選ぶタイミングの写真が無いのが残念…。客は、美味しそうに盛られた料理の数々を、ショーウィンドウ越しに品定めして注文します。

  まずはサラダ。いかにもビールに合いそうですが、ここはあくまで白ワインで押し通します。(つづく)
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自然の恵み

2008-08-18 | ■世界のグルメ
■Konica Digital Revio KD400Z (C)Ryo

  昨日ご紹介した店の看板の前を通って進むと、ご覧のとおりのブドウ畑+テーブル&椅子という情景になります。

  これがワインヤードに設けられたウィーン風居酒屋「ホイリゲ」。『とりあえず、生ビール中ジョッキー!』は通用しません。ここに用意されているのはワインだけ、それも白ワインがほとんどです。

  この写真を撮ったのはイースターの時期、もちろんブドウはまだまだ実ってはいません。しかし、この地から産み出されるワインも、ここで味わうことのできる野菜も肉も、すべては自然からの贈り物。私たちの生命の根源は自然の賜物、そのような事々を深く感じさせる環境こそが、ホイリゲの魅力でもあります。

  風の歌を聴きながらワインを楽しむ…、しばらくこの時間におつき合いください。(つづく) 

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ウィーン郊外にあるホイリゲ

2008-08-17 | ■世界のグルメ
■Konica Digital Revio KD-400Z (C)Ryo

  昨日ご紹介した料理の原型を、本日から連載でお届けします。

  ウィーン市内から車で40分ほどの郊外にあるホイリゲの玄関口。その看板に大きく書かれていたのは「毎日営業」の文字!

  驚くことに、営業時間は月曜から金曜が15時から24時まで。さらに、土曜、日曜、祝日は12時から24時までというもの。地元の人でなければ知らないような場所ですが、近くにバス停があるわけでも電車の駅があるわけでもありません。ホイリゲと言えば、ワインを飲みにくる場所。ウィーンにも運転代行というものがあるのでしょうか?

  ぶどう畑を眺めながら、屋外で楽しむ料理とワインは格別です。(つづく)
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