2020@TOKYO

音楽、文学、映画、演劇、絵画、写真…、さまざまなアートシーンを駆けめぐるブログ。

■ヘミングウェイの流儀

2010-05-20 | ■文学
  書店で「ヘミングウェイの流儀」という本を見つけて早速購入しました。

  帯のコピーはこんな感じです。『愛用品が語る誰も知らなかった文豪  遺された作品と、一万点に及ぶ遺品、領収書、写真、手紙類の吟味から浮かび上がってきた、まったく新しいヘミングウェイ像』。

  ページを開くと目に飛び込んだのはアバクロのサンバイザー!ちょうど、同じメーカーのポロシャツを買ったばかりだったので、思わず嬉しくなりました。
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■ジュール・シュペルヴィエル

2010-04-29 | ■文学
  ジュール・シュペルヴィエルという詩人の名前はよく知りませんでした。

  友人と、ランボーだのボードレールだのといったフランスの詩人たちの話をしていたところ、シュペルヴィエルの名前が挙がったのです。

  さっそくアマゾンで調べて、「海に住む少女」と「シュペルヴィエル詩集」を送ってもらいました。

  シュペルヴィエルは生粋のフランス人ですが、生まれは南米のウルグアイです。彼自身はフランスとウルグアイの国籍を持っており、両国を行き来していたようです。

  「海に住む少女」の訳者、永田千奈さんによると、『悲しみでも苦しみでもない、切ない気持ちで胸がいっぱいになり、涙がこぼれそうになる』のだそうです。

  読むのが楽しみです。
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新祖国論

2007-10-08 | ■文学
  
  辻井喬氏の「新祖国論」を読んでいたら、9月30日のブログに書いた上田敏の「海潮音」にふれる一節があった。

  「新祖国論」は、辻井喬氏が信濃毎日新聞に一年間掲載したエッセイを一冊の本にまとめたもの。言うまでもなく、辻井喬氏は元西武セゾングループの代表、堤清二氏である。

  堤氏は、1974年7月12日から12月27日まで、日本経済新聞の「あすへの話題」というコラムを担当していた。政治から芸術まで、幅広い話題を文学者の筆力で簡潔に書ききる仕事は、私自身の文章修行にもっとも大きな影響を与えてくれた。当時のコラムの切り抜きを貼り付けた大学ノートは、今も私の手元にある。これらのコラムのいくつかは、いまだにそらんじることができるほど、熟読したものだ。

  「新祖国論」も「あすへの話題」同様、豊かな知性を背景に現代を鋭く見通す堤氏の面目躍如たる随筆集である。それにしても何と言う碩学ぶり。

  上田敏の「海潮音」は、「先人たちが、日本の近代化に払った情熱を思う」という項に出てくる。この項の大要は以下のとおり。

  明治維新後、欧米の文化芸術を導入紹介した先人の苦労はたいへんなものであったにちがいない。工業技術や自然科学などは何とか翻訳の言葉を当てはめることができたかもしれないが、哲学や歴史、思想、芸術論などは、そのまま日本の言葉を当てはめても、意味が通じない場合が多かった。したがって、明治の指導者たちは、今よりもずっと多くの原書に目を通さなければならなかったのだ。
  
  上記のような文脈の中で、辻井喬氏は次のように書く。『すくなくとも明治の人たちは、新しい国を興すためには、新しい理念、思想、哲学が必要であることを知っていた。できあいの“手続き民主主義”で間に合うと思いこんでいる今日の指導者よりもはるかに深く物事を考えていたということができそうだ』。

  そうして辻井喬氏は、上田敏の「海潮音」からガブリエレ・ダヌンチオの「燕の歌」、つぎにカアル・ブッセの「山のあなた」を挙げてつぎのように締めくくる。

  『この詩などは名訳ぶりが、原作の詩境を凌駕しているのではないか。こうした、詩の日本語への移し替えも含めて、僕らは先人たちが日本を近代的な、欧米に劣らない現代文化の国にするために払った情熱を受け取らなければならないだろう』。

  
  「山のあなた」  カアル・ブッセ

  山のあなたの空遠く
  「幸(さいわい)」住むと人のいふ。
  噫(ああ)、われひとゝ尋(と)めゆきて、
  涙さしぐみかへりきぬ。
  山のあなたになほ遠く
  「幸」住むと人のいふ。

  
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■審判

2007-08-23 | ■文学
  
  高校野球の事は何も知らない。昨日、決勝試合が行われ、佐賀北高校という学校が優勝したらしい。毎年夏になると、高校生が必死になって野球をしている姿がテレビに映るので、これが高校野球というものか…と思いながら、漠然と画面を見ていることが多かった。

  今回の決勝戦では、相手チームの監督が、審判の判定に抗議するという出来事があったらしい。また、これは、高校野球では珍しいことなのだという。

  これだけ技術が進歩しているのに、スポーツの判定は、ほとんどの場合、相変わらず人の判定にゆだねられる場合が多い。フィギア・スケートの芸術点というものが最たる世界だが、野球のストライクやボールの判定も、そろそろ機械化したらどうかと思うことがある。

  サッカーもしかり。要するに、人の目と手による判定が行われるスポーツは、常に不平等を伴い、八百長を誘発する恐れがある。それほどに、我々が日ごろ目にするスポーツには、納得できない判定が多い。

  2000年10月、私はポーランドのワルシャワで、ショパン・コンクールの全貌を見た。音楽コンクールこそ、実体を掴むことが難しい芸術の評価を、(経験豊富といわれる)人間が下すものだ。

  私が投宿したのはビクトリア・ホテル。ワルシャワでは第一級の宿で、ショパンコンクールの審査員が全員泊まっていた。コンクールの受験者は、このホテルに寄りつくことさえ許されていなかったにもかかわらず、日本人の受験者の女性が、ビクトリア・ホテルの朝食ビュッフェにいる光景を何度も目撃した。

  あの時は、毛皮に身を包んだ金持ち風中国人がワルシャワの町を闊歩しており、結局のところ、ショパン・コンクールそのものが、中国と日本の学生に占拠されたような印象があった。実際、一位と三位は中国の学生だった。

  野球もピアノも、スケートも文学も、人が人を評価(検定)するものは、なかなか胡散臭い。生涯、とうとう芥川賞をとることができなかった太宰治の手紙(佐藤春夫、井伏鱒二宛)は、このことを胸が詰まるほどに訴えかけてくる。

  太宰を芥川賞に選ぶことがなかった川端康成は、選評にこう書いた。「この二作は一件別人の如く、そこに才華も見られ、なるほど『道化の華』の方が作者の生活や文学観を一杯に盛っているが、私見によれば、作者目下の生活に厭な雲ありて、才能の素直に発せざる憾みがあった…」

  これに対して、太宰は文藝春秋に次のように反論した。「お互いに下手な嘘はつかないことにしよう。私はあなたの文章を本屋の店頭で読み、たいへん不愉快であった。これでみると、まるであなたひとりで芥川賞をきめたように思われます」。

  スポーツの場合、審判員の判定は反論の余地がないらしい。だから、わたしは、スポーツより文学の方が好きだ。文学の判定も覆られないものなのかもしれないが、少なくとも審判を受ける人間と判定する人間の位置は水平である。『あなたの文章を本屋の店頭で読み…』、川端の書いたものなど、立ち読みで十分!なんとカッコいい反撃!

  

  
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■オン・ザ・ロード

2007-07-06 | ■文学
  
  東京国際ブックフェアに行ってきた。年々、その規模が小さくなるようで寂しいかぎりである。とはいえ、それぞれの出版社は、(おそらく予算を削りながらも)工夫をこらして自社の特長をアピールしている。

  ブックフェアのお目当ては、ほとんどの書籍が2割引で買えること。とくに、日ごろなかなか書店の棚に並ばない人文、社会科学系の書籍が安く手に入るばかりでなく、その全貌を閲覧できるのだから、これは収穫である。みすず書房や白水社の本は、背表紙を見ているだけで心が安らぐ。

  今回は、平凡社ライブラリーから2冊、そして河出書房新社の外国文学を1冊買って帰った。「世界の歌」ジャン・ジオノ著。帯表1のコピーは、「行方不明の息子を探す老父と木や魚と話せる詩人のような男が織りなす荘厳な旅物語」(原文のまま。読点はない)。訳者の山本省氏は長いあとがきを書いているのだが、そのごく一部が帯の表4に引用されている。こんな感じだ。「世界の歌」というタイトルにふさわしい物語を書きたいという野心をジオノは持っていた。……「世界」とは、人間の世界であると同時に、動物や植物さらに山や河や平野など自然界のありとあらゆる世界でもある。……二人の主人公を中心に、漁師、きこり、医者、牛飼い、革職人など、多彩な人物が繰り広げる壮大な感動の物語。

  「世界の歌」というタイトルに一目ぼれし、帯のコピーに惹きつけられて、迷わず購入。書き出しの三行だけ、どうしても紹介したい。「夜。河は森のなかを両肩でぐいぐい押すように流れていた。アントニオは島の先端まで進んだ。先端の片側では水は深く、猫の毛のように滑らかだったが、もう一方の側では浅瀬のいななきが聞こえていた。アントニオは楢(なら)の木に触れた。手を通して木の震えを聴いた」。どうです?読みたくなるでしょ!

  河出書房新社から、嬉しいニュースを聞いた。今どき、なんと世界文学全集が刊行されるのである。ブリタニカや平凡社など、百科事典の全盛期があったように、大手出版社が文学全集を競って発行していた時期があった。百科事典は電子辞書に姿を変え、文学全集も、いつの間にか消えていった。猫も杓子もデジタルな時代に、世界文学全集全24巻刊行開始!嬉しいではないですか。何が?って、出版社としての姿勢です。これこそ、「版元の魂」と呼びたい。観音開きのパンフレットには、本文組み見本が原寸で載っている。ああ、まるで昭和にタイムスリップしたみたい。そうそう、昔の文学全集には編集委員というのがいて、それを冠とした各社の差別化があった。ところがである。今回の全集は編集委員たった一人。池澤夏樹=個人編集と堂々と謳ってある。

  今回のブログは引用が多い。引用が多いと長くなる。長くなるとブログを読んでくれる人が少なくなる。どうでもよい。これだけは、絶対に読んでいただきたい。パンフレットに記されている池澤夏樹氏の言葉、これぞ名文の見本である。これもまた無断引用だが、宣伝と思って許して欲しい。では引用します。

  世界文学全集宣言 人が一人では生きていけないように、文学は一冊では成立しない。一冊の本の背後にはたくさんの本がある。本を読むというのは、実はそれまでに読んだ本を思い出す行為だ。新鮮でいて懐かしい。そのために、「文学全集」と呼ばれる教養のシステムがかつてあった。それをもう一度作ろうとぼくは考えた。三か月で消えるベストセラーではなく、心の中に十年二十年残る読書体験。その一方で、それは明日につながる世界文学の見本市、作家を目指す若い人々の支援キットでなければならない。敢えて古典を外し、もっぱら二十世紀後半から名作を選んだのはそのためだ。世界はこんなに広いし、人間の思いはこんなに遠くまで飛翔する。それを体験してほしい。

  世界はこんなに広いし、人間の思いはこんなに遠くまで飛翔する。この一言で、この全集は『買い!』である。刊行には心憎い仕掛けがしてある。こういう仕掛けを見ると、「分かってる奴が編集してるなあ」と同業者ながら感心してしまうのである。その仕掛けとは、第一回配本がジャック・ケルアックの「オン・ザ・ロード」なんですよ。あの「路上」ですよ。おお!半世紀ぶりの新訳、しかも訳者は青山南さん。帯の写真は藤原新也さん。琴線にふれるどころか、琴線をジャカジャカかき鳴らされるような仕掛けではないですか。多くの若者たちをインスパイアし続けたあの作品の新しい翻訳が現れるなんて(ほとんど泣きそうです)。

  「アデン、アラビア」も小野正嗣さんの新訳でラインアップされる。長い間ずっと篠田浩一郎さんの訳でしか読めなかった青春の書。あの頃、みんなが覚えていたあの有名な書き出しは、どのように変わるのだろう?「ぼくは二十歳だった。それが人の一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい」。これがどんなふうになるのだろう?楽しみ。

  他には、デュラス、グラス、モラヴィア、ピンチョンなど、全巻一時払い特価59,800円。これは2008年3月末日まで有効だから、じっくり考えましょう。

  (写真は、ジャン・ジオノ)
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