2020@TOKYO

音楽、文学、映画、演劇、絵画、写真…、さまざまなアートシーンを駆けめぐるブログ。

恢復について

2010-11-10 | ■エッセイ
  本当に、怒涛のような数ヶ月間でした。5月の連休から昨日まで、その間に生起した激しい事ごとは思い出すだけでも、頭が痛くなってきます。仕事環境の激変、親の病気、子の結婚、引越し……、誰の身の上にも起こりうる事ごとですが、これが短期間にのうちに立て続けにやってくると、さすがに「疲れた…」という気分になります。まして、今の年齢ともなれば。
  
  この半年間、不思議なことに、本が読めないという突発的な「やまい」にさいなまれていました。

  書店で本を選び、買って帰りはするのですが、ほんの数ページを読むと気が散ってしまう。気が散るだけではなく、場合によってはひどい睡魔に襲われる。ただ、本を読みたいという欲求は以前にも増してあるので、次第に読まない本ばかりがたまってしまいました。

  そんな折、つい数日前にロベルト・コトロネーオの「ショパン 炎のバラード」という本に出会い、いっぺんに「やまい」は吹っ飛びました。ツイッターでも報告済みですが、久々に本を読む歓びを感じ、活字に神経を集中する快楽を思い出しました。それと同時に、ここ数カ月の間、本が読めなくなったことで、密かに『脳がダメになったのかもしれない』と悩んでいたことが杞憂だったと分かり、少しはホッとしたわけです。

  また、現在もっとも信頼できる映画評を論じてくれる長男に誘われて、ホセ・ルイス・ゲリンの「シルビアのいる街で」を見に行ったのですが、フランスの古都ストラスブールを舞台に、日常的な光景の断片が淡々とコラージュされる中で、実在と不在、正しい像と逆の像、魂と肉体……、といったテーマが深く胸に迫りました。じつはこの半年間、脳と共に感受性まで枯渇したような心持がしていただけに、これも嬉しい体験でした。

  書籍や映画との出会いが私を憔悴の淵から救ったのかもしれませんが、もうひとつ、毎朝バッハをピアノで弾いてから仕事に出るというここ数週間の習慣のようなものにも意味があるような気がしています。バッハの平均律クラヴィーア第1集、第1曲は文字どおり7つの全音と5つの半音からなる12の音の組合せ、そこから生まれる和声感の見本帳のような音楽ですが、これをテンポを変えたり、基音となる音を自由な発想で組み替えたりしてみると、残響の中に混じりあってなお何かを語ろうとする音の姿が立ち昇ってくるのが見えるようで、毎朝ほんとうに楽しい気分になります。それは、ちょっとおかしな喩えかもしれませんが、仏教やキリスト教、イスラム教などの経典を唱えるような心持なのかもしれません。

  こういう状況を恢復と呼ぶのでしょうが、私くらいの年齢になると「悪い状態になったものが、もとの状態に戻ること」という恢復本来の意味よりはむしろ、「一度失ったものを取り戻すこと」という別の解説の方に共感を覚えます。

  恢復に歩調を合わせるように、徐々にブログも書き始めるつもりです。いま企画しているのは、「三軒茶屋逍遥」と「たまプラーザ日記」という2本の異なる写真ブログ。三軒茶屋はフェリーニ、たまプラーザはタルコフスキーを基調にしています。とくに、たまプラーザは、まさにタルコフスキーがゾーンと呼んだ地帯のようで、興味は尽きません。ご期待ください。

  
コメント
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