2020@TOKYO

音楽、文学、映画、演劇、絵画、写真…、さまざまなアートシーンを駆けめぐるブログ。

ドンファンという名のゴルファー

2007-10-29 | ■エッセイ
  
  昨日のゴルフ中継は男子も女子も目が離せない展開となった。とくに男子の「ABCチャンピオンシップゴルフトーナメント」と「日本シニアオープンゴルフ選手権」。

  後者は青木功が65というエージシュート(自分の年齢と同じスコアでホールアウトすること)を達成、シニア層に元気を与えてくれた。

  最後までハラハラして、しかもラストが感動的だったのが「ABC…」。すったもんだの末、最後はフランキー・ミモザ(47歳)とドンファン(20歳)のプレイオフによる決着となった。

  ミモザの第2打は見事にグリーンをとらえた。しかし、ドンファンのボールは無常にも池の中へ。ドンファンは奇跡を信じて池からのショット!しかし、ボールは池を出たものの、グリーンには及ばない。万事休す!

  ここで亀田兄弟なら、悔し紛れに相手を抱えて投げ飛ばしたかもしれない。20歳のドンファンは素直に負けを受け入れながらも、ギブアップすることなく、最後のパットを沈めた。

  ゴルフは、ボクシングのように直接腕をふるって相手を倒すスポーツではない。自分の技と集中力、その「強さ」を相手に見せつけることによって、精神的に勝ちを呼び込むスポーツである。

  「たった一打に泣き、たった一打で勝利する…」。その結果が、一生を支配するわけではなく、まるで人生のように何度でも異なる試合に挑戦し、やり直しができる。これからドンファンは、アメリカのツァーに参加する資格テストを受けるのだという。昨日の「悔しい負け」は、20歳の青年の心に大きな財産となって残るに違いない。

*ドンファン(写真)
高麗大学に通う学生ゴルファー。2003年「韓国ジュニア」「韓国アマ」に優勝した後、2004年の「日本アマ」でも優勝。韓国ナショナルチームの代表選手。
  

  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブルース・スプリングスティーン

2007-10-25 | ■芸術(音楽、美術、映画、演劇)
  
  この夏に独立して居を構えた長男が、ブルース・スプリングスティーンの新しいアルバムのリリースを教えてくれた。携帯に届いた彼のメールは次のとおり。

  ハロー!
  ブルース・スプリングスティーンの新譜を聴きましたか? 
  あの歳にしてあそこまでみずみずしくきらびやかなロックンロール・アルバム  を作り上げるとは思いませんでした。
  ちっとも枯れちゃいないボス! 必聴だと思います。

  宣伝コピーとして使えるなあ、などと思いつつ、「そこまで言うなら」ということで、とりあえずCDは購入した。さきほど買ったばかりなので、まだ聴いていない。聴いてはいないのだが、内容は良さそうだ。何しろ、ジャケットがいい。いくらか歳をとった感じのブルースの大写しだが、意志の強さが浮かぶ表情は相変わらず。

  今回は、Eストリート・バンドと5年ぶりのアルバム共演ということで、ロック・スピリッツが横溢する仕上がりであることは容易に想像ができる。

  それこそ、「必聴だと思います」。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

smc DA21mm F3.2AL Limited

2007-10-23 | ■東京の光と影
■K10D smc PENTAX 21mmF3.2AL Limited ISO800 (c)Ryo
  
  一眼レフ・カメラの楽しみのひとつはレンズ交換、しかも各種のズーム・レンズを自由に使えることだろう。ましてデジタル一眼ともなれば、撮影した写真をすぐに確認できるので、さまざまなレンズを楽しむ醍醐味が満喫できる。

  私はペンタックスK10Dにsmc DA18-55mmを装着して撮影していた。しかし、ペンタックスは強烈に個性的なレンズ群を発表していたのだ。なんと今さらながらの単焦点レンズ。21、40、70ミリがリリースされていて、それらには、あえてLimited=リミテッドという名が冠せられている。

  ニコンやキャノンのユーザーが、あえてこのリミテッド・レンズを使いたくてペンタックスのボディを購入しているという話を聞いて、居てもたってもいられなくなり、21mmを買いに走った。

  リミテッド・シリーズは、すべてパンケーキ・タイプと呼ばれる超薄型である。レンズを装着してもボディの奥行きはあまり変わらない。これなら日常の持ち歩きも可能である。

  まだ試し撮りをする暇がないのだが、とりあえず我が家の犬さまを撮ってみた。じつは、このレンズについて書かれたブログがネット上に数多く存在するのだが、その中のひとつに猫を撮ったものがある。これがじつに見事な写真で、猫そのものの体温を感じるような仕上がりになっている。

  私の写真が犬の体温を感じさせているかどうかはともかく、このレンズが、なかなかの描写力であることが分かる。日常的に持ち歩いて、どんどんライブラリーを増やすことにしたいと思っている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

才アケタのつぎは、天才グールド

2007-10-22 | ■芸術(音楽、美術、映画、演劇)

  昨日は、天才アケタの「シチリアーノ」について書いた。セッション中に演奏者同士が殴り合いの喧嘩をはじめるという『貴重な』CDについての事々だ。

  そこで、有名なマイルスとモンクのクリスマス・セッションのことについて少し触れたが、その後、クラシック界での喧嘩セッションを思い出した。厳密にいえば、これは喧嘩セッションではなく、『意見が合わないけど、とりあえず演奏しちまえ!』というやけくそセッションである。

  グレン・グールドという不世出の大ピアニストが、早い時期からライブ活動をピッタリと止めてしまい、レコード録音の世界に没入したのはご存知のとおり。とはいえ、若い頃は演奏活動もしていて、それらは正規盤、海賊盤問わずそこそこ市場に流通している。

  その中でもこれは、正規盤ながら異色の一枚。グールドがブラームスのピアノ協奏曲第1番を弾いたもので、伴奏はレナード・バーンスタイン指揮によるニューヨーク・フィル。

  何が異色か?じつは、演奏が始まる前に、指揮者バーンスタインによる異例のスピーチがあり、これがそっくりレコード(CD)に収録されているのだ。スピーチの内容はこんな感じ。『グールド氏と私はこの曲の解釈に関して意見があわない(筆者注:たしかテンポについてだったと思う)。したがって、これからの演奏はそのような事情を背景に行われることを分かってほしい』。

  共に超大物同士の大ハプニングである。さて、演奏がいかなるものに仕上がっているか?一度、聞いてみる価値はある。HMVのネット通販では、1,213円で買えますよ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天才アケタ

2007-10-21 | ■芸術(音楽、美術、映画、演劇)
  
  久ぶりに天才アケタと飲んだ。今回はオランダから来たジャズ評論家を交えての激論、場末=旗の台の夜は熱く燃えた。

  議論のテーマは、小澤征爾からカール・シューリヒト、レニー・トリスターノ、シュトックハウゼン…などあちこちを飛び回り、いつものように結局は何の結論も出ないままお開きとなった。

  その席で、アケタズ・ディスクの新譜をもらった。「シチリアーノ」というアルバム。AKETAのピアノのほかに、藤井義明(サックス)、翠川敬基(チェロ)というトリオの壮絶なライブである。何が壮絶なのか?なんと、プレーの途中で藤井と翠川の口論~殴り合いが始まり、その様子がCDに収録されているのだ。

  殴り合いの真の理由は、天才アケタにもはっきりとは分かっていないらしい。藤井と翠川が、3曲目の「シチリアン・マフィア・ブルース」の途中でただならぬ雰囲気になっても、アケタだけは粛々とピアノを引き続けている姿が目に浮かんで可笑しい。

  アケタズ・ディスクはアケタ自身の筆による軽快なライナーノートが付いていて、これが演奏と同じくらい楽しいのだが、「シチリアーノ」のライナーノートには、藤井と翠川が、ライブ開始前から揉めはじめていた様子が書いてある。ライブ本番が始まる前に、フリージャズか、4ビートかを巡って、ライブハウス近くの飲み屋で二人が揉めはじめているくだりには驚ろかされる。ライブが始まる前に酒を飲んで喧嘩がはじまり、それが演奏の途中に再燃するなど、音楽を生真面目に考えているひとには許せない話かもしれない。

  奏者同士の喧嘩という話は、やはりマイルスとモンクのクリスマスセッションを思い出させる。1954年12月、マイルス・デイビスとセロニアス・モンクが共演した唯一無二の録音。一触即発状態でスタジオに入った二人の恐ろしーい歴史ドキュメントであるが、これは別の機会に書く。

  何はともあれ、アケタズ・ディスクの「シチリアーノ」は、ふやけた日本の音楽界に楔を打ち込む超強力盤である!お奨めです。

  *天才アケタ=明田川荘之(あけたがわ しょうじ)。ジャズ・ピアニストにして、西荻窪にあるアケタの店のオーナー。アケタの店に隣接する工房で制作されているアケタ・オカリーナは、日本製オカリナの最高峰である。アルバム「シチリアーノ」の中でも天才アケタのオカリナ演奏が聞ける。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黄桜

2007-10-13 | ■エッセイ
  
  日本酒・黄桜のテレビCMがなかなかいい。小林投手と江川投手、「空白の一日」からずいぶん時が経って、二人が一献傾ける情景のなかに和解の兆しを演出する。

  水に流すという表現、私たちはいつの間にか忘れてはいませんか?

  インターネットの闇サイトと呼ばれるものが話題になっている。「怨みを晴らす」という、まるで闇の仕置き人のような商売が、本当に存在しているらしい。そのように書くだけでもおぞましい話である。

  何故、こだわるのか。何故、怨むのか?

  つきつめて考えるべきではないことが、世の中にはたくさんある。ある意味での思考停止。適当なところで手を打って、あとは考えない。重い荷物は苦労して運ぶよりも放り出してしまう方が楽なのだ。

  黄桜、重荷を放り出したあとの一献。

  *「空白の一日」=どうしても巨人軍に入りたい江川卓、どうしても江川を獲得したい巨人軍、この両者がありとあらゆる奇策を使い、ついには目的を達成した事件のこと。江川はいったん阪神に入団、その直後に阪神と巨人間のトレードで念願の巨人入りを果たすこととなった。江川の身代わりとなって阪神に移籍したのが、小林繁である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

地に降る涙のように

2007-10-10 | ■芸術(音楽、美術、映画、演劇)
  
  連休最後の月曜日は一日中雨が降っていたので音楽を聞いて過ごしていた。

  テオ・アンゲロプロス監督の「エレニの旅」のサントラ盤。作曲は、アンゲロプロス作品の常連であるエレニ・カラインドルー。「永遠と一日」も「ユリシーズの瞳」も彼女のスコアによるものである。

  「エレニの旅」は、1919年から1949年のギリシャが舞台。ロシア革命の勃発が1917年、革命を逃れオデッサから逆難民となって帰国したギリシャ人たちの悲劇を、エレニというひとりの女性の目を通して描く大作である。

  映画の中では、アコーディオンが重要な役割を演じるが、カラインドルーの作品も、この楽器の哀愁をおびた音色をたくみに使いながら、ストリングスやピアノ、ハープなどをからませてゆく。その音楽は、映画全編をつらぬく灰色に曇った欧州の空に、あまりにも哀しく響きわたる。

  アンゲロプロスはこの作品について次のように語っている。「無垢から情熱的な悲劇へ。私のどの映画よりもこれは、人の運命への哀歌だ」。

  ひとつの村が水没してゆくシーンは、人々の悲劇に戦慄をおぼえつつも、言いようのない情景の「美しさ」に胸をうたれる。水はすべてを流し去りながら、人々に再生の生命力を与えてくれる。闘争から諦念、そして再生へ。

  水は、この映画にとって重要な役割を演じる。オキナワで戦死するエレニの夫が最後に妻に書き送った手紙。これがこの映画のテーマであり、カラインドルーの音楽も、まさしくこの最後の言葉のような響きをもっている。雨の日にこの音楽を聞くと、それをますます強く感じる。

  “君が手を伸ばして葉に触れ、水滴がしたたった…。地に降る涙のように”
  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新祖国論

2007-10-08 | ■文学
  
  辻井喬氏の「新祖国論」を読んでいたら、9月30日のブログに書いた上田敏の「海潮音」にふれる一節があった。

  「新祖国論」は、辻井喬氏が信濃毎日新聞に一年間掲載したエッセイを一冊の本にまとめたもの。言うまでもなく、辻井喬氏は元西武セゾングループの代表、堤清二氏である。

  堤氏は、1974年7月12日から12月27日まで、日本経済新聞の「あすへの話題」というコラムを担当していた。政治から芸術まで、幅広い話題を文学者の筆力で簡潔に書ききる仕事は、私自身の文章修行にもっとも大きな影響を与えてくれた。当時のコラムの切り抜きを貼り付けた大学ノートは、今も私の手元にある。これらのコラムのいくつかは、いまだにそらんじることができるほど、熟読したものだ。

  「新祖国論」も「あすへの話題」同様、豊かな知性を背景に現代を鋭く見通す堤氏の面目躍如たる随筆集である。それにしても何と言う碩学ぶり。

  上田敏の「海潮音」は、「先人たちが、日本の近代化に払った情熱を思う」という項に出てくる。この項の大要は以下のとおり。

  明治維新後、欧米の文化芸術を導入紹介した先人の苦労はたいへんなものであったにちがいない。工業技術や自然科学などは何とか翻訳の言葉を当てはめることができたかもしれないが、哲学や歴史、思想、芸術論などは、そのまま日本の言葉を当てはめても、意味が通じない場合が多かった。したがって、明治の指導者たちは、今よりもずっと多くの原書に目を通さなければならなかったのだ。
  
  上記のような文脈の中で、辻井喬氏は次のように書く。『すくなくとも明治の人たちは、新しい国を興すためには、新しい理念、思想、哲学が必要であることを知っていた。できあいの“手続き民主主義”で間に合うと思いこんでいる今日の指導者よりもはるかに深く物事を考えていたということができそうだ』。

  そうして辻井喬氏は、上田敏の「海潮音」からガブリエレ・ダヌンチオの「燕の歌」、つぎにカアル・ブッセの「山のあなた」を挙げてつぎのように締めくくる。

  『この詩などは名訳ぶりが、原作の詩境を凌駕しているのではないか。こうした、詩の日本語への移し替えも含めて、僕らは先人たちが日本を近代的な、欧米に劣らない現代文化の国にするために払った情熱を受け取らなければならないだろう』。

  
  「山のあなた」  カアル・ブッセ

  山のあなたの空遠く
  「幸(さいわい)」住むと人のいふ。
  噫(ああ)、われひとゝ尋(と)めゆきて、
  涙さしぐみかへりきぬ。
  山のあなたになほ遠く
  「幸」住むと人のいふ。

  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする