2020@TOKYO

音楽、文学、映画、演劇、絵画、写真…、さまざまなアートシーンを駆けめぐるブログ。

■アリア

2008-11-16 | ■拓のフォト・ギャラリー
(C)Taku

  Irma Issakadze という人が演奏した「ゴルトベルク変奏曲」がSACDでリリースされたので聞いてみました。

  レーベルは OEHMS 、Made in the EU ですが、録音とマスタリングはアメリカ・カリフォルニアの HYPERIUM STUDIO で行われたとクレジットされています。ちなみに録音日時は2004年の8月19日から21日です。

  このCDの録音は少し変わっていて、右手の演奏が左のスピーカー、左手の演奏は右のスピーカーから聞こえてきます。ピアニストの位置、つまりピアノの鍵盤に向かって正対している感覚で聞くと、何もかも逆さまに感じられて何だか落ち着きません。演奏家の顔を見ながら鍵盤の位置とは反対側に陣取って聞いている音像をイメージするとようやくホッとします。

  それにしても、これほど右手と左手の音が混じることなく録音されているゴルトベルクも珍しいのではないでしょうか?レッスン用に特別に録音されたものならともかく、観賞用に作られたCDとしては異例のセパレーションです。ただ、それがこの演奏の質の高さを損なうものではなく、むしろ明瞭に聞き取れる内声部の動きが興味深く、わたしは思わずヘンレ版の楽譜を取り出し全曲聞きとおしてしまいました。

  世の中にゴルトベルク愛好家というのは数多くいるらしく、ウェブ上への書き込みも相当な量にのぼります。その中でも出色なのは a+30+a' というページ。アリア+30の変奏曲+アリアというゴルトベルクの構造をタイトルにした『ゴルトベルク変奏曲のすべて…』という感じの企画です。

  驚くべきは、このホームページに掲載されているディスコグラフィー。全世界でリリースされているゴルトベルクのCDがもれなく網羅されています。演奏家をABC順に分類・整理した上に、ジャケット写真、録音データなども細かく調べ上げている偏執狂的編集はわたしたちの度肝を抜きます。  http://www.a30a.com/



  

  

  

  
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■ノヴェンバー・ステップス

2008-11-10 | ■拓のフォト・ギャラリー
(C)Taku

  昨日と一昨日、白柳慧さんの独特な映像世界をご覧にいれました。本日からまた、白柳拓さんのフォト・ギャラリーを再開します。

  彼の写真群のなかで、わたしはこの作品がとりわけ好きです。武満徹の「ノヴェンバー・ステップス」が聞こえてくるようで、画面を凝視してもいつまでも飽きることがありません。

  拓さん、慧さんともに、音楽家の写真はつねに背景に音を感じることができるものだと実感しました。

  
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■ブルー・イン・グリーン

2008-11-09 | ■慧's Photo
(C)Kei

  絵画を連想させるたたずまいの中に、これもまたピアニッシモに彩られた静かな音楽が流れています。

  ブルー・イン・グリーン、ビル・エバンスの名曲が微かな風にゆれる枝と枝の間から聞こえてきます。

  目を凝らすと一枚一枚の葉脈に生命が宿っていて、それが巨大な塊となって私たちに迫ります。

  Blue in Green - 慧の青、なにか強い意志をもっているようなその色面に吸いこまれてしまいそうで、わたしは思わず姿勢をただしました。
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■ピアニッシモ

2008-11-08 | ■慧's Photo
(C)Kei

  彼の作品から聞こえる音楽は、それこそ沈黙と測りあえるほどの静謐、楽譜に記す表情記号でいえば、“PP=ピアニッシモ”をこえる“PPP=ピアニシッシモ”です。

  Fennesz の Veneziaを思い出します。
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■真夜中の音楽

2008-11-08 | ■慧's Photo
(C)Kei

  本日と明日、独自の映像世界をわれわれに提供しつづける白柳慧さんの写真を掲載します。

  彼の作品には、「慧の青」と呼びたくなる独特な深みがあり、それが都会の冷えた空気を伝えています。

  デジタル・カメラはいっさい使わず、すべてフィルム・カメラで切りとった大都会TOKYO。お楽しみください。
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■ここでは静けさが第一だ!

2008-11-07 | ■拓のフォト・ギャラリー
(C)Taku

  「セーヌの釣りびとヨナス」 ライナー・チムニク  

  パリでは、セーヌの河岸に、釣りびとたちがすわりこんで、年中釣り糸をたれている。

  セーヌは青く、岸は黄いろい。釣りびとたちは、赤いネッカチーフを首にまきつけている。パリの陽は、じりじりとその背に照りつけ、釣りびとたちのシャツは、おかげで色あせて、まあたらしい新聞紙みたいに白っぽくなっている。

  ここでは静けさが第一だ!

  釣りびとたちは、時計をセーヌにほうりこんでしまった。セーヌのほとりでは、時も歩みを止めるんだからね。

  まちは広大な銀色の海に沈み、河波と釣り糸とのあいだに、夢の王国がおもむろにひらけはじめる。

  釣れるのは、ほんのちっぽけな魚ばかり。だが、パリの釣りびととしては、そこがまたこたえられない。
  
  (訳・矢川澄子)

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■アデン アラビア  ポール・ニザン

2008-11-06 | ■拓のフォト・ギャラリー
(C)Taku

  ぼくは二十歳だった。それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい。

  一歩足を踏みはずせば、いっさいが若者をだめにしてしまうのだ。恋愛も思想も家族を失うことも、大人たちの仲間に入ることも。世の中でおのれがどんな役割を果たしているのかを知るのは辛いことだ。

  (訳・篠田浩一郎)
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■終わりのない世界

2008-11-05 | ■拓のフォト・ギャラリー
(C)Taku

  「終わりのない世界=ラングストン・ヒューズ自伝 Ⅲ」

  わたしは、軽やかに降る雪のなかを、ゆっくりと歩いていったが、それらの雪は、ちらばり舞う雪片となってパリの屋根という屋根を蔽い、ひらひらと落ちはじめていた。わたしが、ギャルリィ・ラファイエットとサン・ラザール駅のところを通って、モンマルトルに行けるわずかに傾斜している坂道を見あげたとき、街路は、いとももの寂しかった。その道筋にある小さなクラブやバーでさえも静かであった。みんないったいどこにいるのだろう、とわたしは思った。新年の最初の時間だというのに、このとても古いパリの都市は、なんと静かなんだろう。

  昨年は、わたしはクリーヴランドにいた。一昨年は、サン・フランシスコにいた。その前の年は、メキシコ・シティにいた。その前の年は、カルメルにいた。カルメルにいた前の年は、タシケントにいた。次の新年がやって来たとき、わたしはどこにいるだろうか、と思った。そのころまでに、戦争になるだろうか…大きな戦争に? ムッソリーニやヒットラーは、わたしたちのほうにかれらの飛行機を向けるため、エチオピアやスペインでの武力行使を完了しているだろうか? 文明は滅ぼされるだろうか? この世界は、本当に終わりを告げるだろうか?

  「わたしの世界は、そんなことはない、」と、わたしはひとりごとを言った。「わたしの世界は、終わりを告げないだろう。」

  だが、世界というものは…すべての国家や文明は…必ず終わりを告げるものだ。モンマルトルの古めかしい家々のあいだに降りしきる雪の夜、わたしはじぶんに何度も言いきかせた。「わたしの世界は、終わりを告げやしない、」と。

  だが、どうしてわたしに、そんな確信がもてようか? わかりやしないことだ。

  しばし、わたしは、目を見はった。

  (訳・木島 始)
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■君は自由になりたくないか?

2008-11-04 | ■拓のフォト・ギャラリー
(C)Taku

  「君は自由になりたくないか?=ラングストン・ヒューズ自伝Ⅱ」

  時という鳥には
  はばたくほんのわずかな進路しかない
  それにその鳥は飛んでいる……

  (訳・木島 始) 
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■ぼくは多くの河を知っている

2008-11-02 | ■拓のフォト・ギャラリー
(C)Taku

  「ぼくは多くの河を知っている=ラングストン・ヒューズ自伝 Ⅰ」

  今じゃ、どうも、メロドラマじみている。だけど、わたしがごっそり本を水中に投げこんだときには、まるで心臓から無数のれんがをぴょんぴょん取りだしたみたいだった。わたしは、蒸気船マローン号の手すりにもたれ、本を海中できるだけ遠くまで投げとばしたのだった。……わたしがコロンビア大学でもってた本の全部、それに、そのご読もうと思って買っておいた本の全部をだ。

  サンディ・フックの沖あいの暗闇のなか、動いていく水中に、本は落っこちていった。さて、わたしは、しゃんとなって、風のほうに顔をむけ、深く息を吸った。わたしは初めて海にいく水夫だった、……大きな商船の水夫。で、もう起こって欲しくないことは、なにひとつおれの身には起こらんぞ、という感じにわたしはなった。わたしは、内も外も、成人し、一人前の男になった感じだった。二十一歳。

  わたしは二十一歳だった。

  (訳・木島始)
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■7月の午後の風

2008-11-02 | ■拓のフォト・ギャラリー
(C)Taku

  本日から「拓のフォト・ギャラリー」という新設カテゴリーで、白柳拓さんの写真をご紹介します。

  他人を写すことにほとんど興味のない私とは対照的に、彼が撮るポートレートには独特な温度感があります。

  連載各回のタイトルは私が勝手につけたもので、写真家の意図を表したものではありません。ただ、それぞれの写真から感じた一言を私が書きつけることで2人のコラボレーションが成立すれば、それも面白い試みではないかと思っています。
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■ショパンのバラード

2008-11-01 | ■芸術(音楽、美術、映画、演劇)
(C)Taku

  仕事が一段落した翌日、青空を眺めながら晴れがましい気持ちでショパンのバラードを聞きました。

  ショパンの作品群の中では、とりわけバラードの1番が好きです。大波のようにうねる旋律の向こうに、人が生きていることで生まれる様ざまな物語が見えるからです。

  39歳、現代人の平均寿命からすれば、まさしく夭折と呼ぶにふさわしい年齢で没したショパンですが、バラードの1番は、短くも激しい人生を駆け抜けた詩人の早すぎる辞世のように聞こえて、私はこの作品に接するたびに胸が熱くなります。

  生命の生成をたどるような冒頭、青春の輝きを謳歌するような中間部、そして、旋律の上昇と下降が激しく交錯する終結部、最後は大気に溶けるように和音が減衰していきます。

  ルービンシュタインの演奏は、ピアノの詩人が紡いだ人生の物語に寄り添いながら、私たちに限りなく深い安寧を与えてくれます。それは、何だか生きるための秩序の回復といった感じがして、今日のように、過激な仕事に疲れきった末の休日にはとても相応しいものです。
  

  
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