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ベネデット・マルチェッロとヴェネツィアの音楽-4

2008-08-31 | ■芸術(音楽、美術、映画、演劇)
■Venice GR Digital (C)Ryo

  3日前、一昨日、昨日からのつづきです。

  私の心を動かしたベネデット・マルチェッロの作品 "Cadennza : Se morto mi brami perche non m'uccidi"。マルチェッロが生きていた時代の劇場の風景からは想像もつかないほど美しい楽曲です。

  音楽に関する知識と技量を充分に持ち合わせていたばかりでなく、ラテン語を理解し、ギリシャ・ローマの歴史に通じていた大教養人マルチェッロの嘆き、あまりにも生への欲望をむきだしにしたヴェネツィアの聴衆への諦めが、あの作品に表れているようにも思えます。

  もうひとつは望郷の念。ベネデット・マルチェッロはヴェネツィアの貴族として生まれ、この地で数々の要職につきながら、52歳にして左遷同然の身でプレシアに赴任、翌年、故郷に帰ることなくこの地で客死します。

  たまたまアルブレヒト・マイヤーのCDジャケットが、ヴェネツィアの大運河を背景に、ゴンドラの舳先に立ってオーボエを吹くマイヤーを描いていたことから、マルチェッロの望郷の風景が浮かんできました。

  一方、ベネデット・マルチェッロの宿敵、アントニオ・ヴィヴァルディはマルチェッロの死後、ほんの一年足らずのうちに慌ただしくヴェネツィアを後にします。当時、アドリア海の商権をめぐって神経質になっていたヴェネツィア政府は、外国人との派手な付き合いを続けるヴィヴァルディに監視の目を光らせていました。また、国内での自由奔放な振る舞いも限度を超えていたようで、陰に陽に様ざまな脅しが彼の身に降りかかるようになります。ヴィヴァルディは、得体の知れない恫喝に脅えながら、ヴェネツィアを後にしました。

  新たな人生を求めて旅立った地はウィーン、かつて世話になったカール6世の庇護を求めたものの、カール6世は急逝、その後に勃発した王位継承戦争のあおりを受けて、ヴィヴァルディは、この地にひとり取り残されてしまいました。翌1741年、マルチェッロの死から2年の後に、彼は安宿でひっそりと息を引き取りました。当時としては最低ランクの葬儀が執り行われましたが、遺骨は今もって行方不明のままです。

  そんなヴィヴァルディの生涯を思いながら、再びマルチェッロの曲を聞くと、祭りのあとの静寂…人生の終焉という思いがよぎります。ヴィヴァルディが倒れた安宿「さまよえる騎士亭」は、ウィーンの名物でもある環状道路=リング(Ring Strasse)建設のために取り壊されていきます。マルチェッロやヴィヴァルディが覇を競ったサンタンジェロ劇場も歴史の中に風化し、今は存在しません。

  (つづく)

  
  

  

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