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ベネデット・マルチェッロとヴェネツィアの音楽-2

2008-08-31 | ■芸術(音楽、美術、映画、演劇)
■Venice GR Digital (C)Ryo

  前日からのつづきです。

  「当世流行劇場」が発刊されたときの表紙は次のようになっています。まず、タイトルは、当世流行劇場とあります。その下に、現在でいえば本の表紙に巻かれている宣伝帯のような文言が並びます。それは次のとおり。

  『当世流行劇場、またはイタリア・オペラを当世風にうまく作曲し、上演するための確実で容易な方法。台本作家、作曲家、カストラート、男性歌手、女性歌手、劇場支配人、演奏家たち、舞台装置家、背景画家、ブッファ役、衣装係、小姓役、群集役、プロンプター、写譜係、女性歌手のパトロンや母上、ほか劇場に登場する人々への、有益かつ不可欠な忠告。』

  さらに、表紙には以下のように記されています。

  『著者から、ここに描かれた作曲家に献呈  ボルギ・ディ・ベリサーニャにおいて、アルディヴィーヴァ・リカンテのために印刷された(後略)』

  さて、ここに記されたアルディヴィーヴァなる人物こそが、あのヴィヴァルディのことで、Vivaldiの文字を並べ替えて、Aldivivaとしたわけです。

  何故、マルチェッロはヴィヴァルディをこれほど目の敵にしたのか?それは、日本語訳の解説に詳しく載っていますが、この二人の争いは親の代から続いており、様ざまな利権をめぐって、40年以上も紛争が続いていたようです。

  ただ、ヴィヴァルディに対するマルチェッロの冷ややかな視線は、興行などをめぐる紛争ばかりではなく、もっと本質的な、音楽家としての立ち位置に起因するようです。これについては、本書の「作曲家」という項の解説で、訳者が次のように書いています。

  『(前略)ここで明らかにされるのは、マルチェッロとヴィヴァルディの、音楽に対する根本的な立場の相違です。その両者の溝というのは、現在の音楽業界でも全く変わっていないようです。』

  『貴族階級に属し、オーソドックスな対位法やソルフェージュを作曲理論として学び、自らを「ヴェネツィア生まれの高貴な対位法の愛好家」と自称し、「聡明で教養があり、多様な能力とまれに見る資質を持った創作家であったが、芸術を金で売買できる商品と考えることが出来なかった」マルチェッロ。』

  (中略)

  『一方は、庶民階級の理髪師の息子で、ヴァイオリンを縦横無尽に弾き、観客を喜ばせるためなら、不協和音ぎりぎりまで即興演奏する卓越した演奏家(ヴィルトゥオーゾ)だったヴィヴァルディ。彼は、人間の感情を堅苦しい作曲規制に押し込めることなく、より自由、奔放、闊達な感情表現を求めて、作曲方法の領域を広げようとしました。それは、何十年も習得にかかる技術や、古代からの煩瑣で厳格な規制を知らなければ理解できない作品ではなく、より簡単に技術を身に付け、理解できる、新しい商人階級のための音楽だったのです。』

  作曲ばかりでなく、ヴィヴァルディにはプロデューサーとしての才も備わってたようで、チケットの価格をダンピングして完売をもくろむ強引な劇場支配人と結託して、音楽ビジネスとしての成功を勝ち取ったようです。放送もCDも無い時代、音楽を伝達するメディアの本拠地は劇場でした。ヴィヴァルディの音楽がヨーロッパを席巻し、今日まで数多く遺されているのに比して、残念ながらベネデット・マルチェッロの曲は、イタリアンバロックの資料としてしか存在していません。

  やがてグルックが登場し、モーツァルトが「フィガロの結婚」(1786年)、「ドン・ジョバンニ」(1787年)、「コシ・ファン・トゥッテ」(1790年)、「魔笛」(1791年)と立て続けに歴史的な大名作を連発した後に、オペラは今日の姿を形づくりはじめます。

(さらにつづく)

   
  

  

  

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