2020@TOKYO

音楽、文学、映画、演劇、絵画、写真…、さまざまなアートシーンを駆けめぐるブログ。

句会 五月

2009-05-20 | ■俳句
  全国の俳句ファンの皆さん!お待たせいたしました。五月の句会に行ってまいりました。

  開催されたのは一昨日の月曜日、外は真夏の頃を思わせる陽気でした。常連の方々いわく、「今日は最強のメンバーが揃った!」とのことで、外の熱気そのままに、五月の句会は大いに盛り上がりました。これぞ、五・七・五の熱帯!

  さて、季題は前回お知らせしたとおり以下の三つです。「初夏」「烏賊」「薔薇」。

  お恥ずかしいながら、私は非常事態に備え、「薔薇」の二文字をメモ紙に大書し、カンニングペーパーとして密かに持参しておりました。薔薇という漢字、すぐに書けますか?やはり、漢字検定は必要か?

(つづく)

  
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マリオ・ジョアン・ピリス(続編)

2009-05-10 | ■芸術(音楽、美術、映画、演劇)
 
  リー・ヘイズルウッドと共に、ピリスのことも《つづく》と書いてつづけていませんでした。前回のブログでは、4月22日にピリスの演奏会があったこと、プログラムはショパン晩年の作が中心、そしてピリスは観客と静寂を共有した…というところまででした。

  今回の来日に際して、ピリスは朝日新聞のインタビューにこたえているのですが、この中で、いくつかの言葉が印象に残りました。

  ポルトガルに生まれ、現在はブラジルに住んでいるピリスは、いわゆる商業主義的な世界とは一線を画した存在だと言えます。『演奏家である前に、人として健康に生きていきたい』という言葉には、偏狭な芸術至上主義への反発を感じます。『誰もがみな、芸術的な世界を内に持っている。それを外に表現して世界と結びつこうとする人をアーティストと呼ぶだけのこと。アーティストは特別な人間ではない』。芸術家という特別な存在ではなく、一人の人間としてどう生きているか、この言葉は本当に深い。

  さらに若い世代へ向けては、はっきりと次のように語りかけます。『商業的なオファーに対しては<ノー>と言える勇気を持つこと』『すべてのレパートリーを弾けなければならないと思う必要はない』。そして、極めつけはコンクールに対しての見解。『勝ちたいと思うことは、誰かの負けを望むということ。その考え自体はもう芸術家のものではない。芸術は闘いではなく、自由からしか生まれ得ない』。

  来年はショパン生誕200年、そして5年に一度のショパン国際ピアノ・コンクールがワルシャワで開催されます。この世界最大規模のコンクールも、1924年の第一回開催から、じつに86年の月日が流れたわけです。

  そんな中で、『芸術は闘いではなく、自由からしか生まれ得ない』と語るピリスのような存在は、新しい時代の芸術家のひとつの在り方を示しているように思えます。

  NHKのスーパーピアノレッスンを見ればわかるとおり、ピリスは旋律の細部に宿る歌を大切にします。しかし、その歌は過剰な歌わせ方によって表現されるものではなく、作曲家の心への共鳴といった形で、静かに、控え目に表わされます。

  この日の演奏会の核となったロ短調ソナタは、まさしくショパンの歌が次から次へと重層的に絡み合い、それが螺旋の軌跡を描いて天に昇っていくように聞こえました。

  この歌を聴くために、この日のこの場所は、完璧な静寂が必要だったのです。拍手を制するという、一般のコンサートとは異なる雰囲気で始まった演奏会でしたが、静寂の中で聴衆に要求された「音楽を聴くための集中」によって、私たちは「音楽を聴くことの本質」を思い出したように感じました。

  「演奏家である前に、人として健康的に生きていきたい」と語るひとりの女性と1800人の聴衆が心を共有し、ショパンの音楽の魂に共鳴していく…、私は一生に何度あるか分からないと思えるほど深く強い音楽的な感動を体験しました。

    
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リー・ヘイズルウッド(サマー・ワインのつづき)

2009-05-07 | ■私の好きな歌
  
  俳句の話に夢中になって、「サマー・ワイン」のつづきを書いていませんでした。その上、マリア・ジョアン・ピリス、高橋アキ、ラ・フォル・ジュルネなど、特筆すべきコンサートが目白押しで、「サマー・ワイン」のことが、どんどん遠くなってしまいました。『<つづき>はどうなった!』という声に応えて以下、サマー・ワインのつづきです。

  中山康樹さんの「ミック・ジャガーは60歳で何を歌ったか」を読んだ上での話です。

  この本のテーマそのものがとても興味深いのですが、前に書いたとおり、リー・ヘイズルウッドのことを語っている章で、あまりにも懐かしい曲のタイトル「サマー・ワイン」に出会い、少年のころに深夜放送で聞いていたナンシー・シナトラとリー・ヘイズルウッドのデュオを思い出したわけです。

  さらに、深夜、ラジオから流れるリー・ヘイズルウッドの歌声は、どうしても悪役のものとしか聞こえず、以来彼のイメージは悪役で定着していました(とはいえ、あまりに長い間その名前を忘れていましたが…)。

  ところがどうでしょう!「ミック・ジャガーは…」の中で語られているリー・ヘイズルウッド氏は、単なる悪役を飛び越えた、じつにカッコいい人物なのであります。

  そのカッコよさとは、遺作となった「Cake or Death ケイク・オア・デス」の制作に向けた彼の姿勢に表れます。

  原著からの引用⇒死を宣告されたミュージシャンが、いわば遺書としてラスト・アルバムをレコーディングした例は、寡聞にして、ほとんど聞いたことがない。ウォーレン・ジヴォンくらいだろうか。(中略)ヘイズルウッドは、癌の宣告を受けた直後から、音楽的な遺書、すなわちラスト・アルバムへ向かって精神を集中させ、創造力を高めていく。(中略)タイトルは『ケイク・オア・デス』。最初からそう決めていたという。

  今回のブログのジャケット写真が「ケイク・オア・デス」、死の宣告を受けたヘイズルウッドは、煙草を吸う横顔を遺影にしたのでしょうか?再び原著からの引用です。⇒ジャケットでは、ヘイズルウッドがタバコを吸っている。つまりは、このブラック・ユーモアが、ヘイズルウッドにとって、死とラスト・アルバムの関係を物語るものなのだろう。そしてヘイズルウッドは、死を宣告されたミュージシャンを演じる自分自身を笑いのめそうとしているように見える。遺書としてラスト・アルバムを作るという行為自体が、あるいはジョークということになるのかもしれない。『ケイク・オア・デス』は、リー・ヘイズルウッドという肉体と音楽が「何によって構成されていたか」を知らしめるようなアルバムといえばいいだろうか。イメージとしては、《太陽の彼方に》からはじまり、ナンシー・シナトラとのデュエット、その一方でみせたさまざまな音楽的実験や前衛的な手法などヘイズルウッドを形成していた成分を集大成し、それでもなおそこにとどまることなく、死の先にある永遠に触れようとしているかのように響く。そこに恐怖はなく、懺悔もなければ涙もない。

  中山康樹さんの文章はこんなふうにカッコいいのですが、死に際のヘイズルウッドには、懺悔もなければ涙もなく、また悔恨もないのでしょう。ラスト・アルバムにつづった自らの音楽的変遷=音楽的人生、そこには「サマー・ワイン」のエコーも響いているのでしょう。

  レコーディングは世界各地で行われたそうで、中山さんは『レコーディングは、フェニックス、ナッシュヴィル、ベルリン、ストックホルムと、いかにもヘイズルウッドらしくボヘミアン的に行われ、収録曲も多彩を極める』と書いています。

  ラストは中山さんの原著から引きます。

  かつてビートルズの熱狂が訪れる前夜、あるいは早朝だったかもしれない。ヘイズルウッドの存在は、《太陽の彼方に》のさらに彼方にあった。やがて、“ブーツ”や《サマー・ワイン》を経て、しだいに像を結び、ついに全貌を現す。以来、およそ40年が経過した。ラスト・アルバム『ケイク・オア・デス』は、そのヘイズルウッドの強大な像が音楽的に結ばれていく過程を追体験しているようなデジャ・ヴュ(既視感)を抱かせる。そして、ふと、思う。リー・ヘイズルウッドに、いま、はじめて出会ったのかもしれない。(中山康樹:「ミック・ジャガーは60歳で何を歌ったか」)

  

  

  
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