2020@TOKYO

音楽、文学、映画、演劇、絵画、写真…、さまざまなアートシーンを駆けめぐるブログ。

■美しい国

2007-08-08 | ■政治、社会
  
  敬愛する先輩が久しぶりに私を誘ったので、新橋に出かけた。その店は、日本酒のソムリエがいるというふれこみ。なるほど、野菜、魚、肉、移り変わる食材の妙に応えるように、若き女性ソムリエは、日本各地の酒を薦めてくれる。

  北海道から沖縄まで、当地でとれる食材に対して、日本人は特有の思い入れを持っている。最近はこれが少し商業主義的になりすぎて、大間のまぐろ、関さば、関あじなど、いま流行の「産地偽装事件」が起きても仕方ないような状況がある。

  日本酒の文化は、その産地における水の美しさと言う点で、風景の奥行きを感じるものがある。食材や酒の後ろ側にある物語(ストーリー)こそが、美しい国 日本の姿なのである。

  祖国の美しさを知るのは、その人の生活に根ざした経験の量と器の深さであって、けして為政者などから教わるものではない。
  
  (写真は造り酒屋の梅酒。見ているだけで涼味を誘う)
 
  
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■往生際

2007-08-07 | ■政治、社会
  
  帰宅してテレビを見ていたら、ひとりのコメンテーターがこんなことを言っていた。「これほど選挙で大敗した政党の最高責任者が、居座って成功したためしは、全世界に類例がない」。当然である。

  参院選で私たちは安倍政権にNOを突きつけることに成功した。しかし、安倍本人は辞める気配がない。それどころか、政策を含めた自分の基本姿勢は支持されていると明言している。彼は錯乱しているのか?

  ついに自民党の中からも、彼の辞任を促す声が公然と聞こえるようになった。当人を目の前にして、ズケズケと辞任を迫る代議士も出てきた。

  このままでは解散総選挙となったあとの再度の惨敗が見えているからだろう。いったい、安倍は何故ここまで強引に居座りをきめこんでいるのか?彼以外の自民党議員が哀れに見えてくる。このまま衆議院でも惨敗となると、馬鹿な指導者をもった党員の不幸などと呑気なことを言ってはいられない。

  一連の報道を総合すると、彼は“歴史に名を残したい”らしい。戦後はじめて改憲に手をつけ、それを成功させた首相として歴史に名を刻みたいらしい。ところが、これには国民がNOをつきつけたのだ。「君が考える美しい国・日本などいらんのだよ」と、国民は彼を忌避したのだ。

  自分から辞める勇気がないのなら、私たち国民が引きずりおろすしかないようだ。これには自民党の多くの議員も賛同することだろう(皆さん、次の総選挙を考えているはずだから…)。そろそろ行動を起こす時かもしれませんね。

  
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■広島・原爆の日

2007-08-06 | ■政治、社会
  
  今日、広島原爆の日を迎えた。62回目である。この日に書こうと思っていたテーマがある。

  十数年前、初めて広島の原爆記念館を訪れたときのこと。その数日前にミュンヘンから20キロのところにあるダッハウ=ユダヤ人強制収容所にいたこと。それらのことを書こうと思っていた。

  今日、広島原爆の日をめぐるニュースをあちこちで見ていて、結局、そういうことを語る資格が私にあるのかどうか、自問自答しつつ、今の時間になってしまった。とくに、今日の広島に安倍がいたことをニュースで見て、全身の力が抜けてしまった。何故、広島は安倍を招いたのか?何故、拒否できなかったのか?

  まとまった文章にするには、あまりに事実が厳粛すぎるので、私の力では、書こうとしたことのアウトラインを記すしかない。梗概(こうがい=あらすじ)という単語がある。以下、書こうとしたことの梗概である。

  十数年前、私はドイツのミュンヘンで毎年開催される音楽祭に赴いた。ミュンヘンの国立歌劇場で、ワグナーの「マイスター・ジンガー」と、モーツァルトの「ドン・ジョバンニ」を見た。その折、現地に住むドイツ人から、『ドイツ人による、ドイツ人の恥、全人類へ向けての間違った行いを見るか?』と問われて、私は、ダッハウへ行った。そこには、アウシヴィッツと並ぶ20世紀最大のユダヤ人強制収容所の跡地があった。すべてが当時のまま残されている。

  美しい小川が流れる小道、花が咲く小道は、ガス室への導線だった。今日はピクニックへ行くと偽って、収容した人々をガス室へ送り込んだのだと言う。ただし、仕掛けはポーランドのアウシヴィッツと同じでありながら、ダッハウのガス室では幸運なことに、ひとりも亡くなる事がなかったらしい。ダッハウで亡くなった人々の多くは強制労働、生体実験、ゲシュタポの気紛れな射殺などによるものと聞かされた。その手段が何であれ、まったく何の罪もないユダヤの人々が虐殺されたことにかわりはない。

  そうは言いながら、死体焼却炉などを目の当たりにしつつ、私は、この場に私を連れてきたのが、他ならぬドイツ人であることに衝撃を受けた。

  歴史を証言する様々なモニュメントに接しながら、私が衝撃を受けたのは展示室。ヒットラーのユダヤ人虐殺にかかわる様々な事々が写真とコメントで明かされているのだが、展示のはじまりは1933年の選挙風景。しつこいほど、ヒットラーの立候補風景や、人々の投票風景までのドキュメント写真が展示されている。

  ヒットラーを選挙で選出したのは「わたし」であると同時に「あなた」だ!という強烈なメッセージ。私は膝がガクガクするほど強烈な印象(あえて誤解を恐れずに言うなら、感動すらおぼえた)をうけた。

  1933年から1945年まで、ドイツで起きた事々の責任を、全国民の事として共有する歴史観。そうなのだ!ヒットラーは選挙で選ばれた指導者なのである。

  あの時、私はドイツから帰国して後、すぐに仕事のために広島へ行った。ダッハウの印象が強かったせいもあって、私は時間の隙間をぬって、原爆記念館を訪ねた。

  ここでも様々な展示物があった。最初の写真は原爆のきのこ雲だった。その後は、蝋人形を含めて、おぞましい被害風景が並ぶ。それを見て、私はこんなふうに考えた。

  ダッハウでは、国民全体がヒットラーを選挙で選出したことへの過ちを悔い、二度とそのような事が起きないよう、警鐘を鳴らしている。広島の展示は、すべが被害者の視点。実のところ、あの戦争が始まり、終わった経緯が何だったのか?という問題提起はまったく欠如している。

  原爆は本当に悲惨な事件である。平気でこのような大量殺戮兵器を投下したアメリカ軍の基地が、いまだに日本国内にある。そこに停泊する空母には核兵器が搭載されているらしい。その基地を容認し、日米安全保障条約を標榜しつづけた男の孫が今日の広島にいた。

  私が、まっとうな文章ではなく、梗概しか書く気がしなくなったのは、安倍が広島にいたニュースを見たからである。広島は、何故彼を拒否しなかったのか?

  そうは言っても、62回目の広島・原爆の日を、私は厳粛な気持ちで迎える。今日のコラムを、まっとうな文章にまとめることができず申し訳ありません。

  最後に一言、私たちは、私たちの投票で、ヒットラーを選んではならない。同時に、安倍をはじめとする俗物政治家は、今回の参院選の結果を早々に受け入れるべきである。

  (写真はピカソの「戦争と平和」シリーズ 2007年版カレンダーの表紙)

  


  
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■野性動物

2007-08-04 | ■エッセイ
  
  横綱・朝青龍が騒ぎを起こしている。騒ぎの発端については皆さんよくご存知のことと思う。(仮病と思われる)診断書を協会に提出して夏の巡業をさぼったばかりか、本人はモンゴルで元気にサッカーをしていたという話。

  この人は何かと話題の多いひとで、多くは粗暴・粗野、乱暴狼藉、下品という類の話が多い。そうは言っても、まわりの力士が余りに弱くふがいないので、土俵の上では強い横綱として連勝街道を走っていた。

  その朝青龍、今回のサッカー事件の審判を受けて、謹慎の身となった。今度はスポーツ紙がいっせいに、朝青龍ノイローゼ疑惑を書きたてた。生来が遊び好きの暴れん坊である。病院と相撲部屋を往復するだけの日々が当分続くと思ったとたん、一気に落ち込んでしまったようだ。

  力士にかぎらず、格闘家には野性が必要なのだと思う。目の前の敵を倒さずにはいられないという強烈な野性は、通常の人間が持ち得ないものだ。しかし、その格闘家の存在が、野性だけで成り立っているとなると、これは見苦しいだけ(というか幾分気持ち悪い)。

  朝青龍とは状況が異なるが、ボクシングの亀田兄弟という存在も、私には野性の塊としかうつらない。格闘技にきれい事を持ち込んでも仕方ないのかもしれないのだが、亀田兄弟(ついでに彼らの親父さん)ほど野性をむき出しにした拳闘家はいなかったのではないか? 

  知性が野性をほどよく管理する能力があってこそ、格闘に「美」の感覚が生まれる。否、格闘の美とは、ただその一点にあると言ってもよい。せめて、勝負がついた後に、お互いの健闘を讃えあうくらいの余裕は必要なのである。

  ただ、悲しいことに、私たちは時として、野性だけに支配された人が闘う姿に自分を重ね、いつの間にか野性の狂気に我を忘れてしまうことがある。格闘家は、観客の代理人として野獣に身をやつし死闘を演じる。悲しく哀れな光景である。

  私はそれが嫌で、最初からテレビをつけない。

  (写真は、フォーヴィスム(野獣派)のリーダー的存在、アンリ・マチスの作品。フォーヴィスムの誕生に関わる次の言葉は有名だ。『あたかも野獣の檻の中にいるようだ』)
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■荒地

2007-08-03 | ■芸術(音楽、美術、映画、演劇)
  
  全英女子オープン・ゴルフがはじまった。今年で31回を数えるのだという。宮里藍が好調に発進していて、今後の展開に期待がかかる。先日の参院選で見事当選した「さくらパパ」も現地入りして、娘の横峯さくらに指示をあたえるなど、当分テレ朝の放送からは目が離せない。

  舞台は聖地セント・アンドリュース。このコースの攻略には「創造力」が必要だと語ったのは、過去2度全英オープンの優勝経験をもつタイガー・ウッズである。Links ( リンクス=海岸近くのゴルフコース)特有の風は、ボールの行方をかく乱し、波打つようなウェアウェーからは、ピンの位置が見えない。

  私は、英国の鱒釣りと英国のゴルフをリタイア後の「やりたい事リスト」に挙げているのだが、夢の実現に使う道具として、釣りはハウス・オブ・ハーディーのオールド・タックル、ゴルフはヒッコリーのクラブと密かに計画している。

  丁寧に整備され、いかにも人工の美を演出する多くのゴルフ場と異なり、セント・アンドリュースは、まさしく荒野である。ゴルフ発祥の舞台を思わせる荒涼たる風景は、激しい風が似合い、低く立ち込める灰色の雲が似合う。

  セント・アンドリュースの光景に触れるたびに、私はT.S.エリオットの「荒地」を思い出す。

  四月は残酷極まる月だ 、というフレーズで始まるエリオットの代表作。アメリカの生まれながら、後に英国に帰化した詩人である。西脇順三郎の翻訳で知られる本作も、エズラ・パウンドとの推敲を重ねる前のタイトルは「荒地」ではなく、「彼は様々な声色で警官の真似をする」という変わったものだったらしい。

  エリオットの作品の中で変わったタイトルと言えば、次のように奇妙なものもある。「キャッツ=ポッサムおじさんの猫と付き合う法 ( Old possum's book of practical cats )。これはミュージカル「キャッツ」の原作で、エリオットが書き下ろした童話である。

  「キャッツ」は世界のあちこちで観た。ウィーン、ハンブルク、ニューヨーク、東京では2回、そしてロンドンでは3回。音楽的にもっとも優れていたのはハンブルクの公演、印象に残ったのはウィーン。なにしろ劇場がテアトル・アンデア・ウィーンである。モーツァルトの「魔笛」が初演された劇場で、アンドリュー・ロイド・ウェーバーのミュージカルを観る贅沢さは一生忘れられない。

  (写真はセント・アンドリュース)

  
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■さすらいの二人

2007-08-02 | ■芸術(音楽、美術、映画、演劇)
  
  小田実のことを2日間書き続けた。そうして新聞を開くと、映画監督のベルイマンが亡くなっていて、しかもネット上には阿久悠の死が報じられていた。挙句の果て、帰宅して読んだ昨日の朝刊には、ミケランジェロ・アントニオーニの訃報が掲載されていた。

  もちろん、有名人のマイルストーンを列挙することがこのコラムの目的ではない。それにしても、連鎖する巨人の死。7月1日に始めたこのコラムも、1カ月を過ぎた。連載初回(7月1日)を見ると、私が影響を受けた人列伝の中に、アントニオーニの名前が見える。

  新聞は、アントニオーニの代表作を次のように記した。「赤い砂漠」「太陽はひとりぼっち」「情事」「欲望」「砂漠」…。いずれも、アントニオーニを語るには欠かせない作品である。しかし、代表作と言うなら、私はあえて「さすらいの二人=Rrofession : reporter 」を挙げる。

  この東京1975→∞というコラムでは、書物の腰巻(帯)の文言を紹介することで内容の解説に替えてきた。DVDもそれに倣おう。

  「世界を股にかけドキュメンタリーを撮影するジャーナリスト、デビッド・ロック。彼は北アフリカを取材中、同じホテルに泊まっていたデビッド・ロバートソンという、自分と容貌のよく似た男の死に遭遇する。彼の遺体を前に、ロックは突如、自分がこの地で死んだことにし、残りの人生をロバートソンとして生きようと決意する。ロックはパスポートの写真を貼り替え、彼の持っていたチケットでミュンヘンへと飛ぶ。しかし、生前のロバートソンは武器をゲリラに密売する危険な男だった」。

  DVDの解説は饒舌で、このあと8行も続く。この映画は、ラストシーンで見せる6分半のワンショットが映画史に残る謎として語り継がれている。

  私は劇場で何度かこの映画を見た。ラストの6分半、この技術はいまだに謎である。そのシーンについて、誰かと語り合えないものか。

  (写真はDVD「さすらいの二人」のフロント・カバー)

  

  
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■レクイエム (鎮魂歌)

2007-08-01 | ■政治、社会
  
  いくら呼んでも、小田実が生き返ることはない。通いなれた駅に立ち降りて、再び1970年6月23日の記憶が甦った。

  なにしろ当時の高校生のことである、いかにクラブ活動を熱心に行ったからといって、帰宅が夜の7時や8時を過ぎることはなかった。ところが、昨日書いたように、小田実に会いたい一心で清水谷公園へ駆けつけた私は、生まれて初めて、夜の9時を過ぎてから家に帰った。

  両親が私のことを心配していたことは、すぐに気配で分かった。私は親から訊かれる前に語りだした。「明治公園、代々木公園、宮下公園、この辺はヤバそうだから清水谷公園へ行ってきました」。

  「べ平連か?」と父が訊ねた。そうです。平和的なデモで、機動隊も遠巻きに様子をみていただけでした、と応えた。父は、つかの間ほっとしたような笑みを浮かべ、書斎に消えていった。

  革マル派と中核派は、明治公園と宮下公園というそれぞれの拠点に集合し、日本共産党系の民主青年同盟(民青)は、代々木公園を埋めつくす勢いだった。小田実は清水谷に現れなかったものの、吉川勇一が公園を覆いつくした市民に向けて基調演説を行った。基調演説は、同時に帰朝演説でもあった。昨日のコラムにも書いたように、吉川勇一の第一声は、「私はいま、アメリカから帰ってきました」だった。

  音楽を生業とする私は、鎮魂歌を捧げるべきなのだろうか? いったい、この世の中に、小田実を送る音楽など、存在するのだろうか? 彼の魂を鎮める音楽など、いまは想像することすら出来ない。

  寺山修司が死んだ日、私はそれを山手線の中の乗客が読む新聞で知った。私は頭がクラクラして、どうしたらよいか分からないまま、新宿の行きつけのバーに駆け込んだ。誰も寺山のことを話題にしている者はいなかった。いま思えばおとな気ないことに、私はグラスを叩きつけて叫んだ。お前ら、寺山が死んだというのに、よくもヘラヘラ飲んでいられるな!

  私は、あのときほど若くはない。小田実の死は、私ひとりで受けとめることができる。ただ、ここで、こうして書いているということは、もしかしたら、ひとりでは、結局のところ、彼の死を背負いきれないでいるのかもしれない。

  どうすればよいのか分からないまま、私は彼を送る鎮魂の歌を、時間をかけて探してみようと思う。
  
  (写真は「九条の会」のポスター)

  

  
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