2020@TOKYO

音楽、文学、映画、演劇、絵画、写真…、さまざまなアートシーンを駆けめぐるブログ。

■野性動物

2007-08-04 | ■エッセイ
  
  横綱・朝青龍が騒ぎを起こしている。騒ぎの発端については皆さんよくご存知のことと思う。(仮病と思われる)診断書を協会に提出して夏の巡業をさぼったばかりか、本人はモンゴルで元気にサッカーをしていたという話。

  この人は何かと話題の多いひとで、多くは粗暴・粗野、乱暴狼藉、下品という類の話が多い。そうは言っても、まわりの力士が余りに弱くふがいないので、土俵の上では強い横綱として連勝街道を走っていた。

  その朝青龍、今回のサッカー事件の審判を受けて、謹慎の身となった。今度はスポーツ紙がいっせいに、朝青龍ノイローゼ疑惑を書きたてた。生来が遊び好きの暴れん坊である。病院と相撲部屋を往復するだけの日々が当分続くと思ったとたん、一気に落ち込んでしまったようだ。

  力士にかぎらず、格闘家には野性が必要なのだと思う。目の前の敵を倒さずにはいられないという強烈な野性は、通常の人間が持ち得ないものだ。しかし、その格闘家の存在が、野性だけで成り立っているとなると、これは見苦しいだけ(というか幾分気持ち悪い)。

  朝青龍とは状況が異なるが、ボクシングの亀田兄弟という存在も、私には野性の塊としかうつらない。格闘技にきれい事を持ち込んでも仕方ないのかもしれないのだが、亀田兄弟(ついでに彼らの親父さん)ほど野性をむき出しにした拳闘家はいなかったのではないか? 

  知性が野性をほどよく管理する能力があってこそ、格闘に「美」の感覚が生まれる。否、格闘の美とは、ただその一点にあると言ってもよい。せめて、勝負がついた後に、お互いの健闘を讃えあうくらいの余裕は必要なのである。

  ただ、悲しいことに、私たちは時として、野性だけに支配された人が闘う姿に自分を重ね、いつの間にか野性の狂気に我を忘れてしまうことがある。格闘家は、観客の代理人として野獣に身をやつし死闘を演じる。悲しく哀れな光景である。

  私はそれが嫌で、最初からテレビをつけない。

  (写真は、フォーヴィスム(野獣派)のリーダー的存在、アンリ・マチスの作品。フォーヴィスムの誕生に関わる次の言葉は有名だ。『あたかも野獣の檻の中にいるようだ』)
コメント
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