2020@TOKYO

音楽、文学、映画、演劇、絵画、写真…、さまざまなアートシーンを駆けめぐるブログ。

■レクイエム (鎮魂歌)

2007-08-01 | ■政治、社会
  
  いくら呼んでも、小田実が生き返ることはない。通いなれた駅に立ち降りて、再び1970年6月23日の記憶が甦った。

  なにしろ当時の高校生のことである、いかにクラブ活動を熱心に行ったからといって、帰宅が夜の7時や8時を過ぎることはなかった。ところが、昨日書いたように、小田実に会いたい一心で清水谷公園へ駆けつけた私は、生まれて初めて、夜の9時を過ぎてから家に帰った。

  両親が私のことを心配していたことは、すぐに気配で分かった。私は親から訊かれる前に語りだした。「明治公園、代々木公園、宮下公園、この辺はヤバそうだから清水谷公園へ行ってきました」。

  「べ平連か?」と父が訊ねた。そうです。平和的なデモで、機動隊も遠巻きに様子をみていただけでした、と応えた。父は、つかの間ほっとしたような笑みを浮かべ、書斎に消えていった。

  革マル派と中核派は、明治公園と宮下公園というそれぞれの拠点に集合し、日本共産党系の民主青年同盟(民青)は、代々木公園を埋めつくす勢いだった。小田実は清水谷に現れなかったものの、吉川勇一が公園を覆いつくした市民に向けて基調演説を行った。基調演説は、同時に帰朝演説でもあった。昨日のコラムにも書いたように、吉川勇一の第一声は、「私はいま、アメリカから帰ってきました」だった。

  音楽を生業とする私は、鎮魂歌を捧げるべきなのだろうか? いったい、この世の中に、小田実を送る音楽など、存在するのだろうか? 彼の魂を鎮める音楽など、いまは想像することすら出来ない。

  寺山修司が死んだ日、私はそれを山手線の中の乗客が読む新聞で知った。私は頭がクラクラして、どうしたらよいか分からないまま、新宿の行きつけのバーに駆け込んだ。誰も寺山のことを話題にしている者はいなかった。いま思えばおとな気ないことに、私はグラスを叩きつけて叫んだ。お前ら、寺山が死んだというのに、よくもヘラヘラ飲んでいられるな!

  私は、あのときほど若くはない。小田実の死は、私ひとりで受けとめることができる。ただ、ここで、こうして書いているということは、もしかしたら、ひとりでは、結局のところ、彼の死を背負いきれないでいるのかもしれない。

  どうすればよいのか分からないまま、私は彼を送る鎮魂の歌を、時間をかけて探してみようと思う。
  
  (写真は「九条の会」のポスター)

  

  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする