2020@TOKYO

音楽、文学、映画、演劇、絵画、写真…、さまざまなアートシーンを駆けめぐるブログ。

■ハリケーン

2007-07-13 | ■芸術(音楽、美術、映画、演劇)
  
  台風はまだ東京に来ていない。ヘビー級の湿度を持った生ぬるい風が吹いている。昨日は、ハービー・ハンコックの The Eye of Hurricane のことを書いた。今日は、ずばりハリケーンの話。

  ボブ・ディランの「欲望」というアルバムは、「ハリケーン」という曲から始まる。長い曲である。昨日ご紹介したハンコックの「処女航海」とうアルバムは、アルバム・タイトル曲はもとより、話題にした「ハリケーンの目」、あるいは「ドルフィン・ダンス」など、海に関わる曲が集められていた。ディランの「ハリケーン」は、自然現象とは縁もゆかりも無い。ハリケーンという名の黒人ボクサーの悲劇を主題にした曲である。

  1966年6月、ニュージャジー州にある酒場で殺人事件が起きた。元ミドル級ボクサー、ルービン・ハリケーン・カーターが、容疑者として捜査線上に上った。何の証拠もない、それどころか、『現場で、ハリケーンを見た』という目撃証言を、警察が捏造していたのである。彼は逮捕されてしまう。ボブ・ディランは、この差別と不正を糾弾すべく、「ハリケーン」という歌を発表する。やがて1988年、いっさいの疑惑が裁判所によって払拭され、ハリケーン・カーターは、ようやく自由の身となった。

  ボブ・ディラン。この人のことを、私はまだ語れない。もしかしたら、死ぬまで語ることができない。言葉で表すことのできない偉大な存在、と言ってしまえば陳腐な印象だが、「ボブ・ディランがいなければ、今日の私は存在しない」ということだけは確実に言える。

  1975年に始まったディランの「ローリング・サンダー・レビュー」というツァーが当時NHKテレビで放映されたとき、私はフィルムカメラをテレビの前に据えて、ディラン、ジョーン・バエズ、スカーレット・リベラらの映像を撮影した。テレビの映像を写真に撮ったのは、白黒時代のウィルヘルム・ケンプ、ロブロフォン・マタチッチ以来だが、今考えると、あまりにジャンルが違いすぎる。

  このローリング・サンダー・レビューは、サム・シェパードのリポートがサンリオから出版されていたが(「ディランが街にやってきた」という最悪のタイトル)、このツアーを、フィクションともノン・フィクションともつかない手法?で映画化した「レナルド・とクララ」も衝撃的だった。このツァーでも「ハリケーン」は歌われているのだが、やはり一番カッコよかったのは、「激しい雨」だと思う。これについては、いずれ書きます。「ハリケーン」と「激しい雨」!やはり、台風接近の情報がディランの大名曲を連想させたのでしょうか?
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■ハリケーンの目

2007-07-12 | ■芸術(音楽、美術、映画、演劇)
  
  台風4号が接近している。沖縄は今夜半に暴風域に入るそうだ。最大瞬間風速が60-70メートルに達する見込み、たいへん危険な状況である。近頃、目にし、耳にする自然災害は度を越したものが多い。温暖化の影響なども語られている。何事もなく、台風が去ってくれることを祈りたい。

  "The Eye of Hurricane" = 「ハリケーンの目」という曲が入っているのが、ハービー・ハンコックの「処女航海 = Maiden Voyage」というアルバム。フレディ・ハバード (tp)、ジョージ・コールマン (ts)、ロン・カーター (bs)、トニー・ウィリアムス (ds)、そしてハンコックのピアノというクインテット。ジャズ史に残る名盤中の名盤として親しまれている。

  このメンバーは後にウエイン・ショーターをサックスに迎え、V.S.O.P.として再生する。V.S.O.P.はブランデーの名前ではなく、Very Special One Time Performance の頭文字をとったもの。ただ一度の、特別なパフォーマンスのために集まった5人だが、このメンバーは何度かの来日を含め、しばらくの間、活動を続けるようになる。

  1977年7月23日、田園コロシアムに登場したこのグループの演奏は、 " The Eye of Hurricane " で始まった。このときのライブは " Tempest In The Colosseum " =熱狂のコロシアムというアルバムに収録されていのだが、ハリケーンの目は、なんと16分をこえる演奏!文字どおり、田園コロシアムに嵐が吹き荒れるような大熱演だった。あの頃、ジャズは限りなく熱く燃えていた。

  早世したジャズ評論家の中野宏昭氏は、「ジャズはかつてジャズであった」という名著を遺した。リチャード・エイブラムス、アート・アンサンブル・オブ・シカゴなどについて、渋谷のメアリー・ジェーンでの勉強会に出席していた私は、アヴアンギャルドについて、静かに平易に語る中野氏の大ファンだった。「ジャズはかつてジャズであった」。この言葉は、30年以上経った今でも私の心に響き続けている。

  台風の接近がウソのように、東京は静かである。小さな音で、「処女航海」を聞いてみる。

  (写真:アルバム「処女航海」のフロント・カバー)
  
  
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■空港

2007-07-11 | ■エッセイ
  
  昨日のコラムで「パリのめぐり逢い」について書いた後、映画の中で、イブ・モンタンが颯爽とタラップに現れる空港は、たぶんオルリー空港だったのではないかと思った。というよりも、あの映画が作られたときにシャルル・ドゴール空港は完成していなかったはずなので、やはり、あれはオルリー空港だったと確信している。私は、実のところ、オルリー空港でイブ・モンタンばりにタラップを降りてみたかった。しかし、1975年、初めて渡欧したときには、すでにドゴール空港が完成していて、宇宙基地のように張り巡らされたエスカレーターを上ったり降りたりすることに夢中になっていた。それはそれで青年の心は躍ったが、昨日述べた「格好よさ」を演出するには、あまりに環境が現代的すぎた。やはり、あの格好よさは、オルリー空港でしか演出できない。

  あのとき、旅立ったのは羽田空港だった。成田はまだ完成していない。三里塚闘争の空気が露骨に残っている時代であったばかりでなく、中上健次の羽田闘争の余韻すらがしっかりと漂っていた時代だった。佐藤栄作をアメリカに行かせないために、羽田の周辺を若者が占拠すべく活動したのだ。

  学生時代、私は羽田空港でアルバイトをしていた。当時は赤軍派のハイジャックなどが起きていて、空港内に入り、飛行機に接する事ができる人間は、航空会社もしくは空港関係者の親族などで固められつつあった。私は飛行機会社に知り合いがいた関係で、毎夏、学校が休みの時期に羽田に雇われていた。仕事は旅行客の荷物を機内に積み込むこと。ここで実際に見聞したことは、生涯他言すべきでないと子供心に思ったものだ。多少不便でも、荷物は機内持ち込みにすべきである。

  夜間飛行を数多く経験したおかげで、世界の空港の夜景を上空から眺める幸運には何度かめぐりあった。シャルル・ドゴール空港、J.F.ケネディ空港、リナーテ空港、ヒースロー空港…、そんな中で、ベルリンのテーゲル空港を飛び立ってワルシャワに向かったときのことは忘れられない。夕方にベルリンを出て、そう遅くない時刻にワルシャワに着く便を予約していた私は、折からの雷雨に愕然とさせられた。ありきたりの表現をつかえば、バケツをひっくり返したような豪雨と、岩をも砕くごとき雷鳴に見舞われたのは、離陸を待つ機内だった。頼むから飛び立たないでくれ!不思議なもので、ワルシャワへ向けて気持ちは急いているものの、出来ればここに留まりたい、こんな天候での飛行だけは止めてほしい、と真剣に思っていた。やがて、一瞬の止み間があった。機内にアナウンスが流れる。『長い間お待たせいたしました。私たちはこの機を逃さず離陸にチャレンジします』。どす暗く低く垂れ込めた雲の間に、こちらから見る限り、ほんの小指の先ほどの空間がポッカリ穴をあけている(あたかも空間にあいた穴のようなスペースのむこうには、弱いものの確かな光が見えた)。それに向けて、プラモデルのように華奢で小さな飛行機が飛び立った。

  私たち乗客は、無事にワルシャワ空港に着陸した。オルリー空港でのイブ・モンタンのように、誰かがデッキに迎えに来てくれているわけでもなく、私はひとり漆黒の闇に包まれたワルシャワの町をタクシーで駆け抜けた。その時ばかりではない。何度も何度も、異国の空港に降り立ちながら、ただの一度も、タラップに立ち、コートの襟を立てて、『やれやれ』とため息をつくような格好よさを演じたことは、残念ながら、今のところ一度もない。
  
  
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■パリのめぐり逢い

2007-07-10 | ■芸術(音楽、美術、映画、演劇)
  
  もう一度見たい映画というものがある。それは、誰にでもあるのだと思う。昔はそういうことが仲間同士の話題になり、渋谷や新宿、池袋の三本立て映画館の情報収集に走ったものだ。実際、私の周りには極端な映画好きが大勢いた。友人のKは学生時代の文集に、『フェリーニを上映している映画館の小便臭い暗がりが、僕の告解室だった』と書いていたが、こういう話は当時の多くの若者が実践していた。

  80年代に入って、ビデオテープというものが普及してからというもの、“どうしても見たい映画”は、いとも簡単に家庭で見ることができるようになった。初期の頃のビデオレンタル料は、映画一本分くらいの値段だったような記憶があるが、それでも私たちはレンタルビデオ店から貪るように借りまくった。
 
  ところで、昔も今も、クロード・ルルーシュの「パリのめぐり逢い」をレンタルビデオ店で見かけた人がいるだろうか? 現在、TSUTAYAなどのリストにこの作品は登録されておらず、それどころか、ビデオやDVDでリリースされた形跡もない。ルルーシュの「男と女」や「白い恋人たち」、それに「愛と哀しみのボレロ」などは何度も形を変えてリリースされているようなのだが、「パリのめぐり逢い」に関しては、フランシス・レイのサントラが発売されているだけだ。著作権の問題なのだろうか?これほどの名画がパッケージソフトの形で残されていないことは不思議だ。

  「パリのめぐり逢い」には、格別の思い出がある。学生時代、渋谷に全線座という映画館があって、300円(確証はないが、おそらくこの金額だったと思う)で、2本か3本の映画を見ることができた。件の映画は、そこで見た。そのとき、同時に上映されていた映画のタイトルは覚えていない。この映画館で見た作品の中で、記憶に強く残っているのは、「YOU」「いちご白書」「リスボン特急」「アデルの恋の物語」などだが、とりわけリスボンやアデル、それに「パリのめぐり逢い」といったフランス人の作品の映像が強く焼きついている。

  「パリのめぐり逢い」の主人公は、イブ・モンタンとキャンディス・バーゲンである。当時、まだ10代だった私にとって、妻帯者のイブ・モンタンが若い女性(キャンディス・バーゲン)と恋に落ちるくだりは、今ひとつピンと来なかったが、次の二つの場面だけは鮮烈に覚えている。人気テレビキャスター役のイブ・モンタンは、スタッフの女性(キャンディス・バーゲン)を連れてアフリカに出かける。これは、俗に言う浮気旅行である。フランスに戻ったとき、空港のテラスに奥さんが迎えに来ている。イブ・モンタンは機内でスタッフの女性を言いくるめて座席に残し、一人でタラップを降りる。この場面、イブ・モンタンがタラップに登場し、奥さんが大きく手を振る場面で流れるのが、フランシス・レイの「カトリーヌのテーマ」。オルガンによる哀愁漂うメロディーだが、寒々とした空気をなおも切り裂いて、その先に人が安らぐ暖炉を探すように、音楽は短調から長調、そしてまた短調へ、目まぐるしく変化する。

  やがて、場面は移り、奥さんと再生の旅に出るイブ・モンタン。アムステルダムの橋の上で、超小型のカメラ(たぶんミノックス)を取り出して奥さんを撮影する、その姿の何という格好よさ。「パリのめぐり逢い」を初めて見てから、おそらく35年以上の年月が流れているのだろうが、私自身の心の中にある“男の格好よさの見本”は、あの映画の中のイブ・モンタンである。

  だからこそ、もう一度見てみたいのだ。あのときのイブ・モンタンよりも年をとっている自分が、どのように「パリのめぐり逢い」を受け入れるのか?どうしたら、あの映画を再び見ることができるのだろう。このブログを読んでくれている映像業界の友だちよ、何とか都合をつけてもらえないものか。

  (写真:「パリのめぐり逢い」のポスター)
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■許すことができるということ

2007-07-09 | ■エッセイ
  
  先週の金曜日は、お世話になった方の送別会に出た。60歳まで勤めた会社を後にする人の笑顔は清々しく、去り際の後ろ姿も背筋がピンと伸びて見えた。現役時代は仕事の厳しさで鳴らした人で、出席者のなかにも彼の逆鱗にふれたひとは何人もいた。それでも、多くの人々が彼の退職を惜しみ、ひとりひとり心からの惜別の辞を用意していた。退職後の人生設計について、それほど詳しくは話さなかったものの、彼がかもし出す落ちついた雰囲気、何かに追われない泰然とした態度は、居合わせた者を幸せな気分にさせた。

  人生が終わりに近づくほど、人は静かな気持ちになり、いろいろなことを許せるようになるのだろうか?作者自身の人生と合わせるように、シェイクスピア最晩年の作「テンペスト」の終幕では、ミラノ大公プロスペローが魔法の衣を脱ぎ、杖を置いて、身に降りかかった裏切りなどの一切を許した上で、故郷への航海に出発する。劇中で大活躍したエリアルに対する最後の命令は、航海を平穏に収めることである。

  芝居も人生も、静かなラストシーンが美しい。モーツァルトの「フィガロの結婚」でも、馬鹿騒ぎの末に散々コケにされた伯爵が、結局は全員を許してしまう。聡明で美しい伯爵夫人が諭したとはいえ…。序曲から大団円のラストまで、「フィガロの結婚」には多くの素晴らしいアリアが登場するが、伯爵の寛容を歌うアリアの何という美しさ。最近、そういう音楽が、若いころよりもずっと理解できるようになってきた。

  (写真:ディレク・ジャーマン監督「テンペスト」DVDのフロント・カバー。さすが、ディレク・ジャーマンだけあって、ドロドロしたカバーだ。ピーター・グリーナウエイには「テンペスト」を主題にした「プロスペローの本」という映画がある。これもドロドロ)。
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■ありがとう

2007-07-07 | ■エッセイ
  
  7月1日にブログを始めてから今日で7日が過ぎた。6日の間勤勉に働いたら1日の安息日が待っているわけだから、今日はお休みしてもよいのかもしれない。この一週間、ブログを読み続けてくれた人がいたら、心からお礼を言いたい。その方たちにとっても、安息日は必要なのだろう。世の中のブログというものよりも私の書くものは長いので、読むのもさぞ骨が折れることと思う。皆さん、本当にありがとう。

  私が通った小学校では、ひとつひとつの学級を、1組2組…ではなく、松組、竹組、梅組、月組、雪組というふうに呼んでいた。宝塚歌劇団のようだ。子ども時代は何とも思わなかったが、お寿司の一般的な等級からすると、松が一番高級で、梅は並である。今の親だったら差別だと怒り出しそうなネーミングだが、当時は誰も何とも思わなかったようだ。私は1年生から2年生が雪組、3年生から6年生までは松組だった。高級志向である。1クラスには、男女合わせて40人以上の生徒がいたと記憶している。松組に在籍する間、私はずっと学級委員だった。40人の生徒を前に、教壇に上がって学級会の議長をする緊張感。一言一言に気を使い、野次られたり、笑われたりしないように、肩を何度も上下させながら、深呼吸をくり返したものだ。

  この一週間、毎日午前0時にブログを更新してきた。goo の解析によれば、私のブログに対するアクセスが最も多いのは午前0時過ぎである。まだまだ訪れてくれる人数は少ない。しかし、私がブログを更新する午前0時、小学生のころの、あの松組に等しい数の人たちが、このブログにアクセスしてくれている。松組の全員が、私の新しい記事を待っていてくれる。私は深呼吸して、少しだけ緊張する。
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■オン・ザ・ロード

2007-07-06 | ■文学
  
  東京国際ブックフェアに行ってきた。年々、その規模が小さくなるようで寂しいかぎりである。とはいえ、それぞれの出版社は、(おそらく予算を削りながらも)工夫をこらして自社の特長をアピールしている。

  ブックフェアのお目当ては、ほとんどの書籍が2割引で買えること。とくに、日ごろなかなか書店の棚に並ばない人文、社会科学系の書籍が安く手に入るばかりでなく、その全貌を閲覧できるのだから、これは収穫である。みすず書房や白水社の本は、背表紙を見ているだけで心が安らぐ。

  今回は、平凡社ライブラリーから2冊、そして河出書房新社の外国文学を1冊買って帰った。「世界の歌」ジャン・ジオノ著。帯表1のコピーは、「行方不明の息子を探す老父と木や魚と話せる詩人のような男が織りなす荘厳な旅物語」(原文のまま。読点はない)。訳者の山本省氏は長いあとがきを書いているのだが、そのごく一部が帯の表4に引用されている。こんな感じだ。「世界の歌」というタイトルにふさわしい物語を書きたいという野心をジオノは持っていた。……「世界」とは、人間の世界であると同時に、動物や植物さらに山や河や平野など自然界のありとあらゆる世界でもある。……二人の主人公を中心に、漁師、きこり、医者、牛飼い、革職人など、多彩な人物が繰り広げる壮大な感動の物語。

  「世界の歌」というタイトルに一目ぼれし、帯のコピーに惹きつけられて、迷わず購入。書き出しの三行だけ、どうしても紹介したい。「夜。河は森のなかを両肩でぐいぐい押すように流れていた。アントニオは島の先端まで進んだ。先端の片側では水は深く、猫の毛のように滑らかだったが、もう一方の側では浅瀬のいななきが聞こえていた。アントニオは楢(なら)の木に触れた。手を通して木の震えを聴いた」。どうです?読みたくなるでしょ!

  河出書房新社から、嬉しいニュースを聞いた。今どき、なんと世界文学全集が刊行されるのである。ブリタニカや平凡社など、百科事典の全盛期があったように、大手出版社が文学全集を競って発行していた時期があった。百科事典は電子辞書に姿を変え、文学全集も、いつの間にか消えていった。猫も杓子もデジタルな時代に、世界文学全集全24巻刊行開始!嬉しいではないですか。何が?って、出版社としての姿勢です。これこそ、「版元の魂」と呼びたい。観音開きのパンフレットには、本文組み見本が原寸で載っている。ああ、まるで昭和にタイムスリップしたみたい。そうそう、昔の文学全集には編集委員というのがいて、それを冠とした各社の差別化があった。ところがである。今回の全集は編集委員たった一人。池澤夏樹=個人編集と堂々と謳ってある。

  今回のブログは引用が多い。引用が多いと長くなる。長くなるとブログを読んでくれる人が少なくなる。どうでもよい。これだけは、絶対に読んでいただきたい。パンフレットに記されている池澤夏樹氏の言葉、これぞ名文の見本である。これもまた無断引用だが、宣伝と思って許して欲しい。では引用します。

  世界文学全集宣言 人が一人では生きていけないように、文学は一冊では成立しない。一冊の本の背後にはたくさんの本がある。本を読むというのは、実はそれまでに読んだ本を思い出す行為だ。新鮮でいて懐かしい。そのために、「文学全集」と呼ばれる教養のシステムがかつてあった。それをもう一度作ろうとぼくは考えた。三か月で消えるベストセラーではなく、心の中に十年二十年残る読書体験。その一方で、それは明日につながる世界文学の見本市、作家を目指す若い人々の支援キットでなければならない。敢えて古典を外し、もっぱら二十世紀後半から名作を選んだのはそのためだ。世界はこんなに広いし、人間の思いはこんなに遠くまで飛翔する。それを体験してほしい。

  世界はこんなに広いし、人間の思いはこんなに遠くまで飛翔する。この一言で、この全集は『買い!』である。刊行には心憎い仕掛けがしてある。こういう仕掛けを見ると、「分かってる奴が編集してるなあ」と同業者ながら感心してしまうのである。その仕掛けとは、第一回配本がジャック・ケルアックの「オン・ザ・ロード」なんですよ。あの「路上」ですよ。おお!半世紀ぶりの新訳、しかも訳者は青山南さん。帯の写真は藤原新也さん。琴線にふれるどころか、琴線をジャカジャカかき鳴らされるような仕掛けではないですか。多くの若者たちをインスパイアし続けたあの作品の新しい翻訳が現れるなんて(ほとんど泣きそうです)。

  「アデン、アラビア」も小野正嗣さんの新訳でラインアップされる。長い間ずっと篠田浩一郎さんの訳でしか読めなかった青春の書。あの頃、みんなが覚えていたあの有名な書き出しは、どのように変わるのだろう?「ぼくは二十歳だった。それが人の一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい」。これがどんなふうになるのだろう?楽しみ。

  他には、デュラス、グラス、モラヴィア、ピンチョンなど、全巻一時払い特価59,800円。これは2008年3月末日まで有効だから、じっくり考えましょう。

  (写真は、ジャン・ジオノ)
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■雨の日の釣り師のために

2007-07-05 | ■釣り
  
  相変わらず、東京には小雨が降っている。昨日に続いて、また雨の話。「雨の日の釣り師のために」という本がある。ヘミングウエイやリチャード・ブローティガン、井伏鱒二らの釣り文学を開高健が編んだもので、彼自身の作品も収載されている。書物のタイトルも、おそらく開高自身のネーミングだと思う。このタイトルの深さと奥行きは、釣り師にしか分からない。はらはらと雨が伝う窓の先に、釣り師は山女(やまめ)の美しき魚体を追うのである。

  エミール・クストリッツァの「アリゾナ・ドリーム」には空を飛ぶ魚が登場するが、魚を扱った映画としては、ティム・バートンの「ビッグ・フィッシュ」に感動した。『小さな池の、大きな魚にはなりたくない』、不覚にも涙を流してしまう名品である。

  雨の日の釣り師に戻ろう。私は、フライ・フィッシャー誌に連載されている柴田邦彦さんのイラストとコラムの大ファンなのだが、以前の号で印象に残っているのが、マリエル・フォスターの話。雨の中を釣りに急ぐマリエルおばさんの姿を描いた作品だ。このシリーズ「川からの釣り人の手紙」が、講談社から単行本として出版されたときも、マリエルおばさんのコラムはしっかり収載されていた。『丸いつばのついた帽子をかぶり、オイルコットンの上着、下は長いツィードのスカートに厚いソックスと革の頑丈そうな短靴。釣具はフィッシング・バッグ一つと重そうな竿を肩にかついでいる。楽しくて仕方ないという風に水を蹴散らしながら歩いている』(原文引用)。これもまた、雨の日の釣り師の肖像である。

  フライ・フィッシングの虜になって10年以上の年月が流れた。試行錯誤を繰り返しながら、どうにかフライ(毛鉤)が巻けるようになったころ、アイザック・ウォルトンの「釣魚大全」に出会った。「 Study to be quiet = 静かなることを学べ」という箴言ではじまるこの書物の原題は「 The Complete Angler = 完全なる釣り師 」。だからといって、釣りに関する諸事万端が語られているわけではなく、旅人と猟師の会話(パブでエール・ビールを飲んだりするくだりが微笑ましい)によって鱒釣りを中心とした釣りの作法が人生論のように語られる。初版の発行は1653年というのだから、江戸時代から今日まで脈々と読み継がれている釣り文学の金字塔である。

  釣りをはじめてしばらく経ったころ、青山にあった釣り関連の洋書専門店で、「 The Uncomplete Angler = 不完全なる釣り師」というふざけた本を見つけた。タイトルの面白さにつられて買って帰ったものの、いまだに読まずじまいだ。ただ、相変わらず静かなることを学べないでいる私にとって、The Uncomplete Angler という称号は、耳に痛いながらも、まことに共感できる。

  「リバー・ランズ・スルー・イット」は、まさしくフライ・フィッシングの聖典のような映画だが、兄が弟のキャスティングを見てつぶやく場面、『弟のフライ・キャスティングは芸術の域に達した』という一言で、私はフライ・フィッシングを始める決意をしたものだった。以来、“芸術的なフライ・キャスティング”は、私自身の生涯の課題となった。

  本日のコラムの結びに、開高健が喧伝した中国のことわざを紹介しよう。『一時間、幸せになりたかったら、酒を飲みなさい。三日間、幸せになりたかったら、結婚しなさい。八日間、幸せになりたかったら、豚を殺して食べなさい。永遠に幸せになりたかったら、釣りを覚えなさい』。

  雨の日の釣り師は、やがて永遠の幸せを手に入れるのである。

  (写真は「リバー・ランズ・スルー・イット」の舞台にもなった釣りの聖地モンタナ)
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■さくらんぼの実るころ

2007-07-04 | ■芸術(音楽、美術、映画、演劇)
  
  梅雨である。金魚鉢の中で生活しているような湿度の高さである。湿度80パーセントなどと聞くと、もう水の中を歩いているような感覚である。「しょうがない、雨の日はしょうがない、公園のベンチでひとり、おさかなをつれば、おさかなもまた、雨の中」という歌詞はすごい感性だ。さすが別役実である。

  梅雨はなぜ梅に雨と書くかというと、理由はいたって簡単。梅の実が熟れるころに雨が降るからだという。梅の実が熟れるころ…、その語感で思い出すのが、シャンソン「さくらんぼの実るころ ( Le Temps Des Cerises ) 」だ。この歌には多くの名唱が残されているが、とりわけ印象深いのは、コラ・ボケールが草月ホールに出演したときのもの。フィリップスからレコードが発売されていて、私はそれで聞いた。今、確認はできないのだが、おそらく1980年の初来日ライブの模様を記録したものだったと思う。3コーラスめ、Si vous avez peur le chagrin d'amour のくだりでは、泣いているのかと思わせるくらい声が揺れて、ハッとさせられる。さくらんぼの実るころ、人は恋をする。でも、さくらんぼの季節は短い…そんな歌詞からすれば、この歌はただの恋の歌だ。ところが、その背景にはパリ・コミューンの悲しく熾烈な歴史が書き込まれている。最近、建設会社のテレビCMで、この曲は軽いタッチにアレンジして使われているが、コラ・ボケールの歌は、それとは反対の、歌そのものの本質をえぐりだす絶唱だった。

  サクランボといえば、太宰治の「桜桃」。若いころ、ここに出てくる“涙の谷”の解釈に長いこととらわれていた。涙の谷…、今これを書いていて、コラ・ボケールの絶唱こそ、涙の谷と表現できるものなのかもしれないと思った。

  もうひとつ、アッバス・キアロスタミの「桜桃の味」。キアロスタミは、「友だちの家はどこ?」「そして人生はつづく」「オリーブの林をぬけて」など、すばらしい映像を提供してくれるイランの映画監督である。「桜桃の味」は、自らの自殺を手助けしてくれる人を探す悲しい中年男の話。自殺しようとする男に投げかけられるセリフ「すべてを拒み、すべてを諦めてしまうのか。桜桃の味を忘れてしまうのか」。

  雨が空から降れば、思い出は地面にしみ込む…しょうがない、雨の日はしょうがない………。早く夏がきて欲しいけれど、しばらくは金魚鉢の中にいるのもいいかもしれない。
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■HMVのポイントカードが新しくなった!

2007-07-03 | ■芸術(音楽、美術、映画、演劇)
  
  渡辺貞夫、菊池雅章、ゲーリー・ピーコック、富樫雅彦、村上寛による70年代日本ジャズ界の名盤中の名盤!“Paysages=ペイザージュ” が SACD仕様で再発されたので、HMVに行った。いつものようにポイントカードを出すと、今回からシステムが変わったのだと言われ、金色に輝くクレジットカードのようなものを渡された。店の人の説明によれば、買い物の度にポイントが貯まるシステムは同じなのだが、ポイント数を携帯やPCから確認できるというもの。それが果たしてどのようなメリットがあるのか未だにハッキリとはしないものの、とりあえずPCから会員登録することに成功した。

  一度の買い物でポイントが満タンになるほどCDが欲しい。とはいえ、週末など、所定の買い物カゴに溢れんばかりにCDを詰め込んで目を血走らせているオジサンを見ることがあるが、さすがにあそこまでムキになる気はない。

  HMVで買いまくった思い出と言えば、EMI CLASSICS の art シリーズである。EMIに残っている数々の名演奏、名録音を先進の技術でマスタリングし直したもの。シリーズ名の art は、Abbey Road Technology の略で、All Titles Digitally Remastered at Abbey Road Studios from The Original Masters (すべてのタイトルは、オリジナル・マスター・テープから、アビーロード・スタジオでデジタル・マスタリングが施されている) と明記されている。交響曲や管弦楽曲からオペラまで、多くの名盤がリマスタリングされたのだが、私はオペラだけでも10タイトル以上を買い込むことになった。私は、このシリーズの音作りに心底共感していたのだ。

  アビーロードといえば、やはりビートルズを思い出す。横断歩道を4人が歩いているジャケット写真。あの頃、ポール・マッカートニーは死んでいるというデマがまことしやかに流されていて、LPレコード “アビーロード” のジャケット場面設定も、ポールだけが裸足、ジョンは葬儀を仕切る司祭ふう。リンゴが葬儀屋で、ジョージは墓堀人といういでたちだった。それ以前にリリースされたLP “サージェント・ペッパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド” のレコード・ジャケットを天地さかさまに見ると、地面に植えてある花の模様が paul と読める、これはお墓を暗示するものだ等々、皆で勝手に騒いでいた。ところがどっこい、最後まで生き残って活躍しているのはポールだけ(リンゴも生きてますが)、現実は皮肉なものだ。

  2000年の秋、ロンドンのエア・スタジオで仕事をした。アビーロード・スタジオと同じく教会を改造した建物で、自然なアコースティックが心地よかった。品の良いステンドグラスから差し込む光が柔らかく、スタジオの中の空気は常に澄んでいた。私はここで一週間近く、ストリングスのダビング作業を進めていたのだが、ある日、大量の楽器が別のスタジオに運び込まれるのを目撃した。明らかにフル編成のオーケストラである。「何の録音があるの?」と係の人に尋ねると、ディズニーの名曲をフル・オーケストラでレコーディングするらしいという答えが返ってきた。

  やがて楽員たちが続々と現れる。中のひとりが、「ハイ!ジョージは先に着いてるみたいね。外に車があったから」と言って私の前を通り過ぎていった。別の場所からは、「ねえねえ、今日はジョージが来てるみたいよ」という声も聞こえてきた。私は外に出てみた。スタジオの横には、なんと紫色のロールスロイスが停まっていた。私はそばにいた楽員に尋ねた。「これ、誰の車?」「ジョージのさ」「ジョージって誰?」「何言ってるんだよ。ジョージ・マーティンだよ」。一瞬、息が止まりそうになった。ビートルズのプロデューサー、ジョージ・マーティンがここにいるのだ。どうしたらよいのか分からずに、私はただオリンパスのデジカメで、夕陽に輝く紫色のロールスロイスをバシャバシャと撮り続けていた。
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■アメリカで、iPhoneいよいよ発売!

2007-07-02 | ■エッセイ
  
  アメリカで、ついにiPhoneが発売された。携帯電話にiPod、さらにはPCの機能までが搭載されているそうだ。各局のニュースは、販売店の前に何日も並び続けている人や、順番待ちの席を400ドルで譲ってもらった人の話などを紹介していた。本体が6万円もするのに、すごいフィーバーぶりだ。

  iPhoneの日本への上陸はまだ先のようだが、最近、iPodの普及が全世界で1億台をこえたと聞いて、遅ればせながら、アップルストアに赴いた。本体からイヤフォンまで、すべてが真っ白!ON/OFFのスイッチはどこにもなく、ボタンを押すとか、ダイアルをひねるとかいった動作はいっさいない。選曲は、本体中央にある環状のトラックを指でなぞるだけである。もちろんプレイやストップは「押す」という作業が加わるが、これも押すというよりは、ほとんど触っているだけに等しい。

  何度が使ってみて思ったのだが、iPodの感触には独特なものがある。もしかすると、iPod成功の一つの要因は、この感触にあるのかもしれない。沢山の曲が収納できること、バッテリーが長時間の使用に耐えることなど、機能の面での優位性も確かにあるのだろう。しかし、iPodが圧倒的に他社の追随を許さない根底には、人間の心の奥底に潜む感性を刺激する触感があるような気がする。

  表面が純白、背面は金属の光を放ち、その佇まいは近未来的である。電子機器であるにもかかわらず、その体そのものが呼吸しているように見える。透明感あふれる空間に置かれた植物のようだ。iPodを動かすのは電気ではなく、水と光と酸素ではないかと思ってしまう。iPodの光合成!

  それにしても、「携帯型オーディオプレーヤー」というものは、日本が先駆だったはず。ソニーのウォークマンが世に出たのは1979年のことで、今のiPodと比べると、その体は弁当箱のよう。いかにもバネが利いている感じのスィッチが備わっていて、今思えば、何とも重厚長大という感じ。音量は、右と左別々に調整することができた。イヤフォンを片方の耳に入れて聞く携帯型のラジオから、突然イヤフォンを両耳に入れて、右と左から異なる音が聞こえる機器が登場したのだ。初代のウォークマンの背面には、大きなロゴでSTEREOと記されていた記憶がある。

  当時、何より驚いたのは、同時に二人で聞くことができるように、ヘッドフォンの端子が2つ付いていたこと。もっと驚いたのは、HOTLINE機能というものがあって、オレンジ色のボタン(このボタンは異様に目立った)を押すと、本体に内蔵されたマイクで、お互いの話し声がヘッドフォンから聞こえたこと。その時、音楽の音量が少し下がる仕掛けになっていた。

  目の前にあるiPodを見ながら、ふと私は、あのオレンジ色のボタン=HOTLINEのことを思った。デジタル機器はどんどん小さくなり、ますます美しくなり、便利にもなった。しかし、イヤフォンで耳を塞いでしまえば一人の世界。街中には、白いイヤフォンで耳を塞いだ「個」が行き交っている。音楽を中断してまで会話を優先する機能を付けた初代ウォークマンの感性、それは日本人独自のものなのだろうか?
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■南に帰る~ビクトル・ハラ~ガトー・バルビエリ

2007-07-01 | ■芸術(音楽、美術、映画、演劇)
  
  仕事の忙しさにうんざりしている風な私を見かねて、友人が一枚のCDを推薦してくれた。「南に帰る つのだたかし(歌とギター)」というもので、リュート奏者のつのだたかし初の弾き語りということらしい。友人は“おじさんの鼻歌”と書いていたが、演奏者自身が素直に、『これは「鼻歌」の録音である』とライナーノートに書いている。ところが、その「鼻歌」がじつにいい。しばらくの間、思わず聞きほれてしまった。

  タイトル曲はピアソラ (Astor Piazzolla) の作、つづく「アルフォンシーナと海」という曲は、メルセデス・ソーサ (Mercedes Sosa) の歌で聞くのが良いとライナーに書いてある。ソーサ、じつに久しぶりに聞く名前だ。メジャー・リーグのサミー・ソーサも有名だが、メルセデス・ソーサはアルゼンチンの大歌手なのである。それで思い出すのが、1975年ソーサ初来日のとき、アタウアルパ・ユパンキ (Atahualpa Yupanqui) の名曲「トゥクマンの月」の名唱は心に深く残っている。私はこの歌をユパンキやソーサとは別の演奏で以前から知っていた。それはサックス奏者のガトー・バルビエリ (Gato Barbieri) のアルバム「アンダー・ファイアー」に収録されており、学生時代、私はこの演奏を憑かれたように聞きまくっていたものだ。

  ガトーの主要アルバムが次々にCD化される中、「アンダー・ファイアー」は長いことCDとしてリリースされず、レコードプレイヤーの廃棄と共に、「トゥクマンの月」も私の中で長いこと封印されてしまった(後に、何故か「アンダー・ファイアー」は、他のCDとセットになってガトー・バルビエリBOXのような形でリリースされた。たしか14,000円くらいしたので、買わず仕舞い)。

  「南に帰る」に帰ろう。3曲目は飛ばして4曲目、ここで私は戦慄を覚えたものだ。長いこと、すっかり忘れていた名前、そこには作曲者の名前として、ビクトル・ハラ (Victor Jara) と記されていた。「サンティアゴに雨が降る」という映画を覚えている人がいたら嬉しいのだが、1973年、チリで軍事クーデターが発生したときの状況を映し出した作品だ。ここで描かれているように、アジエンデ大統領 (Salvador Allende Gossens) は殺され、民主的な手続きを経て誕生した社会主義政権が軍人によって倒されてしまったのだ。以下は「南に帰る」のライナー・ノートにつのだたかしさんが書いていることの引用。⇒この社会主義政権を積極的に支持していたビクトル・ハラも逮捕され、チリ・スタジアムに連行された。彼は他の逮捕者を励ますためギターを鳴らし、連合の歌を歌い始めたという。軍人たちはそのギターを取り上げる。それでも彼らは手拍子で歌い続ける。軍人たちは怒り狂ってついにはビクトルの手を砕き、そして無数の銃弾を彼に浴びせたという。

  このクーデターの最中、海外で演奏旅行を行っていたチリのグループ、キラパジュンは母国に帰ることができなくなってしまう。しかし、それがかえって世界中の人々に当時のチリ軍事政権の暴虐を知らせる結果となった。私自身も彼らが来日したときに、神奈川県民ホールでの演奏会に足を運び、多くの聴衆と “El Pueblo Unido Jamassera Vencido =アジエンデと共に”を合唱し、心の中で彼らの活動を応援したのである。キラパジュンとビクトル・ハラの共演はCDで聞くことができる。

  「南に帰る」を聞きながら、いろいろな事を思い出してしまったので、ついでにiTunesで調べてみると、フランセスカ・ソルヴィル (Francesca Solleville) というシャンソン歌手の歌で、Chanson pour Victor Jara というのが見つかった。すかさずipodに収めたものの、何を歌っているのかはよくわからないまま。驚いたことに、ガトー・バルビエリの「アンダー・ファイアー」もiTunesに提供されていて、私はおよそ30年ぶりに彼の「トゥクマンの月=Yo Le Canto a La Luna」を聞くことができた。

  あまりに長くなってしまったので、フランセスカ・ソルヴィルとシャンソン・リテレールの話は次の機会にします。

  (写真はビクトール・ハラ)
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■ロバート・ラウシェンバーグがきっかけ…?

2007-07-01 | ■芸術(音楽、美術、映画、演劇)
  
  就職が決まり、髪を切って社会に出た私は、学生時代のモラトリアム時間が長すぎたせいか、社会に(あるいは会社に)順応できず、周囲の不満分子を集めて同人誌を発行し、そこに鬱憤をぶつけていた。コラムのタイトルは「TOKYO1975→∞」。今回、ブログの開設にあたりタイトルの出自をたどると、ロバート・ラウシェンバーグに行き着いた。1964年、草月アートセンターで行われたラウシェンバーグの公開制作のリポートを読んだとき、そこに「TOKYO1964→∞」という言葉が出てきた記憶があるのだ。リポーターは東野芳明氏だったと思う。篠原有司男氏が“思考するマルセル・デュシャンの像”をかついで会場に乗り込んだ『伝説の』イベントである。

  草月アートセンターは、1958年に開設し71年に解散するまで、まさしく日本のアートシーンの尖端を走っていた。ここに関係した人々を思いつくままに列挙しただけでもたいへんな数にのぼる。安部公房、寺山修司、黛敏郎、武満徹、一柳慧、高橋悠治、小野洋子、小杉武久、粟津潔、ジョン・ケージ、デービッド・チュードア、マース・カニングハム…。

  世界のアートシーンが目まぐるしく移り変わる時代に、自分自身の青春を重ねることができる幸せにめぐまれた私は、リアルタイムで現場に立つことの出来る喜びを味わっていた。高校生の頃、竹橋の美術館で行われた展覧会で初めてバウハウスの存在を知り、大阪万博ではシュトックハウゼン、武満徹、高橋悠治、クセナキスを聞いた。フェリーニ、パゾリーニ、アントニオーニ、ゴダールらの新作が封切られ、ジャスパー・ジョーンズの美術とジョン・ケージ、小杉武久の音楽を背景に、マース・カニングハム舞踏団が来日した。ピーター・ブルックの「真夏の夜の夢」公演もいまだに目に焼きついている。実際、あの頃の東京では、イタリア文化会館、アメリカ文化センター、ドイツ文化会館などが、あたかも競い合うように無料で現代アートを紹介していて、ベリオの新作や、スティーブ・ライヒのミニマルなどに接することができた。その意味で、現代アートは、普通に生活の一部となっていた。

  毎日毎日、そんな状況に浸っていた男が、1975年の4月、突然に管理社会の中へ放り込まれたのである。「TOKYO1975→∞」という当時のタイトルは、確証がないものの、ラウシェンバーグのイベントからの引用だったと思うのだが、当時の私自身の心情を考えると、おそらく「→∞」という表現の中に、現実の閉塞感から逃れる切ない希望を込めようとしていたのかもしれない。「→∞」の中に自らの解放を暗示させたのかもしれない。

  そうなのだ。書くことによって自らを開き、読まれることで啓かれていく、その心根は32年経った今でもいささかも変わってはいない。32年経ち、54歳になり、企業の管理職になってしまった今でも、私は何も変わっていない。だから私は、当時のままのタイトルを使うことにした。ただし、TOKYOを東京に変えて。

  ロビー・ロバートソンは、「道が僕らの学校だった」と語った。ゆっくり道を歩むように、このコラムを続けられたらと思う。道の途中で新たな友に出会えれば、これは幸せなことだ。そして、一休みした木陰を、永年の知己が訪ねてくれれば、これはまた望外の喜びである。

  (Photo:Coca-Cola Plan 1958)
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