2020@TOKYO

音楽、文学、映画、演劇、絵画、写真…、さまざまなアートシーンを駆けめぐるブログ。

■南に帰る~ビクトル・ハラ~ガトー・バルビエリ

2007-07-01 | ■芸術(音楽、美術、映画、演劇)
  
  仕事の忙しさにうんざりしている風な私を見かねて、友人が一枚のCDを推薦してくれた。「南に帰る つのだたかし(歌とギター)」というもので、リュート奏者のつのだたかし初の弾き語りということらしい。友人は“おじさんの鼻歌”と書いていたが、演奏者自身が素直に、『これは「鼻歌」の録音である』とライナーノートに書いている。ところが、その「鼻歌」がじつにいい。しばらくの間、思わず聞きほれてしまった。

  タイトル曲はピアソラ (Astor Piazzolla) の作、つづく「アルフォンシーナと海」という曲は、メルセデス・ソーサ (Mercedes Sosa) の歌で聞くのが良いとライナーに書いてある。ソーサ、じつに久しぶりに聞く名前だ。メジャー・リーグのサミー・ソーサも有名だが、メルセデス・ソーサはアルゼンチンの大歌手なのである。それで思い出すのが、1975年ソーサ初来日のとき、アタウアルパ・ユパンキ (Atahualpa Yupanqui) の名曲「トゥクマンの月」の名唱は心に深く残っている。私はこの歌をユパンキやソーサとは別の演奏で以前から知っていた。それはサックス奏者のガトー・バルビエリ (Gato Barbieri) のアルバム「アンダー・ファイアー」に収録されており、学生時代、私はこの演奏を憑かれたように聞きまくっていたものだ。

  ガトーの主要アルバムが次々にCD化される中、「アンダー・ファイアー」は長いことCDとしてリリースされず、レコードプレイヤーの廃棄と共に、「トゥクマンの月」も私の中で長いこと封印されてしまった(後に、何故か「アンダー・ファイアー」は、他のCDとセットになってガトー・バルビエリBOXのような形でリリースされた。たしか14,000円くらいしたので、買わず仕舞い)。

  「南に帰る」に帰ろう。3曲目は飛ばして4曲目、ここで私は戦慄を覚えたものだ。長いこと、すっかり忘れていた名前、そこには作曲者の名前として、ビクトル・ハラ (Victor Jara) と記されていた。「サンティアゴに雨が降る」という映画を覚えている人がいたら嬉しいのだが、1973年、チリで軍事クーデターが発生したときの状況を映し出した作品だ。ここで描かれているように、アジエンデ大統領 (Salvador Allende Gossens) は殺され、民主的な手続きを経て誕生した社会主義政権が軍人によって倒されてしまったのだ。以下は「南に帰る」のライナー・ノートにつのだたかしさんが書いていることの引用。⇒この社会主義政権を積極的に支持していたビクトル・ハラも逮捕され、チリ・スタジアムに連行された。彼は他の逮捕者を励ますためギターを鳴らし、連合の歌を歌い始めたという。軍人たちはそのギターを取り上げる。それでも彼らは手拍子で歌い続ける。軍人たちは怒り狂ってついにはビクトルの手を砕き、そして無数の銃弾を彼に浴びせたという。

  このクーデターの最中、海外で演奏旅行を行っていたチリのグループ、キラパジュンは母国に帰ることができなくなってしまう。しかし、それがかえって世界中の人々に当時のチリ軍事政権の暴虐を知らせる結果となった。私自身も彼らが来日したときに、神奈川県民ホールでの演奏会に足を運び、多くの聴衆と “El Pueblo Unido Jamassera Vencido =アジエンデと共に”を合唱し、心の中で彼らの活動を応援したのである。キラパジュンとビクトル・ハラの共演はCDで聞くことができる。

  「南に帰る」を聞きながら、いろいろな事を思い出してしまったので、ついでにiTunesで調べてみると、フランセスカ・ソルヴィル (Francesca Solleville) というシャンソン歌手の歌で、Chanson pour Victor Jara というのが見つかった。すかさずipodに収めたものの、何を歌っているのかはよくわからないまま。驚いたことに、ガトー・バルビエリの「アンダー・ファイアー」もiTunesに提供されていて、私はおよそ30年ぶりに彼の「トゥクマンの月=Yo Le Canto a La Luna」を聞くことができた。

  あまりに長くなってしまったので、フランセスカ・ソルヴィルとシャンソン・リテレールの話は次の機会にします。

  (写真はビクトール・ハラ)
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■ロバート・ラウシェンバーグがきっかけ…?

2007-07-01 | ■芸術(音楽、美術、映画、演劇)
  
  就職が決まり、髪を切って社会に出た私は、学生時代のモラトリアム時間が長すぎたせいか、社会に(あるいは会社に)順応できず、周囲の不満分子を集めて同人誌を発行し、そこに鬱憤をぶつけていた。コラムのタイトルは「TOKYO1975→∞」。今回、ブログの開設にあたりタイトルの出自をたどると、ロバート・ラウシェンバーグに行き着いた。1964年、草月アートセンターで行われたラウシェンバーグの公開制作のリポートを読んだとき、そこに「TOKYO1964→∞」という言葉が出てきた記憶があるのだ。リポーターは東野芳明氏だったと思う。篠原有司男氏が“思考するマルセル・デュシャンの像”をかついで会場に乗り込んだ『伝説の』イベントである。

  草月アートセンターは、1958年に開設し71年に解散するまで、まさしく日本のアートシーンの尖端を走っていた。ここに関係した人々を思いつくままに列挙しただけでもたいへんな数にのぼる。安部公房、寺山修司、黛敏郎、武満徹、一柳慧、高橋悠治、小野洋子、小杉武久、粟津潔、ジョン・ケージ、デービッド・チュードア、マース・カニングハム…。

  世界のアートシーンが目まぐるしく移り変わる時代に、自分自身の青春を重ねることができる幸せにめぐまれた私は、リアルタイムで現場に立つことの出来る喜びを味わっていた。高校生の頃、竹橋の美術館で行われた展覧会で初めてバウハウスの存在を知り、大阪万博ではシュトックハウゼン、武満徹、高橋悠治、クセナキスを聞いた。フェリーニ、パゾリーニ、アントニオーニ、ゴダールらの新作が封切られ、ジャスパー・ジョーンズの美術とジョン・ケージ、小杉武久の音楽を背景に、マース・カニングハム舞踏団が来日した。ピーター・ブルックの「真夏の夜の夢」公演もいまだに目に焼きついている。実際、あの頃の東京では、イタリア文化会館、アメリカ文化センター、ドイツ文化会館などが、あたかも競い合うように無料で現代アートを紹介していて、ベリオの新作や、スティーブ・ライヒのミニマルなどに接することができた。その意味で、現代アートは、普通に生活の一部となっていた。

  毎日毎日、そんな状況に浸っていた男が、1975年の4月、突然に管理社会の中へ放り込まれたのである。「TOKYO1975→∞」という当時のタイトルは、確証がないものの、ラウシェンバーグのイベントからの引用だったと思うのだが、当時の私自身の心情を考えると、おそらく「→∞」という表現の中に、現実の閉塞感から逃れる切ない希望を込めようとしていたのかもしれない。「→∞」の中に自らの解放を暗示させたのかもしれない。

  そうなのだ。書くことによって自らを開き、読まれることで啓かれていく、その心根は32年経った今でもいささかも変わってはいない。32年経ち、54歳になり、企業の管理職になってしまった今でも、私は何も変わっていない。だから私は、当時のままのタイトルを使うことにした。ただし、TOKYOを東京に変えて。

  ロビー・ロバートソンは、「道が僕らの学校だった」と語った。ゆっくり道を歩むように、このコラムを続けられたらと思う。道の途中で新たな友に出会えれば、これは幸せなことだ。そして、一休みした木陰を、永年の知己が訪ねてくれれば、これはまた望外の喜びである。

  (Photo:Coca-Cola Plan 1958)
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