社会不適応者の箱庭。

ハイったり鬱ったりしながら生きているイキモノ・五十海(いかり・♀)の適当な日々を綴った『どうでも』なシロモノ。

07月01日。謙信公の恋話。

2011-07-01 | 上越のこと
 ・・・いや、なんですか?
 駄目ですか?謙信公の恋のお話
 戦&人生に関するお話はとても多いので、こーゆーこぼれ話的なお話を見つけると嬉しいんですよ。
 ちょっと身近に感じるでしょ?


 恋のお話に入る前にちょっと、謙信公が独身を通した背景を。
 出鼻くじいて申し訳ないですね~

 『図解上杉謙信 景勝と直江兼続』 株式会社綜合図書 には
 謙信公は毘沙門天を熱烈に信奉していたが、また真言宗にも深く帰依している。
 即身成仏(=死後ではなく、生きているままで仏になる事。真言密教の理想)を説く真言密教は厳しい戒律が定められており、不浄を焼き清めるための護摩を焚き、加持祈祷を行うのが特徴である。
 (中略)
 戒律の中に、女犯戒、肉食妻帯戒があり、謙信はこれを律儀に守りぬいたと言うわけだ。
 (中略)
 現代人には信じられない不犯の誓いだが、当時の僧侶は戒律を守り抜いた者も多い。
 謙信が武将と言うよりも半ば修行僧のような人物であった事を考えると、ありえない話ではない。

 以上が前置きです。
 さて、恋話本編(?)へ。

 生涯独身だったとはいっても、49年の生涯で謙信が一度も恋をしなかったわけではない。
 不犯は未婚の意味とする見方もある。
 さて、謙信の和歌には『祈恋』と言う歌がある。
 歌人としても知られる謙信の名歌として今に残っている。
 『つらかりし 人こそあらめ祈るとて 神にも尽くす わがこころかな』
 辛いと感じる人はなるほどあろうけど、祈りの際も恋する人を想うのと同じように神に尽くす、それこそが私の心のあり処なのです(今の私には祈りこそ恋そのものなのです)。
 (中略)
 謙信には生涯3人の恋人がいたとされる。
 それは直江景綱(お船様の父)の娘、関白・近衛前久(このえ さきひさ)の娘・絶(たえ)姫、上野(こうずけ)平井城主・千葉采女(ちばのうねめ)の娘・伊勢とされる。
 景綱の娘は若き謙信の侍女だったとされ、謙信が城洛中に出奔、信濃の善光寺で尼になったと言う。
 絶姫は京で知り合ったとされるが若くして病死。
 3人目の伊勢は関東での謙信の活躍を綴った資料『松隣夜話(しょうりんやわ)』と言う書に詳しい。
 創作の可能性が否定できない話だが。
 伊勢は17歳『無双の女房(=女性)』とされ、楊貴妃もかくやの美女であった。
 二人は両想いとなり、睦まじい仲になった事が記されている。
 しかし柿崎景家、直江景綱、宇佐美定満の重臣トリオが政治的判断から2人を遠ざけて別れさせ『主人に断腸の思いをさせた』と言う。
 伊勢は青龍寺に入って尼となり、寺で毎日涙を流していた。
 翌春、伊勢は一時里帰りして、再び寺に戻る。
 その帰途、伊勢は桜の木陰で以下の歌を残した。
 『諸共に 見しを名残の春ぞとは 今日白川の 花の下かけ』
 2人で桜を眺めた美しい思い出に浸りながら、でもその日にはもう戻れない。
 その年の9月、伊勢は失意のうちに亡くなった。
 直江、宇佐美らは相談し、使者を送って丁重に菩提を弔ったと言う。
 ・・・とあります。
 因みに歌の訳は下記の『ISIS本座 第10幕 上杉謙信×伊勢姫』とこちらより。

 ISIS本座 第10幕 上杉謙信×伊勢姫によりますと、関東に遠征した謙信公に、敵方であった上野(こうずけ)平井城主・千葉采女(ちばのうねめ)が人質として娘の伊勢を差し出したところ、謙信公はこの美女にフォーリンラブ
 ついには『お嫁さんに欲しいなー』とか言い出した。
 家中公認、結婚秒読み、幸せ絶頂の時に重臣トリオが『敵の娘を嫁にしたら、お家が大変になる!』と断固猛反対。
 伊勢は謙信の居城・春日山城から飛び出し、出家してしまいます。
 まさに『好きなんだけど~離れてるのさ~』の世界です(この歌、わからない方はお家の人に聞いてね)。
 家臣・甘粕景持(あまかす かげもち)はそんな2人を可哀想に思い、柿崎たち重臣トリオを必死に説得。
 その甲斐あって、ついに景持が伊勢姫を迎えにいこうとしましたが、時すでに遅し。
 なんと、すでに伊勢姫は謙信との別れを嘆き悲しむあまり、19歳の若さで死んでしまったのです。
 ・・・昔の姫君は失恋でマジに死んでしまうのね

 しかし、謙信公の恋人って出家するか死んでしまうかの二者択一パターン。
 きっと、謙信公の信仰と不犯の誓い、乙女心のハザマで女性は悩みまくってしまうのでしょうね。
 以上、謙信公の恋のお話しでした。

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