ドラマの宣伝のようになってしまいますが、これから大河ドラマも信玄公最期の遠征が
描かれます。
4月23日の放送の終わりには、信玄公が大きな枡に入った碁石金と言われる
金粒をすくい取るシーンが描写されていました。
山に囲まれた甲斐国は良質な金の産地で、金は武田の軍事力を支えたとも言われています。
実際に武田氏館周辺や城下町だった甲府では、金を加工した道具などが
多数出土していますし、
武田氏の一族が治めた国史跡勝沼氏館跡では、館の中心部で金を加工した工房が
発見されています。
日川の河岸段丘上に築かれた館で、信虎公の弟信友が治めていました。
その後は、武田の一門だった今井氏が入っていたようです。
関東方面から笹子峠を越え、甲府盆地に入ってすぐの場所で、領主は、富士北麓地域を
治めた小山田氏のお目付け役も務めていたとも言われています。
館跡は、1973年に発掘調査されました。
この発掘調査は、山梨県内の中世遺跡調査の先駆けになりました。
金を加工した工房跡。
平面表示と言われる方法で、建物の範囲を示しています。
その先には甲府盆地頭東部が一望できます。
その工房から出土した金を加工するために使用された土器の一部(県指定文化財)。
甲州市教育委員会様からお借りして、信玄ミュージアム特別展示室で展示中です。
※5月2日(火)は、信玄ミュージアムは定休日ですので、ご注意ください。
そして、ドラマも信玄公最大の見せ場を迎えます。
一般に「西上作戦」とも言われる軍事作戦で、信玄公が織田・徳川氏を打倒し、
上洛して天下に号令するための遠征と言われてきました。
ところが、最近の研究では遠征の第一目的は、三河・遠江の徳川領制圧だった、
とする見解が主流になりつつあります。
もちろん、徳川を攻めたことで、その同盟者だった信長にも喧嘩を売ったことは
間違いなく、最終的な目標は、信長打倒だったことには違いないようです。
この当時、信玄公と信長とは、東美濃の領有をめぐる衝突はあったものの、
表面上は徳川領侵攻直前まで友好関係をキープしていました。
今川義元が討たれた後、勝頼公に信長の養女が嫁いで同盟関係を築いていましたし、
信玄公は信長を通じて家康との関係改善を試みていました。
そのような関係の中で、信玄公による徳川領侵攻は、信長にとって許しがたい
裏切り行為であったことは、上杉謙信に送った書状でも明らかになっています。
この時の遺恨が強かったのかはわかりませんが、信玄公亡き後、
信長の対武田政策は非常に厳しく、甲州征伐の折には一族・重臣は掃討されました。
10年近く後までずっと許さなかったようなので、根深い恨みだったようです。
裏を返せば、そのくらい信長にとっては窮地に追い込まれた出来事だったのでしょう。