ハレの日の料理に、お肉がない!(その2)

2021-01-24 17:25:22 | 紹介
山梨県立博物館が復元した、武田氏のハレの日の料理

料理を彩る中心にあったのは、鳥や海川のものでした。
シカやイノシシ(今でも時に出没!)のお肉が選ばれなかったわけは?
理由のひとつは、どうやら、平安時代、帝や貴族を中心に顕著となった
肉食禁忌にあったようです。

時を経て、鎌倉幕府による国の統治が始まりますが、
権力の根拠は征夷大将軍という、天皇制の枠の中の官職にあり。
本来は、公家の殺生を請け負った武士なので、狩猟なども不可分な領域でしたが、
こと儀礼において、肉食禁忌は無視できないルールになっていたのでしょう。
武家政権として、殺生という生業と肉食禁忌のルールとの折り合いをつける必要が生じます。
そして、建長4年(1252)、後嵯峨天皇の第一皇子、宗尊親王(1242-1274)を
鎌倉幕府の第6代将軍にお迎えしたことをきっかけに、
鎌倉の京都化が進み、鹿肉禁忌も本格的に東国に導入されます。

室町時代に至り、武家故実の中でも、とりわけ儀礼関係が整い、
鷹狩を除く狩全般・肉食全般への禁忌もさらに強まったことは、
足利義満が自らを「鹿苑院」と号したことからも明らか。

それでも山野を巡る武士の「巻狩」などがなくなることはありませんでした。
巻狩とは、娯楽や神事祭礼、軍事訓練として行われた大規模な狩猟のこと。
源頼朝が征夷大将軍に任命された翌年に行った「富士の巻狩り」もそのひとつ。
つまり、狩猟は単に生きるための糧を得るためではなく、
時に、その土地の統治者としての資格を神に問う行為にもなり、
獲物を得ることは、すなわち、土地の支配を神に認められたことを意味したようなのです。

信玄のライバル織田信長もまた、京近郊では鷹狩を行い、その獲物を天皇に献上する一方で、
本拠地の岐阜では、鹿狩を楽しんだという記録が残されています。
まさにそれは、天下人を自負したパフォーマンスだったに違いありません。

最近は「ジビエ」なんて言葉で一括りにされることが増えた野生の動物たち。
寒いこの時期ですと、鹿肉を使った鍋を「紅葉鍋」、猪肉を使った鍋を「牡丹鍋」
などと呼んで食べています。
由来は、お肉の色や花札の柄、はたまた肉食の目隠しだったなど、諸説あるようです・・・。
ただ、そうした隠語が今でも残っているのですから、日本人の中に肉食禁忌の観念が
深く根付いている証拠でしょうか?
身近なところでは、馬のお肉を桜肉なんて呼んでいますね。
当館に展示している戦国時代の馬骨は、桜肉として食されることなく、ちゃんと丁寧に埋葬されたようですのでひと安心😨 


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