武田家が守り伝えた太子像

2021-02-01 11:40:53 | イベント



古代から甲斐と駿河を最短で結んだ「中道往還」沿い、
市立山城小学校の北東近くに仁勝寺(にんしょうじ)があります。
創建は室町時代、武田右馬助信長(信玄公の六代前)の開基と伝わる
寺院です。
本尊は、木造聖徳太子立像(国指定文化財)。寺伝によると、
甲斐源氏の祖・新羅三郎義光が勧請し、武田家代々が守り伝え、
躑躅が崎館(現在の武田神社)内にまつられていました。
天正10年(1582)、織田・徳川軍の侵攻により戦線維持が
不可能となった勝頼公が、家臣小山田氏の岩殿城に退避しよう
とした際、同じく家臣中沢氏に隠すように命じました。中沢氏は
自領にある仁勝寺に安置し、本尊にしたと伝えられています。
甲府城下から中道往還を使って右左口方面に向かうと、この
寺で富士の高い峰が見えなくなります。(右左口から城下に向か
うと、この寺で富士の峰が現れます。)富士と聖徳太子は深いか
かわりもあり、武田家臣が武田家の安寧を願いながら当寺に太子像を
安置した心中を物語っているかのようです。

<補足>
(1)聖徳太子(厩戸皇子うまやどのみこ)は、摂政として天皇の政治を補佐し、蘇我氏と共同で政治・外交・文化等を行いました。冠位十二階、憲法十七条を制定し、官民の心得を示し、律令制の基礎を固めました。諸説ありますが、推古天皇29年(621)年2月5日に亡くなったと伝えます。享年49。今春は1,400年忌。奈良を中心に各種事業が計画されています。
(2)ご住職より「本尊は非公開ですが、事前に連絡いただければ開帳します」とのことです。
(3)本尊は、像高1.15メートル。ヒノキ材の立像で袈裟をまとい、入仏の姿をあらわしています。父である用明天皇の病気平癒を願う16歳位の「孝養像」と呼ばれています。多少の損傷はありますが、修補のための改変もなく、鎌倉時代の作風を伝える名作です。眼は水晶の玉眼をはめ込み、頭部は髪を中央で分けて左右にみずらを結びます。左手に柄香炉を、右手に蓮華を持っていたと思われますが、現在は両方とも失われています。昭和5年の修理の際に躰内に紙人形(胎内仏)が収められていることも確認されています。また、平成19年度には浮き上がってきた下地の補修や発生したかびを取り除くための修理が行われています。 


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