信玄公のお兄さんと小さな石像

2023-03-01 20:31:42 | 紹介
いよいよ3月に入りました。
残り1か月、よろしくお願いします。

当館の特別展示室では、躑躅が崎館跡(武田氏館跡)と
城下町の発掘調査による出土品が主な展示物。
「かわらけ」から馬の全身骨格までさまざまですが、
その中には、小さな石像も出土しています。

石像は、信玄公の父・信虎公が創建した寺があったという、
柳町と呼ばれた場所の一画で行われた発掘調査で出土したもの。
それ以外にも、六文銭と人骨といった寺院特有の遺物が見つかり、
この土地には、伝承通り、お寺があったことが確認されました。

館跡も同様ですが、文献や伝承を手がかりとした調査を行うことで、
重要な遺物が発掘され、同時に、史料内容が裏付けされることがあります。
尊躰寺の発掘調査は、歴史学と考古学が両輪となって、歴史研究が進められた好例です。

大永元年(1521)、躑躅が崎館の城下町に建てられた尊躰寺。
新たな拠点として、信虎公が甲府を開いた永正16年(1519)より2年後のこと。
きっかけは、信虎公ご自身の難病だったようで、
病の治癒を願い、京都の石清水八幡宮より譲られた
「絹本紺地金泥阿弥陀三尊像」を館にお移して祈願したところ、めでたく回復。
これにより、阿弥陀三尊像をご本尊とする寺が建てられたと言われています。

尊躰寺のご本尊は、「真向(まむき)三尊阿弥陀如来」とも呼ばれます。
”真向”とは、阿弥陀如来をどこから拝んでも正面に見えるという意味。
この画像、描いたのは唐の善導大師(613−681)、
浄土宗の開祖・法然や浄土真宗の親鸞に影響を与えた方。
鎌倉時代中期、蘭溪道隆(1213−1278)が来日した際、その画像が請来されました。
当初、画像は宮中に安置されていましたが、後に京都の石清水八幡宮にお移りになり、
経緯は不明ですが、信虎公がお譲りいただき、甲斐に持ってこられたと言います。

尊躰寺は、信玄公の4才年上の兄・竹松さま(1517−1523)の菩提寺でもあります。
信虎公と側室の間の子とされ、7才で夭折されました。
お寺の創建年とずれてしまうのですが、
尊躰寺の名称は、竹松さまの戒名「源澄院殿天誉尊体智光大童子」とも言われています。

「真向三尊阿弥陀如来」は霊験あらたかな画像とされ、
天正10年(1582)、徳川家康が甲府に入った時、
この尊躰寺に仮御殿を建て、本陣としました。
その後も、このご本尊を安置する尊躰寺に何度も宿泊されたとか。

甲府城移転、躑躅が崎館の廃城を期に、
尊躰寺も、現在の地(甲府城跡より南東)に移転、
かつての尊躰寺は、”古”尊躰寺と呼ばれるようになりました。

古尊躰寺より出土したのが、こちらの石像。
地蔵菩薩、または観音菩薩と思われますが、摩滅が激しく、よくわかりません。

高さ15cm、幅12.5cm、奥行き8.5cmの小さな石像が、
どこに置かれ、どのように拝まれたのかはわかっていません。
お地蔵さまといえば、人々の苦難を身代わりとなって受け、救う、
とりわけ、子どもを守る菩薩さま。
信玄公の兄・竹松さまに、なにか関わりがあるのかどうかはわかりませんが、
お顔もわからなくなってしまった石像仏ながらも、
幼くして亡くなった子どもの親の思いが伝わってくるような石像です。

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