2021年11月3日、信玄公生誕500年まで、あと200日となりました🎉
記念の日まであと200日(!)の、本日4月17日(土)は、
「4(し)(も)1(い)7(な)」で、「下伊那の日」だそうです。
下伊那といえば、信玄公の終焉の地があるとされている土地。
ただ、どこで息を引き取ったかなど、はっきしたことは藪の中。
その死を隠していたわけで、当然の結末なのかもしれませんが。
最期の地は、信州駒場(こまんば)という説が有力のようですが、
その他にも、信玄塚が築かれている場所、
「ここが終焉の地!」と、伝承だけ残されている場所、
いやいや遺言を残した場所と、息を引き取った場所が同じとは限らない(!)など。
説はいくつも飛びかってはおりますが、
それぞれが地元で大切に伝えられている、信玄公終焉の地のお話です。
・・・
下伊那とのご縁、生前の信濃侵攻もあり、色々とあるようなのですが、
実は、信玄公と三条夫人の長女・黄梅院(おうばいいん又はこうばいいん)の
菩提寺として建立されたという寺院も、下伊那に隣接する飯田市に。
天文23年(1554)12月、
12歳で北条氏康の嫡男・氏政の元に嫁いだ、信玄公の長女、後の黄梅院。
もちろんそれは政略結婚で、武田・北条・今川の甲相駿三国同盟のためでした。
信玄公、どうやら、この長女さんがかわいくて仕方なかったようで、
「勝山記」によれば、その輿入れには1万人(!?)ものお供が付いたとか。
また、弘治3年(1557)には、「富士御室浅間神社」に長女さんの安産祈願もしています✨
富士御室浅間神社HP「文化財」
夫婦仲もよく、子宝にも恵まれたようです。
しかし、永禄11年(1568)、信玄公の駿河侵攻により三国同盟は破綻😨
長女さんも甲斐に帰され、失意の中、大泉寺住職を導師に出家、黄梅院に。
ほどなくして、永禄12年6月17日、27歳で亡くなったと言われています。
ただ、長女さんのその後には、別の説もあって・・・
それは、同盟がだめになってしまった後も、
亡くなるまで、小田原城で夫と共に暮らしたのではないか。
一周忌を終えて、お仕えしていた方が甲斐に戻り、その最期を信玄公にお伝えし、
それを聞いた信玄公が、「黄梅院」を現在の甲斐市に建立したのではないか・・という説です。
(黄梅院は明治初期に廃寺になっています。)
戦国きっての大名であった父の終焉地がわからないのですから・・・
その娘の最期がわからなくても致し方ないのかもしれません。
しかし、夫・氏政は、父・氏康の死後、甲相同盟を復活させ、
また、箱根の早雲寺の傍らに黄梅院を建立。妻の分骨を弔ったとも言われています。
それが本当ならば、黄梅院の人生は短くとも、
決して幸薄いものじゃなかったんじゃない(?)と思いますが・・・
いかがでしょうか。
<おまけ😉 >
飯田市の黄梅院によれば、
飯田城主の命により、黄梅院は甲斐市から飯田市へ移されたようですが、
その理由はよくわかっていないようです。
移転の時期も、黄梅院のHPに従えば、江戸幕府が開かれる少し前か、
幕府が開かれた後、1670年代までの間と考えられます。
ちなみに飯田城は、1554年以降、武田軍の南三河侵攻の拠点の一つとなります。
明治維新後、徹底的に破壊されてはおりますが、武田氏が治めた頃の遺構も残されています。
飯田市HP 飯田城の歴史