先週からNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の放映が再開されました。
大河と言えば、1963年から続くテレビドラマシリーズ。
その長い歴史において、武田信玄が主役級の重要な役割を担うこと2回。
全国レベル✨の人気と知名度を誇る戦国武将ですが・・・
最近では、小学生向け教科書の信玄公に関する記載がカットされる事態※に😨
そんな逆境をものともせず、江戸時代から現代にいたるまで、一定の知名度をKEEP。
よくよく考えると、不思議じゃないですか。
※武田家では、唯一、武田勝頼が教科書の「長篠の戦い」を学ぶページに登場します。
・・・
1919年、信玄公が暮らした、まさにその場所に創建された武田神社。
信玄公はそのご祭神ですが、それは地元の方々の長年の悲願あってこそ。
山梨県では「信玄公」、「信玄さん」と敬意をもって呼ばれ、
呼び捨てでは怒られることも。
七五三や初宮参り、新年のごあいさつは武田神社で、という方も多いですが、
なんだかんだで山梨県内外、さまざまな場所から皆さまお越しいただいております。
けれども、さらにさかのぼることおよそ400年。
武田家滅亡後、遺臣が徳川家に仕え、多くの方々に甲州流軍学を指南。
信玄公の戦術や事績がまとめられた『甲陽軍鑑』の普及もあって
結果的に、幕府が認める軍学となったこともあり、
信玄公の戦術や事績がまとめられた『甲陽軍鑑』の普及もあって
結果的に、幕府が認める軍学となったこともあり、
次第次第に、祀られずとも軍神のような存在へ。
このように考えると、信玄公の神さま歴はもうちょっと長いことになります。
「武田二十四将図」(個人蔵)
数多く制作された「武田二十四将図」も単なる軍団絵ではなく、
むしろ仏画的礼拝像の役割を果たしたのではないかとも。
そして、何よりも、徳川家康という東照大権現と神格化された権力者が
武将・武田信玄に一目置いていたことの影響力が大きかったと言えそうです。
また、戦国に名を馳せた武田家の栄枯盛衰もあり、
そんなこんなで、武田信玄という軍神とそのストーリーが、
大衆のカタルシス※を引き出したのでしょうか!?
※悲劇には、観客の心に怖れと憐れみの感情を引き起こし、精神を浄化する作用があるとする考え。
でも、人気の秘密は、それだけではないはずで。
今度は「武田二十四将図」をヒントに、信玄公にもう少し迫りたいと思います。
よろしければ、どうぞお付き合いください🙇