◎首をとる訳は如何訳ですか
それはこう云う訳です。前に申した通り台湾は今より300年前我が寛永元年頃までは、台湾全島の主人公は今の生蕃人の先祖であったのでありますが、その頃より(和蘭人)オランダ人や(西班牙人)スペイン人が来て台湾を占領して居りましたがオランダ人はスペイン人を追い払いて後、盛んに蕃人を教化して38カ年ばかり過ぎ、蕃人も悦んでこれに従い其の時分には首狩りの風習は無かったのであります、そうして居るうち、ご存知、鄭成功、日本で云う国姓爺(こくせんや)、俗語で云う和唐内(わとうない)が明朝の家来でありましたが明朝が清朝に亡ぼされてから台湾に来てオランダ人を追い払い故郷よりどしどし移住民を連れて来て屯田兵の様なものを置いて台湾を占領していたのですが、支那人がどしどし渡台したので、だんだん都会の地や肥えたる地は漢人に占領せらるる事となり、だんだん山近く蕃人は押しやられる事になりました。
国姓爺が来て3代目の鄭克塽(ていこくそう)と云う人の時、ちょうど23年目に清国の施琅(しろう)と云う大将に亡ぼされて台湾は全く清国のもの(版圖)となりました。
此の時より以前に数倍の移住者が渡台して来ました。その中には金持ちの人もありましたでしょうが、多くは脛一本で一攫千金的の輩が多かったので、無知蒙昧の蕃人を、或いは騙し、或いは脅してその動産、不動産を強奪し又乙所を奪い丙所を耕せば、丙所を奪い大いに虐待酷遇したので蕃人等は俄かに生活の安定を失い今まで人口は少なくなる所肥えた畑、饒えた田豊富なる猟場漁場が有り余って居ったのに祖先伝来のその地を追われ一年一年山辺の痩悪の僻地に押し込まれ遂に今の山奥へ押し込まれたのであります。
生蕃と云うても難儀する事は嫌いで楽をする事が好きであるから、平地に棲む事が出来れば何もわざわざ山奥を選んで棲む訳は無いのですが、文化の度が違う優越(すぐれ)た勢力のある清人に追われてやむ得ず泣く泣く祖先の開いた所の平地を去って奥山の猿も通わぬ所に住まねばならぬ事になったのであります。こうなってはいかにお人好しの蕃人でも黙って居る訳はない。只勢力は弱い為屈伏して居るのでその心中は恨み骨髄に徹し敵の一分子たる一人にても首を切って祖先の神前に手向けてその霊を慰めんと思い、常に復仇の念去らず、同族以外の人は皆仇敵と思うて首をとることに力(つと)めて居った結果、遂に今日の首狩りの習慣を遺したと云うことであります。
それはこう云う訳です。前に申した通り台湾は今より300年前我が寛永元年頃までは、台湾全島の主人公は今の生蕃人の先祖であったのでありますが、その頃より(和蘭人)オランダ人や(西班牙人)スペイン人が来て台湾を占領して居りましたがオランダ人はスペイン人を追い払いて後、盛んに蕃人を教化して38カ年ばかり過ぎ、蕃人も悦んでこれに従い其の時分には首狩りの風習は無かったのであります、そうして居るうち、ご存知、鄭成功、日本で云う国姓爺(こくせんや)、俗語で云う和唐内(わとうない)が明朝の家来でありましたが明朝が清朝に亡ぼされてから台湾に来てオランダ人を追い払い故郷よりどしどし移住民を連れて来て屯田兵の様なものを置いて台湾を占領していたのですが、支那人がどしどし渡台したので、だんだん都会の地や肥えたる地は漢人に占領せらるる事となり、だんだん山近く蕃人は押しやられる事になりました。
国姓爺が来て3代目の鄭克塽(ていこくそう)と云う人の時、ちょうど23年目に清国の施琅(しろう)と云う大将に亡ぼされて台湾は全く清国のもの(版圖)となりました。
此の時より以前に数倍の移住者が渡台して来ました。その中には金持ちの人もありましたでしょうが、多くは脛一本で一攫千金的の輩が多かったので、無知蒙昧の蕃人を、或いは騙し、或いは脅してその動産、不動産を強奪し又乙所を奪い丙所を耕せば、丙所を奪い大いに虐待酷遇したので蕃人等は俄かに生活の安定を失い今まで人口は少なくなる所肥えた畑、饒えた田豊富なる猟場漁場が有り余って居ったのに祖先伝来のその地を追われ一年一年山辺の痩悪の僻地に押し込まれ遂に今の山奥へ押し込まれたのであります。
生蕃と云うても難儀する事は嫌いで楽をする事が好きであるから、平地に棲む事が出来れば何もわざわざ山奥を選んで棲む訳は無いのですが、文化の度が違う優越(すぐれ)た勢力のある清人に追われてやむ得ず泣く泣く祖先の開いた所の平地を去って奥山の猿も通わぬ所に住まねばならぬ事になったのであります。こうなってはいかにお人好しの蕃人でも黙って居る訳はない。只勢力は弱い為屈伏して居るのでその心中は恨み骨髄に徹し敵の一分子たる一人にても首を切って祖先の神前に手向けてその霊を慰めんと思い、常に復仇の念去らず、同族以外の人は皆仇敵と思うて首をとることに力(つと)めて居った結果、遂に今日の首狩りの習慣を遺したと云うことであります。