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日記。

台湾みやげ話 片岡巌 3

2011年12月04日 | 台湾みやげ話
◎首をとる訳は如何訳ですか

それはこう云う訳です。前に申した通り台湾は今より300年前我が寛永元年頃までは、台湾全島の主人公は今の生蕃人の先祖であったのでありますが、その頃より(和蘭人)オランダ人や(西班牙人)スペイン人が来て台湾を占領して居りましたがオランダ人はスペイン人を追い払いて後、盛んに蕃人を教化して38カ年ばかり過ぎ、蕃人も悦んでこれに従い其の時分には首狩りの風習は無かったのであります、そうして居るうち、ご存知、鄭成功、日本で云う国姓爺(こくせんや)、俗語で云う和唐内(わとうない)が明朝の家来でありましたが明朝が清朝に亡ぼされてから台湾に来てオランダ人を追い払い故郷よりどしどし移住民を連れて来て屯田兵の様なものを置いて台湾を占領していたのですが、支那人がどしどし渡台したので、だんだん都会の地や肥えたる地は漢人に占領せらるる事となり、だんだん山近く蕃人は押しやられる事になりました。
国姓爺が来て3代目の鄭克塽(ていこくそう)と云う人の時、ちょうど23年目に清国の施琅(しろう)と云う大将に亡ぼされて台湾は全く清国のもの(版圖)となりました。
此の時より以前に数倍の移住者が渡台して来ました。その中には金持ちの人もありましたでしょうが、多くは脛一本で一攫千金的の輩が多かったので、無知蒙昧の蕃人を、或いは騙し、或いは脅してその動産、不動産を強奪し又乙所を奪い丙所を耕せば、丙所を奪い大いに虐待酷遇したので蕃人等は俄かに生活の安定を失い今まで人口は少なくなる所肥えた畑、饒えた田豊富なる猟場漁場が有り余って居ったのに祖先伝来のその地を追われ一年一年山辺の痩悪の僻地に押し込まれ遂に今の山奥へ押し込まれたのであります。
生蕃と云うても難儀する事は嫌いで楽をする事が好きであるから、平地に棲む事が出来れば何もわざわざ山奥を選んで棲む訳は無いのですが、文化の度が違う優越(すぐれ)た勢力のある清人に追われてやむ得ず泣く泣く祖先の開いた所の平地を去って奥山の猿も通わぬ所に住まねばならぬ事になったのであります。こうなってはいかにお人好しの蕃人でも黙って居る訳はない。只勢力は弱い為屈伏して居るのでその心中は恨み骨髄に徹し敵の一分子たる一人にても首を切って祖先の神前に手向けてその霊を慰めんと思い、常に復仇の念去らず、同族以外の人は皆仇敵と思うて首をとることに力(つと)めて居った結果、遂に今日の首狩りの習慣を遺したと云うことであります。

台湾みやげ話 片岡巌 2

2011年12月04日 | 台湾みやげ話
◎生蕃(せいばん)は人の首をとるというが本当ですか
それは真実です。しかし蕃人でも山麓や又人里近い所又は宗教の為教化された所の蕃人は首はとりません。
まだ教化を受けない山奥の者が、多く首をとった者が勇者であると友に誇る為、又は祖先を祭る時、又は春秋の穀祭り等に神前に供える為に能く首狩りに出ます、此の首は老若男女の区別はありませぬ何でも人の首であれば選ばずにとるので、此の風、深山の兇蕃に残って居ります。

台湾みやげ話 片岡巌 1

2011年12月04日 | 台湾みやげ話
◎台湾に生蕃(せいばん)が居ると云うが如何ですか

此の生蕃とは内地で聞きますと台湾には至る所生蕃が居る様に云うて居りますがそう云う訳ではありません。
生蕃と云うのは、ズーッと昔台湾に居った土着の人で人種はマレー人種で初めは台湾の平地に居った野蛮人でありますが、対岸の支那からどしどし支那人が移住して来て蛮人の生業たる農業や漁業等を殆ど壓制(あっせい)的に取り上げて、年々次第次第に山辺に押し込み、今では全く深山の山麓、山腹、山奥に外居らぬ事になって居ります。其の風俗習慣は全く原始的で能く南洋の蕃人の繪を見る事がありますが彼れと少しも異なりませぬ、まあ我が内地の北海道の「アイヌ」族のようなものです。言葉などは全く支那人、外国人または南洋諸島の土人などとは違って居ります。その語系は日本語、朝鮮語の様に棒読みでありまして外国語や支那語の様に翻訳をする時、かえり点を付けて解釈することは要りませぬ。衣物は風呂敷の様なものを一枚片方の肩から脇き下に掛け腰には一寸した布を巻き付けて置くばかりで随分原始的な風であります。併し内地では生蕃が台湾到る所に居る様に考えて居る人がある様ですがそれは間違いで、前に申した様に深山(しんざん)に居るので殆ど原始的の様な有様です。併し今は村落に接した所の蕃人は大いに進化して稀に中学卒業した者も医学校を卒業したものもありますが、之に極僅かのものであります。