(写真家の方とは同姓同名の別人です、すみません)
その人は母方の曽祖父。仕事をしながら、余暇を使い、書き上げたそうです。
これから少しずつその本をこのブログに写し記していこうと思っています。
百年ぐらい前の本なのですが、あの頃の台湾と日本の雰囲気を知りたい方もいらっしゃると思うので
当時の表現により現在では使われない言葉も出ていますが、それも含めて時代考証の参考にしていただければと思います。
毎日1ページを目標に頑張ります。
序
古人いわく善に従う登るが如し、悪に従う崩るが如しとむベ或言や、総じて生を世に享ける者、難しきを避け易きに就く、これ一般通性たり、假令個人の悪習と雖も、容易に他に及ぼし、甲伝乙承(甲が伝えて乙が聞き入れること)延びて郷党の幣習と成り、上流下接(上から流れ下が受ける)の勢いを成し、滔々あまねく全般に瀰漫(びまん)し、社会の秩序をみだれリ、国礎をあやうするに至る 心ある者焉(いずくん)ぞここに意を須(しゅ)ひずして(しなければならない事)可ならんや。 ひるがえして本島の習俗を見るにただに悪習弊俗に止まらず、最も危険なる迷信を含むもの多し、そもそも迷信は、かつてある時代に於いて、公衆が合理的信仰と認めたるものなるも現時開明の文化と相容れざるものなり。
そうしておおよそ迷信の魔力に魅せられたる民衆の心理は、火を以って熾(し)くべからず水を以って滅すべからず威力も理論も以ってその心境を移すあたわざるに到る。
彼の信ずる神の為には、あまんじて愛子を殺し祭祀に献ぜし「アブラハム」の如き、又冥福を祈る為には、悦んで子女を「ガンジス」河に投じ、鰐魚(わに)の餌
と為す印度人の如き、そのもっとも甚だしきものなりと雖も、之を青史に微するに、シナ民族の迷信深きは更に一層甚だしきものあり、かの狡徒拳匪の輩、必ずや裏面に此の迷信を利用し、名を降神問佛に籍り、妄誕綺語を以って愚民を扇動せしめ、事を作し国を乱せしこと其の事例甚だ多し。況(いわん)や文物遅れ制度周らざりし、孤懸の島嶼に在りしシナ民族に於いてをや。
夫れ然り而して改隷すでに20有余秋、今や人文日に新たに、月に盛りにして昔日の如くならず、当局また専ら同化(どうか)の道を開き之を導かんとす、然(しか)り雖(いえども)も、若し之を導かんと欲せば、須らく島民の悦服を得ざる可らず、島民の悦服を得んと欲せば、先づ民衆の心裡を詳悉せざる可らず、民衆の心裡を詳悉せんと欲せば、宜しく在来の風俗習慣を探究せざる可らず、風俗習慣を探究し得て以て之を善用し、茲に始めて蒙を啓くを得べし矣
余(よ)夙(つと)に感ずる所あり、公(こう)餘(よ)洽(あまね)く諸書を渉獵(しょうりょう)し、或(あるい)は古老に質し、耳學ロ説、大小輕重を問わず、本島閭巷に於ける風俗習慣を探究し、苟(いやし)くも得る所あれば必ず之を摘録し積んで册(さく)を成す、知己某之を知り、
徒(いたずら)らに蔵して空しく蠧魚の餌と爲すを惜み、勸(すす)むるに上梓(じょうし)の事を以てす、
依って熟(つくづく)を惟(おも)ふに世間如斯(かくのごとき)の類書頗(すごぶ)る尠(すくな)く志士の不便甚(はなは)だしからむ事を慮(おもんばか)り、推敲(すいこう)半(なかば)にして未だ完壁に非(あたわら)ざるを省(かえり)みず、
敢(あえ)て江湖の急需に應(おう)ずることとせり。其(そ)の名臺灣風俗誌(たいわんふうぞくし)と稱(しょう)し、
單に本島の風俗を描きたるのみなるが如き觀あるも。其の意蓋(けだ)し矯風正俗(きょうふうせいぞく)に在り。読者幸(さいわい)に之れを諒(りょう)せよ
著者識
今日は福島へ楊先生が友達と来てくださいました。
思えば東日本大震災の時からもう13年が経ちました。
楊先生は学生時代の友人とその学校の元の校歌を作詞した野口雨情の記念館にも行く予定だそうです。僕は仕事のため東京でお留守番ですが、母の姉夫婦と、その子孫が会えたそうです。
3/14には講演があったらしく、そこでもう1人の台湾にて東石郡郡守をしていた森永信光氏の事を発表してくださったそうです。
銀聲舎さん
http://fallinland.mods.jp/ginseisha/?p=222
台湾風俗誌の事を書いてくださっている方が和歌山にいらっしゃいました
昭和11年の台湾屏東へ行った方の日誌など他にも興味がある記事が!
ぜひぜひご一読ください!
台湾風俗誌という本とそれにまつわる私の不思議な話
台湾風俗誌と書かれた本を東久留米の医師が母に貸してくれた。
台湾について書かれた古い本、大正11年発行の昭和60年くらいの復刻版
本を母が祖父に見せたらそれは曽祖父の書いた本だとわかった時の母は驚いた。
その日から本をコピーしようとしばらくその医師のお宅に通った。
ついに神田の古本屋で本を購入し書き写してデジタルアーカイブとして残そうとブログを始めた。
僕はその本を書くに至った経緯や100年前の日本人、文化、歴史、漢字、そして台湾人のことを全然知らなかった。
それはブログにメッセージをくれたクロスカルチャーを大学で教えているヤン先生と今でも続く交流の始まりました。
放送大学のスチュワート本多先生から文化人類学を学び、そして台湾風俗誌とその著者をテーマにしたこと、そして続けて台湾の医療制度の歴史を書いた。
この本の中に書かれていることは未来の予言かもしれないと思っていた。
この本のおかげでまだあったことのない親戚とメールのやりとりができたこと
まだやり残したことが、たくさんある。次の世代に伝える事
コロナ禍において旅行はままならない時代になったがいつでもこの本を開くと
100年以上前の台湾に行けると
(写真は台湾の友達とバンド練習しているところ)
なにか最近よく思い出すので
2018年のときに郡山市音路というところにある土佐藩の墓地にある南部宗長さんのお墓の後ろに書いてある墓碑の文字をノートにおこしてみました。
それを当ブログに載せておきます。
何故なら片岡巌が臺南で昭和5年に亡くなったのち妻の和子(ニギコ)がここの墓に埋葬したからです。
南部宗長はその和子の祖父にあたります。
自転車で朝夕通う中央区の区役所が土佐藩の下屋敷だったから築地あたりには土佐藩の藩士も多かったんだろうなあと思いつつ。(2018当時自分は自宅から新富町までは電車で新富町から有明まで自転車通勤してました)
ちなみに南部宗長さんは僕の母の母の母の母の父
お墓の後ろに書いてある文により
因幡守高忠を先祖とし、その人は奥州から来た旅の僧侶で高岡藩の米野河村(現在の四万十町、一斗俵)を開墾したそうです。
(新天地に行ったり、開墾してる人が多い家系です)
田口求道の長女を妻としていた南部宗長は高知から東京で築城と砲術を学んでその後福島へ来て安積開墾事業をしてきた事がわかります
検索してみると
岡山篤次郎という会津藩少年兵について知ることが出来ました。
彼の死を家族に伝えたのは南部宗長だったとか
http://aozorabower.web.fc2.com/hitobito/okayamatokujiro.html
鹿持雅澄の万葉集の出版にも携わっていたようで奥付に名前がある版があります。
宗長にとって祖父にあたる南部巌男(いつお)は歌人
南部宗長さんの妻の父は田口求道という土佐藩医だそう。
田口求道について
(コメント欄に記事を引用させていただいてます)
https://tosareki.gozaru.jp/tosareki/asakura/taguchi/kyudo.html
田口求道そしてその息子田口文良の墓碑に書かれてることがわかります。
南部宗長と共通点が多くそこには繋がりを見つけることができます。
南部宗長の墓碑に書かれている文面を書き取りました。
『南部宗長
姓南部名宗長清和源氏之末裔也
祖南部因幡守高忠城守土佐國高岡郡
米野河村居之其末係仲助字厳男〇三子宗長即長男
天保十二年正月五日生於土佐國土佐郡小高村仕藩主山內候
明治二年5月4日為砲術並築城学修業被差遣東京明治四年十一月八日為兵部省出仕
被補陸軍省十一等出仕在職十六年克精勤以功積顯著也偶々坂本常太郞氏〇(遝?)去
此地宗長抱殖產大志願以継承其事業刻苦勉励躬枝私財行農作試験示其成積以誘啓富業者寔多
又在村農會長之栄職十数年且又為農事措導員巡迴各地盡力農事改良宣傳大
稗益鄉黨終始蕩盡自費一切不受報酬因其勤労受領縣知事閣不及郡農會之褒賞前後数回也
偶々爲二豎所襲大正四年七月十七曰、病沒享壽七十六歲翁
資性豪毅躯幹牢大沈〇且寡言而酒量蒙朋〇酒不猶辞而未嘗見陶踫也
室田囗求道氏長女大正十二年病沒享年七十九歲
葬翁側余嘗爲翁孑弟親接其温谷令當建翁〇〇旧之情不能禁聊録略歴貽無窮云爯
干時昭和六年夏
弘田良馬稱』
なんか秋だからか長めのレポートになりました。
長文その1
チキンラーメン日清の安藤百福さんは祖父森永信一と台湾で一緒に暮らしてました。
両親を早く亡くし祖父母に育てられてた百福さんを小学校が近くにあるので曽祖父の勧めで家から通ってたそうです。
この曽祖父は茗荷谷にある台湾協会学校の一期生です。(今は拓殖大学)
福井県人で、テニスが好きで晩年は囲碁を趣味としてました。
曽祖父の息子は三人、その長男が僕の祖父、百福さんとは次男が同級生でした。
曽祖父森永信光に勧められて朴子の図書館の司書をされてたそうですが、その後、商売の道に進みました。
という事を百福さんの自伝を読んで知りました。
長文その2
その頃は曽祖父は台湾の東石郡の郡守というのをしてました。帰国後、福井の震災と空襲に遭って福島の祖父母の家では肩身がせまい思いをしてたから、きっと立派になった百福さんのことを知ったらどんなに喜んだことかなー。と思います。
後日談、、、、
何年か前マクドナルド食肉問題で沸いていた頃、ちょうど曽祖父の事で日清に問い合わせていました。
ついつい新製品の開発にアドバイス、しました。
この食肉不信の時代の中で野菜だけのカップラーメンがあったら良いなと提案しました。台湾でもウケますよーって思って。
担当の方は開発部に転送しますと言ってくれて、無事に半年以内に「ベジータ」という野菜だけのカップラーメンを作ってくれました(思い込みかもしれませんが)
正直「ベジータ」が国内で売れたとは聞いてませんが、変わった発想をバカにせず商品化するその創業者精神が日清に今も息づいてる気がしました。ビーガン向け食品は海外の需要の方があるのかもしれないです。
今は「謎肉」と言うカップラー麺に入ってる不思議なお肉を僕は喜んで食べてますー。