不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

randomnote

日記。

よろしく 「台湾風俗誌」 です。 FOLKLORE BOOK OF TAIWAN

2100年02月05日 | Weblog
 台湾風俗誌という古い本があるんだけど、その本を書いたのが片岡巖。
(写真家の方とは同姓同名の別人です、すみません)
その人は母方の曽祖父。仕事をしながら、余暇を使い、書き上げたそうです。


 これから少しずつその本をこのブログに写し記していこうと思っています。


 百年ぐらい前の本なのですが、あの頃の台湾と日本の雰囲気を知りたい方もいらっしゃると思うので
当時の表現により現在では使われない言葉も出ていますが、それも含めて時代考証の参考にしていただければと思います。

毎日1ページを目標に頑張ります。
コメント (14)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

片岡巖  著者識

2099年08月19日 | 台湾風俗誌


古人いわく善に従う登るが如し、悪に従う崩るが如しとむベ或言や、総じて生を世に享ける者、難しきを避け易きに就く、これ一般通性たり、假令個人の悪習と雖も、容易に他に及ぼし、甲伝乙承(甲が伝えて乙が聞き入れること)延びて郷党の幣習と成り、上流下接(上から流れ下が受ける)の勢いを成し、滔々あまねく全般に瀰漫(びまん)し、社会の秩序をみだれリ、国礎をあやうするに至る 心ある者焉(いずくん)ぞここに意を須(しゅ)ひずして(しなければならない事)可ならんや。  ひるがえして本島の習俗を見るにただに悪習弊俗に止まらず、最も危険なる迷信を含むもの多し、そもそも迷信は、かつてある時代に於いて、公衆が合理的信仰と認めたるものなるも現時開明の文化と相容れざるものなり。  
そうしておおよそ迷信の魔力に魅せられたる民衆の心理は、火を以って熾(し)くべからず水を以って滅すべからず威力も理論も以ってその心境を移すあたわざるに到る。 
彼の信ずる神の為には、あまんじて愛子を殺し祭祀に献ぜし「アブラハム」の如き、又冥福を祈る為には、悦んで子女を「ガンジス」河に投じ、鰐魚(わに)の餌
と為す印度人の如き、そのもっとも甚だしきものなりと雖も、之を青史に微するに、シナ民族の迷信深きは更に一層甚だしきものあり、かの狡徒拳匪の輩、必ずや裏面に此の迷信を利用し、名を降神問佛に籍り、妄誕綺語を以って愚民を扇動せしめ、事を作し国を乱せしこと其の事例甚だ多し。況(いわん)や文物遅れ制度周らざりし、孤懸の島嶼に在りしシナ民族に於いてをや。
夫れ然り而して改隷すでに20有余秋、今や人文日に新たに、月に盛りにして昔日の如くならず、当局また専ら同化(どうか)の道を開き之を導かんとす、然(しか)り雖(いえども)も、若し之を導かんと欲せば、須らく島民の悦服を得ざる可らず、島民の悦服を得んと欲せば、先づ民衆の心裡を詳悉せざる可らず、民衆の心裡を詳悉せんと欲せば、宜しく在来の風俗習慣を探究せざる可らず、風俗習慣を探究し得て以て之を善用し、茲に始めて蒙を啓くを得べし矣
余(よ)夙(つと)に感ずる所あり、公(こう)餘(よ)洽(あまね)く諸書を渉獵(しょうりょう)し、或(あるい)は古老に質し、耳學ロ説、大小輕重を問わず、本島閭巷に於ける風俗習慣を探究し、苟(いやし)くも得る所あれば必ず之を摘録し積んで册(さく)を成す、知己某之を知り、
徒(いたずら)らに蔵して空しく蠧魚の餌と爲すを惜み、勸(すす)むるに上梓(じょうし)の事を以てす、
依って熟(つくづく)を惟(おも)ふに世間如斯(かくのごとき)の類書頗(すごぶ)る尠(すくな)く志士の不便甚(はなは)だしからむ事を慮(おもんばか)り、推敲(すいこう)半(なかば)にして未だ完壁に非(あたわら)ざるを省(かえり)みず、

敢(あえ)て江湖の急需に應(おう)ずることとせり。其(そ)の名臺灣風俗誌(たいわんふうぞくし)と稱(しょう)し、
單に本島の風俗を描きたるのみなるが如き觀あるも。其の意蓋(けだ)し矯風正俗(きょうふうせいぞく)に在り。読者幸(さいわい)に之れを諒(りょう)せよ




  著者識

 

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

親戚とヤン先生

2024年04月02日 | 台湾ー郡山

今日は福島へ楊先生が友達と来てくださいました。

思えば東日本大震災の時からもう13年が経ちました。

楊先生は学生時代の友人とその学校の元の校歌を作詞した野口雨情の記念館にも行く予定だそうです。僕は仕事のため東京でお留守番ですが、母の姉夫婦と、その子孫が会えたそうです。

3/14には講演があったらしく、そこでもう1人の台湾にて東石郡郡守をしていた森永信光氏の事を発表してくださったそうです。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

台湾風俗誌/銀聲舎さん

2021年10月16日 | 台湾風俗誌

銀聲舎さん

 

http://fallinland.mods.jp/ginseisha/?p=222

 

台湾風俗誌の事を書いてくださっている方が和歌山にいらっしゃいました

 

昭和11年の台湾屏東へ行った方の日誌など他にも興味がある記事が!

 

ぜひぜひご一読ください!

コメント (1)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

台湾風俗誌の話

2021年06月15日 | Weblog

台湾風俗誌という本とそれにまつわる私の不思議な話

 

 

台湾風俗誌と書かれた本を東久留米の医師が母に貸してくれた。

 

台湾について書かれた古い本、大正11年発行の昭和60年くらいの復刻版

 

本を母が祖父に見せたらそれは曽祖父の書いた本だとわかった時の母は驚いた。

その日から本をコピーしようとしばらくその医師のお宅に通った。

ついに神田の古本屋で本を購入し書き写してデジタルアーカイブとして残そうとブログを始めた。

僕はその本を書くに至った経緯や100年前の日本人、文化、歴史、漢字、そして台湾人のことを全然知らなかった。

それはブログにメッセージをくれたクロスカルチャーを大学で教えているヤン先生と今でも続く交流の始まりました。

放送大学のスチュワート本多先生から文化人類学を学び、そして台湾風俗誌とその著者をテーマにしたこと、そして続けて台湾の医療制度の歴史を書いた。

この本の中に書かれていることは未来の予言かもしれないと思っていた。

この本のおかげでまだあったことのない親戚とメールのやりとりができたこと

まだやり残したことが、たくさんある。次の世代に伝える事

コロナ禍において旅行はままならない時代になったがいつでもこの本を開くと

100年以上前の台湾に行けると

 

(写真は台湾の友達とバンド練習しているところ)

 

 

 

 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

片岡巌の妻 和子(にぎこ)さんの祖父

2021年01月23日 | 台湾ー郡山

なにか最近よく思い出すので

 

2018年のときに郡山市音路というところにある土佐藩の墓地にある南部宗長さんのお墓の後ろに書いてある墓碑の文字をノートにおこしてみました。

それを当ブログに載せておきます。

何故なら片岡巌が臺南で昭和5年に亡くなったのち妻の和子(ニギコ)がここの墓に埋葬したからです。

南部宗長はその和子の祖父にあたります。

自転車で朝夕通う中央区の区役所が土佐藩の下屋敷だったから築地あたりには土佐藩の藩士も多かったんだろうなあと思いつつ。(2018当時自分は自宅から新富町までは電車で新富町から有明まで自転車通勤してました)

ちなみに南部宗長さんは僕の母の母の母の母の父

お墓の後ろに書いてある文により

因幡守高忠を先祖とし、その人は奥州から来た旅の僧侶で高岡藩の米野河村(現在の四万十町、一斗俵)を開墾したそうです。

 

(新天地に行ったり、開墾してる人が多い家系です)

 

 

田口求道の長女を妻としていた南部宗長は高知から東京で築城と砲術を学んでその後福島へ来て安積開墾事業をしてきた事がわかります

検索してみると 

岡山篤次郎という会津藩少年兵について知ることが出来ました。

彼の死を家族に伝えたのは南部宗長だったとか

 

http://aozorabower.web.fc2.com/hitobito/okayamatokujiro.html

 

鹿持雅澄の万葉集の出版にも携わっていたようで奥付に名前がある版があります。

宗長にとって祖父にあたる南部巌男(いつお)は歌人

 

南部宗長さんの妻の父は田口求道という土佐藩医だそう。

田口求道について

(コメント欄に記事を引用させていただいてます)

 

https://tosareki.gozaru.jp/tosareki/asakura/taguchi/kyudo.html

 

田口求道そしてその息子田口文良の墓碑に書かれてることがわかります。

南部宗長と共通点が多くそこには繋がりを見つけることができます。

 

南部宗長の墓碑に書かれている文面を書き取りました。

 

 

『南部宗長

 

 

姓南部名宗長清和源氏之末裔也

祖南部因幡守高忠城守土佐國高岡郡

米野河村居之其末係仲助字厳男〇三子宗長即長男

天保十二年正月五日生於土佐國土佐郡小高村仕藩主山內候

明治二年5月4日為砲術並築城学修業被差遣東京明治四年十一月八日為兵部省出仕

被補陸軍省十一等出仕在職十六年克精勤以功積顯著也偶々坂本常太郞氏〇(遝?)

此地宗長抱殖產大志願以継承其事業刻苦勉励躬枝私財行農作試験示其成積以誘啓富業者寔多

又在村農會長之栄職十数年且又為農事措導員巡迴各地盡力農事改良宣傳大

稗益鄉黨終始蕩盡自費一切不受報酬因其勤労受領縣知事閣不及郡農會之褒賞前後数回也

偶々爲二豎所襲大正四年七月十七曰、病沒享壽七十六歲翁

資性豪毅躯幹牢大沈〇且寡言而酒量蒙朋〇酒不猶辞而未嘗見陶踫也

室田囗求道氏長女大正十二年病沒享年七十九歲

葬翁側余嘗爲翁孑弟親接其温谷令當建翁〇〇旧之情不能禁聊録略歴貽無窮云爯

干時昭和六年夏

弘田良馬稱』

コメント (1)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

朴子市の森永の家には

2018年10月07日 | Weblog

なんか秋だからか長めのレポートになりました。

長文その1
チキンラーメン日清の安藤百福さんは祖父森永信一と台湾で一緒に暮らしてました。

  両親を早く亡くし祖父母に育てられてた百福さんを小学校が近くにあるので曽祖父の勧めで家から通ってたそうです。
この曽祖父は茗荷谷にある台湾協会学校の一期生です。(今は拓殖大学)
福井県人で、テニスが好きで晩年は囲碁を趣味としてました。
曽祖父の息子は三人、その長男が僕の祖父、百福さんとは次男が同級生でした。

曽祖父森永信光に勧められて朴子の図書館の司書をされてたそうですが、その後、商売の道に進みました。

 

という事を百福さんの自伝を読んで知りました。

長文その2

その頃は曽祖父は台湾の東石郡の郡守というのをしてました。帰国後、福井の震災と空襲に遭って福島の祖父母の家では肩身がせまい思いをしてたから、きっと立派になった百福さんのことを知ったらどんなに喜んだことかなー。と思います。

後日談、、、、
何年か前マクドナルド食肉問題で沸いていた頃、ちょうど曽祖父の事で日清に問い合わせていました。
ついつい新製品の開発にアドバイス、しました。
この食肉不信の時代の中で野菜だけのカップラーメンがあったら良いなと提案しました。台湾でもウケますよーって思って。
担当の方は開発部に転送しますと言ってくれて、無事に半年以内に「ベジータ」という野菜だけのカップラーメンを作ってくれました(思い込みかもしれませんが)

正直「ベジータ」が国内で売れたとは聞いてませんが、変わった発想をバカにせず商品化するその創業者精神が日清に今も息づいてる気がしました。ビーガン向け食品は海外の需要の方があるのかもしれないです。

今は「謎肉」と言うカップラー麺に入ってる不思議なお肉を僕は喜んで食べてますー。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

星名宏修「植民『地を読む贋』日本人たちの肖像」 (法政大学出版社,2016)を読みました。

2017年08月09日 | 台湾みやげ話
                                                           台湾みやげ話が引用されていた最近の星名宏修の著作を読んで、とても良い本だと思ったのでご紹介します。



要旨を引用しますが星名先生の著作物なので概略のみ


『1925年11月、片岡巌は『台湾みやげ話』を自費出版した。総督府法院の元通訳で、台湾研究の古典として名高い『台湾風俗誌』の著者が一般向けに執筆した同書は、全部で51の設問(例えば「台湾人は如何なる神仏を祭りますか」や「台湾人の音楽は何なものですか」に答える形式をとっている。回答には「台湾風俗誌に由る」と知るされているものもあり、専門書である後者からも題材がとられ易しく解説されている。
 だがこの二冊の書物には難易度だけではない大きな違いがある。1184ページにも及ぶ大著『台湾風俗誌』ではほとんど触れられていないが、わずか102ページの『台湾みやげ話』の冒頭から登場する話題。それは「生蕃」に対する露骨な好奇心に満ちた話題であった。そもそも同書は「台湾に永く居人で、台湾の事を余り知らぬ為、台湾から帰て、内地の人に台湾は如何所ですか、と聞かれて台湾は暑い暑いところでそれで生蕃が居りまして酷い所ですと云ふ位外話すことが出来ない人が沢山」(「自序」)いることに鑑み、台湾の事情を平易に紹介することを目的としていた。台湾に住みながら台湾のことをあまり知らない、にもかかわらず、「みやげ話」として「内地の人」に期待されている話題として「生蕃」に関するそれが選ばれるのである。

では冒頭の問答を見てみよう。

◎台湾に生蕃(せいばん)が居ると云うが如何ですか

此の生蕃とは内地で聞きますと台湾には至る所生蕃が居る様に云うて居りますがそう云う訳ではありません。
生蕃と云うのは、ズーッと昔台湾に居った土着の人で人種はマレー人種で初めは台湾の平地に居った野蛮人でありますが、対岸の支那からどしどし支那人が移住して来て蛮人の生業たる農業や漁業等を殆ど壓制(あっせい)的に取り上げて、年々次第次第に山辺に押し込み、今では全く深山の山麓、山腹、山奥に外居らぬ事になって居ります。其の風俗習慣は全く原始的で能く南洋の蕃人の繪を見る事がありますが彼れと少しも異なりませぬ、まあ我が内地の北海道の「アイヌ」族のようなものです。言葉などは全く支那人、外国人または南洋諸島の土人などとは違って居ります。その語系は日本語、朝鮮語の様に棒読みでありまして外国語や支那語の様に翻訳をする時、かえり点を付けて解釈することは要りませぬ。衣物は風呂敷の様なものを一枚片方の肩から脇き下に掛け腰には一寸した布を巻き付けて置くばかりで随分原始的な風であります。併し内地では生蕃が台湾到る所に居る様に考えて居る人がある様ですがそれは間違いで、前に申した様に深山(しんざん)に居るので殆ど原始的の様な有様です。併し今は村落に接した所の蕃人は大いに進化して稀に中学卒業した者も医学校を卒業したものもありますが、之に極僅かのものであります。


第二の問いと、それへの回答も引用しよう。

◎生蕃(せいばん)は人の首をとるというが本当ですか
それは真実です。しかし蕃人でも山麓や又人里近い所又は宗教の為教化された所の蕃人は首はとりません。
まだ教化を受けない山奥の者が、多く首をとった者が勇者であると友に誇る為、又は祖先を祭る時、又は春秋の穀祭り等に神前に供える為に能く首狩りに出ます、此の首は老若男女の区別はありませぬ何でも人の首であれば選ばずにとるので、此の風、深山の兇蕃に残って居ります。


 台湾とは「暑い暑い所でそれで生蕃が居」る所。そして「深山の兇蕃」は「何でも人の首であれば選ばず馘る」、「元始的」な存在。こうした台湾のイメージは、この本に限らず繰り返し語られてきた典型的なものだった。 



 ところで『台湾みやげ話』が出版された1925年とは、後に紹介するように総督府による徹底的な軍事作戦と「理蕃道路」の建設によって、原住民、特にブヌン族の抵抗を押さえ込むことに「成功」しつつあった時期にあたる。植民地期の『台湾鉄道名所案内』を分析した曽山毅によると、旅行案内書に原住民関連の項目が登場するのは1916年版からであり、23年から24年版にかけてそれが急増するという。「山岳地域への安全なアクセス路が確保され」ることで、「蕃地」とそこに住む「蕃人」がスリリングな「観光資源」として浮上するのは、『台湾みやげ話』の出版と同時期のことなのである(略)』(星名宏修『植民地を読む 偽日本人たちの肖像』第6章 「兇晩」と高砂族の「あいだ」河野慶彦「扁柏の蔭」を読む2016法政大学出版局)


長い引用となったがこの後に著者は河野慶彦の文芸作品、「扁柏の蔭」を読み解いていく。
理蕃道路建設中に原住民に殺害された日本人警察官の息子の主人公が1943年夏に新高山を踏破し父親の死の現場を訪れる物語

著者の河野の紹介をしつつ作品に描かれた「兇蕃」が悔い改め、いまや志願兵や高砂義勇隊として戦争に参加していく姿と作品に書かれない理蕃政策の暴力の歴史を紐解きながら紹介していく。








大江志乃夫の「植民地戦争と総督府の成立5-6頁」から
1895年の台湾領有から1915年までの台湾住民に対する大規模な軍事行動を、日清戦争とは別の「台湾植民地戦争」と名づけ、次のように三つの時期に区分した。
第一期(1895-96年3月):台湾民主国の崩壊から全島の軍事制圧まで。
第二期(1896年4月-1902年):日本軍占領下で漢民族のゲリラ的な抵抗が続けられた時期。
第三期(1903年-15年):原住民に対する軍事的制圧を主な課題とした時期。第五代総督佐久間左馬太の任期(1906年-15年)とほぼ重なる。




コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

迷信の善用 1914年5月20日

2016年12月12日 | 臺法月報
迷信の善用

  本島に「離頭三寸有神明」なる俗語あり。之れ即ち頭上三寸を離れたる所に神明ありて常に吾々を監視す、故に日常の行事善悪となく直に頭上の神明の知る所となり、善事なるときは陽報あり、悪事なるときは必ずや神罰を被るとの意にて、所謂我が母国の「神は正直の頭に宿る」の筆法に相似たる俗言なるが會〃此の俗言を利用して迷信善用の例を示せるあり。處は台南安海街なる南部治療院の後方、小港の壁角に於いて、往来の土人等、各自所有の天然水龍(天然ポンプ)を取り出し救火の予行演習を行うあり為に付近汚穢し臭気甚だしかりしが、近頃一厚徳家あり、左の数字を書して壁に貼付せり、曰く
媽祖在此処 放尿者必夭死
と、即ち媽祖の神明此の無形の壁角の間に宿り居れり、若し救火演習をなすときは必ず夭死すとの意なり。之れ即ち「離頭三寸有神明」の俗言を利用し街頭巷角にも神明ありとなせしものなり。之が為め近来一人の救火演習を行うものなきに至り、此処反って清潔の場所となれり。彼の汽車中、汚脚勿踏椅頂とか乃至塵屑捨つ可らず、啖吐くべからず、閑人不准人、通行禁止、花折るべからず、魚捕ふべからず等の文字を用ふべき場合にも此の筆法を利用せば、其の効果に於いて他法に勝ること数段なるものあるべきか。
迷信の善用


ひらいてみた!

  本島(臺灣)に「離頭三寸有神明」なる俗語あり、これ、すなわち頭上三寸をはなれたところに神明あり、つねにわれわれを監視する。
ゆえに日常の行事善悪となく、すぐに頭上の神明の知るところとなり、
善事なるときは陽報あり、悪事なるときはかならずや神罰をこうむるとの意味で、
いわゆる我が母国(日本)の「神は正直の頭に宿る」の筆法にあい似たる俗言であるが、

この俗言を利用して迷信善用の例を示せるあり。
ところは台南安海街なる南部治療院の後方、小港の壁角において、往来の人等、各自所有の天然水龍(天然ポンプ)を取り出し救火の予行演習(:立小便の意)を行うありために付近汚くて、臭気はなはだしかりしが、近頃ある一人の厚徳家あり、左の数字を書して壁に貼付せり、いわく
「媽祖在此処 放尿者必夭死」
と、すなわち媽祖(まそ:臺灣の女性神)の神明、この無形の壁角の間に宿り、もし救火演習をなすときは必ず夭死すとの意なり。これ即ち「離頭三寸有神明」の俗言を利用し、神様はどこでも見ているこのため最近、一人の救火演習を行うものはいなくなった。
そこはかえって清潔の場所となり。かの汽車の中、汚い足を靴のまま座席に乗せる人にするへの注意とか、チリクズを捨てない、啖やつばを吐かない、閑人不准人、通行禁止、花折らないで、魚捕り禁止等の文字を用うる場合にもこの書き方を利用すれば、この効果に於いて他法に勝ること数段なるものあるのではないか。

臺法月報第8巻第5号 1914年5月20日
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私休 1913年9月20日

2016年12月10日 | 臺法月報
私休

△強姦 は耳を割り、目を刳り、頭髪を斷る、等略々姦通の私休と同じきも、尚其外に活埋と云ふことあり、之れは犯者を捕へて、可成通行人多き路傍に活乍ら土中に埋むるを云ふ、其方法は一尺四方位の杭を人丈けに穿ち、犯者を其杭中に立たしめ、周園を土にて埋め、首部のみを露出し通行人に面せしめ諸人に示す、行人は竹鞭或は木枝を以て之を揶揄し、又は面に唾して過ぐ、如此して往昔臺南安平街道の中途に半路亭なる一亭あり、之れ元と安南間往来者の休息所たりしが、或時一悪漢此處に隠れ居り、一婦人の通行するを見て、不意に捕へて亭内に拉し来たり、遂に獣慾を満たせり、庄人之を知り馳せ集り、悪漢を捕へて此處に活ながら埋めて衆人に示めせり、埋められたる悪漢は數刻を出でずして死したるを以て、其首部に甕を蔽ひ腐臭に任せたり、後何人の傳へたるものなるや、其屍前に香を焼きて祈るときは必ず賭博に勝つと稱し、黨時香煙絶えざりしと云ふ、彼の義賊鼠小僧の墓前に常に香花絶えざるも概ね此類なるべく、何處にも奇なる迷信の存するものなるも迷信は迷信として、此私休は私休中最も殘酷なる私休と云ふべし。
學生他人のものを窃盗したるときは、教師其學生を捕へて打ち懲らし他の學生に示めし又は其父母に告げ將來を戒しむ。
子、 他人のものを窃取したるときは、其父母其子を物主の家に拉し行きて打ち懲らして物主に示し後來を戒む、若し父母の物品を盗めば縛し、又は打ちて之を懲らす。
査某嫺主人のものを盗めば、子と同じき打ち懲らす、若し他人のものを盗み、又は盗食するときは、其手又は唇に焼け火箸を當て之を懲らす。
明治四十二年七月中苗栗三堡大甲街王俊なるもの下女を懲らしむる目的を以て、度々焼け火箸を其躰體に當て、遂に其下女を死に致し、己れも亦刑事被告人となりし事件あり、兎に角、臺灣に於ける私休即ち私休は不良なる習慣と云ふべし。(了)


臺法月報第七巻第九號 1913年9月20日
 



コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

臺灣の私休 1913年8月20日

2016年12月10日 | 臺法月報
臺灣の私休


△牛豚羊等を竊取したるもの は捕らへて賍物を返へさしめ、若し賣却又は等にて原物現存せざる時は其代價を賠はしめ、燈彩一對(彩色シタル燈)を廟に奉納せしめ、其燈には必ず犯者の姓名を記入す、此燈の存する間は犯人は人知れぬ苦しみを受け、後來決して斯かる事はなすまじと自ら懲り悔ひしむる様になすなり、又檳榔を配りて謝罪せしむるものもあり、罰として芝居をなさしむるもありと云ふ。


△竹林又は縞板等を竊取したるもの は賍物を背負はし庄内を囃し行きて後來を戒しむ


△殴打創傷 被害の多寡に依り、被害少なければ檳榔を以て謝罪し、或は罰として廟前に芝居をなさしむ、此時は芝居場の両側の柱に自書にて謝罪の意を書せしむ、傷軽きときは薬代卽醫療代を賠はしめて事を濟ますあり、又被害者を加害者宅へ舁ぎ込むあり、被害者は例の灣流にて将に死に垂んとするの状をなし唸めき苦しみて泣き叫ぶ、已に損害賠償も取り、事落着するや、忽ち全治して元氣よく歸宅する輩もありと云ふ、又保辜限と云ふことあり、之れは保正或は甲長の仲裁にて其未だ傷害の深淺を確かむる能わざるときの約束なり、若し此傷痕が三十日以内に全治せば藥價何程、或は一生不具になりし時は何程と、所謂條件付の約束なり、之を保辜限と云ふ、此間は官にも持ち出さずして其傷痕の経過を俟つものなり。


△水番・順番を俟たず窃かに引水したる者 は其者に燈彩又は芝居を罰す、五角頭、五柵戯、五卓酒、なる慣習語あり、之は庄内のものゝ悪事をなしたるときは罰として庄の五方に芝居をなさしめ、酒及料理を設けて庄人に飲食せしむるを云ふ。


△甘藷盗食 近来砂糖屋増加し、一本の甘藷と雖も、大いに尊重さるゝことなれり、今一二本の甘藷を倫食したるものありとせば、如何なる御叱りを被るかは知らざれど、在來本島に慣習語あり、曰く、一枝放汝去、二枝打竹莉、三枝罰一棚戯、と卽一本なれば放還す、二本なれば竹にて打ち懲らす、三本となれば少し慾心深くして穏かならざれば、罰として一臺の芝居をなさしむと云ふことなり、一臺の芝居は少なくも六七圓なるべし、甘藷三本にて六七圓の罰とは少し割に合はざることと云ふべし










臺法月報 第七巻 第七號  1913年8月20日 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

臺灣の私休(その2)1913年7月20日

2016年12月10日 | 臺法月報
臺灣の私休 (其二)

姦通せしものに對しては断髪、灌尿、割耳、罰戯等の制裁あるは前號已載の如くなるが、尚ほ珍奇なる實例あるを以て其一を茲に紹介すべし、先年一盲人、肥餘なる上田を所有せしに目明なる人の赤痩殆ど不毛に近き下田と詐り換へられたりとて、之が囘収の訴を臺南法院に提出せり、始め盲人は、詐取せられたる業は己れの祖先より傳來せし如く申立居りしも、審理進むに従つて包むに由なく、遂に實を吐くに至れり、即ち原告たる盲人の未だ盲せざる以前、被告の妻某と密かに通じ居りしが、阿漕が浦に引く網の何とやら、遂に被告に發見せられ、捕らへられ両眼を刳り脱かれたるものなりと云ふ、原告自身は其地古来の私休なるを念ひ且つ己れの惡きを悔ゐ断念して默し居りしに親族故𦾔共餘りに私休の殘酷なるを鳴らしめ初め被告に談判せしに、被告も事の公にならんことを恐れ、自己の所有する上田と原告所有の下田と交換し、且つ檳榔を送り謝罪して事済みたり、然るに被告は原告の盲なるを奇貨として、口頭にて交換し了したる如く言ひなして其實交換の手續をなさざりし爲め此訴訟を提出せしものなること判明せりと云ふ、實に奇珍なる訴訟にて到底内地人の想見し能はざるものと云ふべし又た昔臺南の何某好淫にして常に人の妻と通ず、故に人々蛇蝎の如く嫌厭し爪弾きし居りしに、或時復た他人の妻と通じて其夫に發見せられ捕へられて日中馬背に縛せられ、臺南市中を牽廻はさら赤恥を晒したりと云ふ、斯事餘り信ずべきことならねども且らく所聞を記して参考に供す。
飼牛、飼羊其他鶏鶩等の飼養動物、若し他人の田園に入り作物を踏荒らしたるときは其業主は牛又は羊を捕へて打懲らし、又は自宅に牽き來りて縛し留む、物主之が囘収に來らば、相當の損害賠償を取り謝罪せしむ、又物主曩(さき)に金餞を田主に貸與しありたる場合、卽債権責務の關係ありたる場合は債務者たる田主は此機乗ずべしとなし、損害高及牛羊の代價に見積り、牛主に向つて曩日の債務を棒引きにせんことを強請する等狡猾なる輩ありと云ふ
鶏、鶩、鵞等を搾取したるもの、常業者なれば公けにすること無論なるべけれど、鋤鍬を肩にせる耕転の帰路、塒に迷ひたる鶩一羽、畦(けい)畔(はん)に蹲(うずくま)り居るを見、時は黄昏なり人亦見えず、處は屋裏竹圍の外、不圖不良の心を生じ、私かに捕へて家に歸りし等は、實物若は相當の代金を返戻して謝罪せしむ謝罪は必ず檳榔を其近隣に配るものとす。

臺法月報第七巻第七號  1913年7月20日
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

臺灣の私休(その1) 1913年6月21日

2016年12月09日 | 臺法月報
臺灣の私休 (其一)

私休とは臺灣人相互間の制裁卽社会的制裁である、而して中には實に聞くに忍びぬ残酷なものがある、是れは昔日、清人の明人虐殺、乃至は反賊の民人惨殺、官兵の復讐的勦滅、若は分類械闘及蕃人の馘首(かくしゅ)等常に惨酷酸鼻に堪えざる所行を見聞して居るからであらうと思ふ、勿論領臺以来此等安寧秩序を紊し一般風俗を傷ふ如きものは厳に禁止せられ居る譯なるも中には一二私かに行れ居らぬにも限らぬ、今其重なるもの數種挙ぐれば

△窃盗 捕へて縛し、或は吊るし打つ、又突屎禁とて捕へて倒まに厠の中に突き込む、又頭毛酷とて五分位の髪の毛を酷と尿とに入れて口よりつぎ込む、然すれば其賊は喘息又は肺病となり、物を取らんとして人家に入る毎に、咳の為に發覺して果たさぬと云ふ、又情状に依て割脚筋と云ふことをする、之れは足の筋を斬るのである、爲朝が臂筋を斷たれしよりは今一層、困難なることであらう。

△姦通 捕へて頭髪を斬る、又は割り耳とて耳を切る、灌尿とて尿汁を呑ましめる、又は寺廟用の物品を提供せしめ、其物品に氏名を明記して、物品の現存する限り人々の笑ひものとなり、後來は決して斯る耻かしきことすまじ、と思はしむるのであると云ふ、又罰として俳優を償はしめ、芝居を衆人に見せしむ、又爆竹を肛門に挿込み、火を點じて爆炸せしむるのもゐると云ふ、然かるに先頃他人の妻と通じたりとて、之を捕へて「サイダー」壜を肛門に挿込みたり、此被害者元来己れの招きたる禍ひなれば、苦しきをも忍びて家に歸り、自ら取り去らんとして鐵鎚にて打破はしたる為め、其砕片奥深く入り込み遂に如何とも致し方なく臺南病院に入院したるより、官の知る所となりたりと云ふ、随分危険なる制裁と云ふべし。
右の外處女に戯るれば、捕らへて灌尿を行ひ、殺人は捕らへて打殺し、又は情状に依り金餞を出して謝罪せしむ、又過失殺は金餞を出して謝罪せしめ、違約は菓子を買はせ、又は檳榔を用て謝罪せしむ、然し商品等にて違約の為め損害多きときは、其額に照して賠償し且謝罪せしむ。

臺法月報 第七巻第六號 1913年6月21日
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

月老爺 1914年2月20日

2016年12月08日 | 臺法月報
月老爺 

△縁結びの神 内地にて十月を神無月と云ふのであるが、之れは日本國中の神々が出雲の大社に集合して各々我管轄する所の若い男女の赤縄を結ぶと云ふのである。然し臺灣は領臺已に二十年になるのであるが、臺灣人の赤縄に就ては臺灣の神々が同じく出雲に行って結ぶのであるかが、疑問であつた、然るに規則の方より云ふ時は、臺灣人は内地人の籍に入って妻となり婿となることは出来るが、内地人が臺灣人の妻となり婿となりて臺灣人の戸籍に入ることは出来ないと云ふ事になって居る、是を見ると臺灣神社が内地に會同に行く際臺灣人の赤縄を持て行て罕に結び付けるのであらう、然らば臺灣人同士のは何處に結ぶかと云ふに、之れは別に臺灣に神がある、之を月(ゴアヲ)老爺(ノオイア)と云ふ、この神は各地にあるが、臺南には打銀街の萬福庵の右側に祀ってある所の神がある、之れが赤き男絲と女絲とを結ぶのであるが、若き男女は盛んに参拝して、自分の赤縄を思ふ人の赤縄と結び付けて貰ふことを祈る、金紙が數枚と線香が數本で、己の欲する赤縄に結び付けて貰ふことが出来るならば御易い事である、臺灣に居る人は内地人でも効があるかも知れぬから儘ならぬ浮世などと嘆く人々は一遍試みに祈願して見ては如何だろう。


1914年 2月20日  
臺法月報 第八巻 第二號
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

臺灣の美風良俗 1913年10月20日

2016年03月28日 | 臺法月報

臺灣の美風良俗



△五穀を粗本にせざる習慣

 母國人には随分五穀を粗末にする者がある、是れは彼の「飯粒前に落つ、拾って之を食ふ、倶に為す有るに足らざるを知る」と、誰やらが云ふたのを穿き違へて居るのであらう。猫も杓子も此の句を振廻し、少しも穀物に對し愛惜の心が無いものが多い。斯く云ふ風であるから下々に至るまで之を見習ひ、穀物を粗末にする風がある。彼の其の日暮しの雇はれ女、乃至心無しの下婢等は、何程目上のものが厳格にしても穀物を粗末にする風がある。然るに上已に穀物を愛惜する心なくんば、下々のものは得たり賢し、層一層粗末にするのである。之では一家の經濟と云ふ所から云ふても、又年々増殖する人口に対し、穀物の不足を嘆じつゝある国家に對し穀物の不足を嘆じつつある国家に對しても甚だ不忠実なるものであらうと思ふ。

△本島人の俗
  
然るに本島人間は一般五穀を粗末にせぬと云ふ風がある。實に善良なる風習ににて、大いに喜ぶべき事である。故に母國人が遠足又は行軍乃至出張等の際、木陰に憩ひ行厨を開く、すると田舎の土人が蟻の群るが如く集り來って、物珍らし氣に見物する。其時若し小塊若し飯粒が地上に轉び落ちると見て、愛惜の念措く能はざる如く、舌を鳴らして見て居る。甚だしきは馳せ寄って拾ふものもある。是れは決して貪欲の故に、又は野卑なるが故にと云ふて嘲笑すべきものではない。元來本島には「一粒(チツリャプ) 米亦著流幾若百(ビイイアチオラウクイナアパア)汗(コア)(チツリャプビイイアチオラウクイナアパアコア)」と云ふ習慣語あり。即一粒の米を作らんとするにも、農夫が浴風沐雨旦に星を踏んで出で、夕べに月を戴て歸るの勞苦艱難あるのみならず、其後と雖も膳に上る迄には、尚幾多の手數を經ざるべからず。是れ所謂一粒の米に對し幾百滴の汗を流すのである、との意である。

△雷に撃殺さる
 
であるから決して一粒の穀物と雖も無益に棄つべからずと云ふ心より出で、斯く穀物は貴重するのであると云ふ。また本島に五穀を粗末にすれば、必ず雷に撃ち殺さるゝと云ふ迷信がある。是れ前述の五穀貴重の風を一般人民をして實践せしめんとの意より、諸衆に説教せし儒者長老輩の一方便に過ぎざりしに、愈々常に穀物を粗末にせしもの、雷電に觸れて死したるものありしより大いに其迷信を高めたるものであろう。然して之に付

△面白き傳説 

がある。昔一婦女常に五穀を粗末にして少も愛惜の念なく、或時炊殘の米を庭前に棄てしに、天忽ち掻き曇り、暴風強雨来り、彼女の身邊に於いて一囘の大霹靂鳴り響き、後ち天前の如く霽れ渡った。人々怪しみ彼女の家に到りしに、身邊は寸断され、恰も膾の如くになつて死んで居た。人々は常に彼女が穀物を棄てしに依り、神罰を受けたのであると云ふて、互に云ひ合ひ相戒めて居つた。

△雷の誤解 

其翌日良家の婦女、瓜を切り其の種を庭前の屑溜に棄てしに、前日の如く驟かに雨来り雷鳴り、遂に彼女も雷の為に撃ち殺された。雷公が瓜の子(タネ)を白米と見誤り、一途に精米を棄てたものであると誤信し、大に怒り一撃に撃ち殺したのであると云ふ。成程天上より下界にある瓜の子(タネ)を見れば、一寸白米と見分けが付かぬであらう。然し随分周章腐った雷公ではあるまいか、之が為に本島に「好心被雷公打死(ホエシムホオルエコンバアシイ)」と云ふ慣習語がある、之れは善人なるに拘わらず、雷に撃ち殺されたと云ふ意にして、今は「労して功なし」の俚諺に用ゐられて居る。以上の傳説が五穀貴重の良風を致したる一大原因であるから、茲に付記して参考に供へるのである。


1913年10月20日 臺法月報第七巻 第十號




曾孫注:「労して功無し」でも自分が間違った行いをしていないと信じるならば、見ていようがいまいが、
誰が何といおうと、(例え雷神に撃殺されようとも)正しい行いをしていくべきという良俗の紹介でもありますね。

 
この文章は文字数の都合か一切改行がされていませんでしたが、読みやすさを考慮して改行。
逆に読みにくくなったかもしれません。
このブログでは縦書きである原文を横書きにしているのですが、これも少々ニュアンスが変わってしまうし、読みづらいと思います。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする