迷信の善用
本島に「離頭三寸有神明」なる俗語あり。之れ即ち頭上三寸を離れたる所に神明ありて常に吾々を監視す、故に日常の行事善悪となく直に頭上の神明の知る所となり、善事なるときは陽報あり、悪事なるときは必ずや神罰を被るとの意にて、所謂我が母国の「神は正直の頭に宿る」の筆法に相似たる俗言なるが會〃此の俗言を利用して迷信善用の例を示せるあり。處は台南安海街なる南部治療院の後方、小港の壁角に於いて、往来の土人等、各自所有の天然水龍(天然ポンプ)を取り出し救火の予行演習を行うあり為に付近汚穢し臭気甚だしかりしが、近頃一厚徳家あり、左の数字を書して壁に貼付せり、曰く
媽祖在此処 放尿者必夭死
と、即ち媽祖の神明此の無形の壁角の間に宿り居れり、若し救火演習をなすときは必ず夭死すとの意なり。之れ即ち「離頭三寸有神明」の俗言を利用し街頭巷角にも神明ありとなせしものなり。之が為め近来一人の救火演習を行うものなきに至り、此処反って清潔の場所となれり。彼の汽車中、汚脚勿踏椅頂とか乃至塵屑捨つ可らず、啖吐くべからず、閑人不准人、通行禁止、花折るべからず、魚捕ふべからず等の文字を用ふべき場合にも此の筆法を利用せば、其の効果に於いて他法に勝ること数段なるものあるべきか。
迷信の善用
ひらいてみた!
本島(臺灣)に「離頭三寸有神明」なる俗語あり、これ、すなわち頭上三寸をはなれたところに神明あり、つねにわれわれを監視する。
ゆえに日常の行事善悪となく、すぐに頭上の神明の知るところとなり、
善事なるときは陽報あり、悪事なるときはかならずや神罰をこうむるとの意味で、
いわゆる我が母国(日本)の「神は正直の頭に宿る」の筆法にあい似たる俗言であるが、
この俗言を利用して迷信善用の例を示せるあり。
ところは台南安海街なる南部治療院の後方、小港の壁角において、往来の人等、各自所有の天然水龍(天然ポンプ)を取り出し救火の予行演習(:立小便の意)を行うありために付近汚くて、臭気はなはだしかりしが、近頃ある一人の厚徳家あり、左の数字を書して壁に貼付せり、いわく
「媽祖在此処 放尿者必夭死」
と、すなわち媽祖(まそ:臺灣の女性神)の神明、この無形の壁角の間に宿り、もし救火演習をなすときは必ず夭死すとの意なり。これ即ち「離頭三寸有神明」の俗言を利用し、神様はどこでも見ているこのため最近、一人の救火演習を行うものはいなくなった。
そこはかえって清潔の場所となり。かの汽車の中、汚い足を靴のまま座席に乗せる人にするへの注意とか、チリクズを捨てない、啖やつばを吐かない、閑人不准人、通行禁止、花折らないで、魚捕り禁止等の文字を用うる場合にもこの書き方を利用すれば、この効果に於いて他法に勝ること数段なるものあるのではないか。
臺法月報第8巻第5号 1914年5月20日
本島に「離頭三寸有神明」なる俗語あり。之れ即ち頭上三寸を離れたる所に神明ありて常に吾々を監視す、故に日常の行事善悪となく直に頭上の神明の知る所となり、善事なるときは陽報あり、悪事なるときは必ずや神罰を被るとの意にて、所謂我が母国の「神は正直の頭に宿る」の筆法に相似たる俗言なるが會〃此の俗言を利用して迷信善用の例を示せるあり。處は台南安海街なる南部治療院の後方、小港の壁角に於いて、往来の土人等、各自所有の天然水龍(天然ポンプ)を取り出し救火の予行演習を行うあり為に付近汚穢し臭気甚だしかりしが、近頃一厚徳家あり、左の数字を書して壁に貼付せり、曰く
媽祖在此処 放尿者必夭死
と、即ち媽祖の神明此の無形の壁角の間に宿り居れり、若し救火演習をなすときは必ず夭死すとの意なり。之れ即ち「離頭三寸有神明」の俗言を利用し街頭巷角にも神明ありとなせしものなり。之が為め近来一人の救火演習を行うものなきに至り、此処反って清潔の場所となれり。彼の汽車中、汚脚勿踏椅頂とか乃至塵屑捨つ可らず、啖吐くべからず、閑人不准人、通行禁止、花折るべからず、魚捕ふべからず等の文字を用ふべき場合にも此の筆法を利用せば、其の効果に於いて他法に勝ること数段なるものあるべきか。
迷信の善用
ひらいてみた!
本島(臺灣)に「離頭三寸有神明」なる俗語あり、これ、すなわち頭上三寸をはなれたところに神明あり、つねにわれわれを監視する。
ゆえに日常の行事善悪となく、すぐに頭上の神明の知るところとなり、
善事なるときは陽報あり、悪事なるときはかならずや神罰をこうむるとの意味で、
いわゆる我が母国(日本)の「神は正直の頭に宿る」の筆法にあい似たる俗言であるが、
この俗言を利用して迷信善用の例を示せるあり。
ところは台南安海街なる南部治療院の後方、小港の壁角において、往来の人等、各自所有の天然水龍(天然ポンプ)を取り出し救火の予行演習(:立小便の意)を行うありために付近汚くて、臭気はなはだしかりしが、近頃ある一人の厚徳家あり、左の数字を書して壁に貼付せり、いわく
「媽祖在此処 放尿者必夭死」
と、すなわち媽祖(まそ:臺灣の女性神)の神明、この無形の壁角の間に宿り、もし救火演習をなすときは必ず夭死すとの意なり。これ即ち「離頭三寸有神明」の俗言を利用し、神様はどこでも見ているこのため最近、一人の救火演習を行うものはいなくなった。
そこはかえって清潔の場所となり。かの汽車の中、汚い足を靴のまま座席に乗せる人にするへの注意とか、チリクズを捨てない、啖やつばを吐かない、閑人不准人、通行禁止、花折らないで、魚捕り禁止等の文字を用うる場合にもこの書き方を利用すれば、この効果に於いて他法に勝ること数段なるものあるのではないか。
臺法月報第8巻第5号 1914年5月20日