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日記。

迷信の善用 1914年5月20日

2016年12月12日 | 臺法月報
迷信の善用

  本島に「離頭三寸有神明」なる俗語あり。之れ即ち頭上三寸を離れたる所に神明ありて常に吾々を監視す、故に日常の行事善悪となく直に頭上の神明の知る所となり、善事なるときは陽報あり、悪事なるときは必ずや神罰を被るとの意にて、所謂我が母国の「神は正直の頭に宿る」の筆法に相似たる俗言なるが會〃此の俗言を利用して迷信善用の例を示せるあり。處は台南安海街なる南部治療院の後方、小港の壁角に於いて、往来の土人等、各自所有の天然水龍(天然ポンプ)を取り出し救火の予行演習を行うあり為に付近汚穢し臭気甚だしかりしが、近頃一厚徳家あり、左の数字を書して壁に貼付せり、曰く
媽祖在此処 放尿者必夭死
と、即ち媽祖の神明此の無形の壁角の間に宿り居れり、若し救火演習をなすときは必ず夭死すとの意なり。之れ即ち「離頭三寸有神明」の俗言を利用し街頭巷角にも神明ありとなせしものなり。之が為め近来一人の救火演習を行うものなきに至り、此処反って清潔の場所となれり。彼の汽車中、汚脚勿踏椅頂とか乃至塵屑捨つ可らず、啖吐くべからず、閑人不准人、通行禁止、花折るべからず、魚捕ふべからず等の文字を用ふべき場合にも此の筆法を利用せば、其の効果に於いて他法に勝ること数段なるものあるべきか。
迷信の善用


ひらいてみた!

  本島(臺灣)に「離頭三寸有神明」なる俗語あり、これ、すなわち頭上三寸をはなれたところに神明あり、つねにわれわれを監視する。
ゆえに日常の行事善悪となく、すぐに頭上の神明の知るところとなり、
善事なるときは陽報あり、悪事なるときはかならずや神罰をこうむるとの意味で、
いわゆる我が母国(日本)の「神は正直の頭に宿る」の筆法にあい似たる俗言であるが、

この俗言を利用して迷信善用の例を示せるあり。
ところは台南安海街なる南部治療院の後方、小港の壁角において、往来の人等、各自所有の天然水龍(天然ポンプ)を取り出し救火の予行演習(:立小便の意)を行うありために付近汚くて、臭気はなはだしかりしが、近頃ある一人の厚徳家あり、左の数字を書して壁に貼付せり、いわく
「媽祖在此処 放尿者必夭死」
と、すなわち媽祖(まそ:臺灣の女性神)の神明、この無形の壁角の間に宿り、もし救火演習をなすときは必ず夭死すとの意なり。これ即ち「離頭三寸有神明」の俗言を利用し、神様はどこでも見ているこのため最近、一人の救火演習を行うものはいなくなった。
そこはかえって清潔の場所となり。かの汽車の中、汚い足を靴のまま座席に乗せる人にするへの注意とか、チリクズを捨てない、啖やつばを吐かない、閑人不准人、通行禁止、花折らないで、魚捕り禁止等の文字を用うる場合にもこの書き方を利用すれば、この効果に於いて他法に勝ること数段なるものあるのではないか。

臺法月報第8巻第5号 1914年5月20日

私休 1913年9月20日

2016年12月10日 | 臺法月報
私休

△強姦 は耳を割り、目を刳り、頭髪を斷る、等略々姦通の私休と同じきも、尚其外に活埋と云ふことあり、之れは犯者を捕へて、可成通行人多き路傍に活乍ら土中に埋むるを云ふ、其方法は一尺四方位の杭を人丈けに穿ち、犯者を其杭中に立たしめ、周園を土にて埋め、首部のみを露出し通行人に面せしめ諸人に示す、行人は竹鞭或は木枝を以て之を揶揄し、又は面に唾して過ぐ、如此して往昔臺南安平街道の中途に半路亭なる一亭あり、之れ元と安南間往来者の休息所たりしが、或時一悪漢此處に隠れ居り、一婦人の通行するを見て、不意に捕へて亭内に拉し来たり、遂に獣慾を満たせり、庄人之を知り馳せ集り、悪漢を捕へて此處に活ながら埋めて衆人に示めせり、埋められたる悪漢は數刻を出でずして死したるを以て、其首部に甕を蔽ひ腐臭に任せたり、後何人の傳へたるものなるや、其屍前に香を焼きて祈るときは必ず賭博に勝つと稱し、黨時香煙絶えざりしと云ふ、彼の義賊鼠小僧の墓前に常に香花絶えざるも概ね此類なるべく、何處にも奇なる迷信の存するものなるも迷信は迷信として、此私休は私休中最も殘酷なる私休と云ふべし。
學生他人のものを窃盗したるときは、教師其學生を捕へて打ち懲らし他の學生に示めし又は其父母に告げ將來を戒しむ。
子、 他人のものを窃取したるときは、其父母其子を物主の家に拉し行きて打ち懲らして物主に示し後來を戒む、若し父母の物品を盗めば縛し、又は打ちて之を懲らす。
査某嫺主人のものを盗めば、子と同じき打ち懲らす、若し他人のものを盗み、又は盗食するときは、其手又は唇に焼け火箸を當て之を懲らす。
明治四十二年七月中苗栗三堡大甲街王俊なるもの下女を懲らしむる目的を以て、度々焼け火箸を其躰體に當て、遂に其下女を死に致し、己れも亦刑事被告人となりし事件あり、兎に角、臺灣に於ける私休即ち私休は不良なる習慣と云ふべし。(了)


臺法月報第七巻第九號 1913年9月20日
 




臺灣の私休 1913年8月20日

2016年12月10日 | 臺法月報
臺灣の私休


△牛豚羊等を竊取したるもの は捕らへて賍物を返へさしめ、若し賣却又は等にて原物現存せざる時は其代價を賠はしめ、燈彩一對(彩色シタル燈)を廟に奉納せしめ、其燈には必ず犯者の姓名を記入す、此燈の存する間は犯人は人知れぬ苦しみを受け、後來決して斯かる事はなすまじと自ら懲り悔ひしむる様になすなり、又檳榔を配りて謝罪せしむるものもあり、罰として芝居をなさしむるもありと云ふ。


△竹林又は縞板等を竊取したるもの は賍物を背負はし庄内を囃し行きて後來を戒しむ


△殴打創傷 被害の多寡に依り、被害少なければ檳榔を以て謝罪し、或は罰として廟前に芝居をなさしむ、此時は芝居場の両側の柱に自書にて謝罪の意を書せしむ、傷軽きときは薬代卽醫療代を賠はしめて事を濟ますあり、又被害者を加害者宅へ舁ぎ込むあり、被害者は例の灣流にて将に死に垂んとするの状をなし唸めき苦しみて泣き叫ぶ、已に損害賠償も取り、事落着するや、忽ち全治して元氣よく歸宅する輩もありと云ふ、又保辜限と云ふことあり、之れは保正或は甲長の仲裁にて其未だ傷害の深淺を確かむる能わざるときの約束なり、若し此傷痕が三十日以内に全治せば藥價何程、或は一生不具になりし時は何程と、所謂條件付の約束なり、之を保辜限と云ふ、此間は官にも持ち出さずして其傷痕の経過を俟つものなり。


△水番・順番を俟たず窃かに引水したる者 は其者に燈彩又は芝居を罰す、五角頭、五柵戯、五卓酒、なる慣習語あり、之は庄内のものゝ悪事をなしたるときは罰として庄の五方に芝居をなさしめ、酒及料理を設けて庄人に飲食せしむるを云ふ。


△甘藷盗食 近来砂糖屋増加し、一本の甘藷と雖も、大いに尊重さるゝことなれり、今一二本の甘藷を倫食したるものありとせば、如何なる御叱りを被るかは知らざれど、在來本島に慣習語あり、曰く、一枝放汝去、二枝打竹莉、三枝罰一棚戯、と卽一本なれば放還す、二本なれば竹にて打ち懲らす、三本となれば少し慾心深くして穏かならざれば、罰として一臺の芝居をなさしむと云ふことなり、一臺の芝居は少なくも六七圓なるべし、甘藷三本にて六七圓の罰とは少し割に合はざることと云ふべし










臺法月報 第七巻 第七號  1913年8月20日 

臺灣の私休(その2)1913年7月20日

2016年12月10日 | 臺法月報
臺灣の私休 (其二)

姦通せしものに對しては断髪、灌尿、割耳、罰戯等の制裁あるは前號已載の如くなるが、尚ほ珍奇なる實例あるを以て其一を茲に紹介すべし、先年一盲人、肥餘なる上田を所有せしに目明なる人の赤痩殆ど不毛に近き下田と詐り換へられたりとて、之が囘収の訴を臺南法院に提出せり、始め盲人は、詐取せられたる業は己れの祖先より傳來せし如く申立居りしも、審理進むに従つて包むに由なく、遂に實を吐くに至れり、即ち原告たる盲人の未だ盲せざる以前、被告の妻某と密かに通じ居りしが、阿漕が浦に引く網の何とやら、遂に被告に發見せられ、捕らへられ両眼を刳り脱かれたるものなりと云ふ、原告自身は其地古来の私休なるを念ひ且つ己れの惡きを悔ゐ断念して默し居りしに親族故𦾔共餘りに私休の殘酷なるを鳴らしめ初め被告に談判せしに、被告も事の公にならんことを恐れ、自己の所有する上田と原告所有の下田と交換し、且つ檳榔を送り謝罪して事済みたり、然るに被告は原告の盲なるを奇貨として、口頭にて交換し了したる如く言ひなして其實交換の手續をなさざりし爲め此訴訟を提出せしものなること判明せりと云ふ、實に奇珍なる訴訟にて到底内地人の想見し能はざるものと云ふべし又た昔臺南の何某好淫にして常に人の妻と通ず、故に人々蛇蝎の如く嫌厭し爪弾きし居りしに、或時復た他人の妻と通じて其夫に發見せられ捕へられて日中馬背に縛せられ、臺南市中を牽廻はさら赤恥を晒したりと云ふ、斯事餘り信ずべきことならねども且らく所聞を記して参考に供す。
飼牛、飼羊其他鶏鶩等の飼養動物、若し他人の田園に入り作物を踏荒らしたるときは其業主は牛又は羊を捕へて打懲らし、又は自宅に牽き來りて縛し留む、物主之が囘収に來らば、相當の損害賠償を取り謝罪せしむ、又物主曩(さき)に金餞を田主に貸與しありたる場合、卽債権責務の關係ありたる場合は債務者たる田主は此機乗ずべしとなし、損害高及牛羊の代價に見積り、牛主に向つて曩日の債務を棒引きにせんことを強請する等狡猾なる輩ありと云ふ
鶏、鶩、鵞等を搾取したるもの、常業者なれば公けにすること無論なるべけれど、鋤鍬を肩にせる耕転の帰路、塒に迷ひたる鶩一羽、畦(けい)畔(はん)に蹲(うずくま)り居るを見、時は黄昏なり人亦見えず、處は屋裏竹圍の外、不圖不良の心を生じ、私かに捕へて家に歸りし等は、實物若は相當の代金を返戻して謝罪せしむ謝罪は必ず檳榔を其近隣に配るものとす。

臺法月報第七巻第七號  1913年7月20日

臺灣の私休(その1) 1913年6月21日

2016年12月09日 | 臺法月報
臺灣の私休 (其一)

私休とは臺灣人相互間の制裁卽社会的制裁である、而して中には實に聞くに忍びぬ残酷なものがある、是れは昔日、清人の明人虐殺、乃至は反賊の民人惨殺、官兵の復讐的勦滅、若は分類械闘及蕃人の馘首(かくしゅ)等常に惨酷酸鼻に堪えざる所行を見聞して居るからであらうと思ふ、勿論領臺以来此等安寧秩序を紊し一般風俗を傷ふ如きものは厳に禁止せられ居る譯なるも中には一二私かに行れ居らぬにも限らぬ、今其重なるもの數種挙ぐれば

△窃盗 捕へて縛し、或は吊るし打つ、又突屎禁とて捕へて倒まに厠の中に突き込む、又頭毛酷とて五分位の髪の毛を酷と尿とに入れて口よりつぎ込む、然すれば其賊は喘息又は肺病となり、物を取らんとして人家に入る毎に、咳の為に發覺して果たさぬと云ふ、又情状に依て割脚筋と云ふことをする、之れは足の筋を斬るのである、爲朝が臂筋を斷たれしよりは今一層、困難なることであらう。

△姦通 捕へて頭髪を斬る、又は割り耳とて耳を切る、灌尿とて尿汁を呑ましめる、又は寺廟用の物品を提供せしめ、其物品に氏名を明記して、物品の現存する限り人々の笑ひものとなり、後來は決して斯る耻かしきことすまじ、と思はしむるのであると云ふ、又罰として俳優を償はしめ、芝居を衆人に見せしむ、又爆竹を肛門に挿込み、火を點じて爆炸せしむるのもゐると云ふ、然かるに先頃他人の妻と通じたりとて、之を捕へて「サイダー」壜を肛門に挿込みたり、此被害者元来己れの招きたる禍ひなれば、苦しきをも忍びて家に歸り、自ら取り去らんとして鐵鎚にて打破はしたる為め、其砕片奥深く入り込み遂に如何とも致し方なく臺南病院に入院したるより、官の知る所となりたりと云ふ、随分危険なる制裁と云ふべし。
右の外處女に戯るれば、捕らへて灌尿を行ひ、殺人は捕らへて打殺し、又は情状に依り金餞を出して謝罪せしむ、又過失殺は金餞を出して謝罪せしめ、違約は菓子を買はせ、又は檳榔を用て謝罪せしむ、然し商品等にて違約の為め損害多きときは、其額に照して賠償し且謝罪せしむ。

臺法月報 第七巻第六號 1913年6月21日

月老爺 1914年2月20日

2016年12月08日 | 臺法月報
月老爺 

△縁結びの神 内地にて十月を神無月と云ふのであるが、之れは日本國中の神々が出雲の大社に集合して各々我管轄する所の若い男女の赤縄を結ぶと云ふのである。然し臺灣は領臺已に二十年になるのであるが、臺灣人の赤縄に就ては臺灣の神々が同じく出雲に行って結ぶのであるかが、疑問であつた、然るに規則の方より云ふ時は、臺灣人は内地人の籍に入って妻となり婿となることは出来るが、内地人が臺灣人の妻となり婿となりて臺灣人の戸籍に入ることは出来ないと云ふ事になって居る、是を見ると臺灣神社が内地に會同に行く際臺灣人の赤縄を持て行て罕に結び付けるのであらう、然らば臺灣人同士のは何處に結ぶかと云ふに、之れは別に臺灣に神がある、之を月(ゴアヲ)老爺(ノオイア)と云ふ、この神は各地にあるが、臺南には打銀街の萬福庵の右側に祀ってある所の神がある、之れが赤き男絲と女絲とを結ぶのであるが、若き男女は盛んに参拝して、自分の赤縄を思ふ人の赤縄と結び付けて貰ふことを祈る、金紙が數枚と線香が數本で、己の欲する赤縄に結び付けて貰ふことが出来るならば御易い事である、臺灣に居る人は内地人でも効があるかも知れぬから儘ならぬ浮世などと嘆く人々は一遍試みに祈願して見ては如何だろう。


1914年 2月20日  
臺法月報 第八巻 第二號

臺灣の美風良俗 1913年10月20日

2016年03月28日 | 臺法月報

臺灣の美風良俗



△五穀を粗本にせざる習慣

 母國人には随分五穀を粗末にする者がある、是れは彼の「飯粒前に落つ、拾って之を食ふ、倶に為す有るに足らざるを知る」と、誰やらが云ふたのを穿き違へて居るのであらう。猫も杓子も此の句を振廻し、少しも穀物に對し愛惜の心が無いものが多い。斯く云ふ風であるから下々に至るまで之を見習ひ、穀物を粗末にする風がある。彼の其の日暮しの雇はれ女、乃至心無しの下婢等は、何程目上のものが厳格にしても穀物を粗末にする風がある。然るに上已に穀物を愛惜する心なくんば、下々のものは得たり賢し、層一層粗末にするのである。之では一家の經濟と云ふ所から云ふても、又年々増殖する人口に対し、穀物の不足を嘆じつゝある国家に對し穀物の不足を嘆じつつある国家に對しても甚だ不忠実なるものであらうと思ふ。

△本島人の俗
  
然るに本島人間は一般五穀を粗末にせぬと云ふ風がある。實に善良なる風習ににて、大いに喜ぶべき事である。故に母國人が遠足又は行軍乃至出張等の際、木陰に憩ひ行厨を開く、すると田舎の土人が蟻の群るが如く集り來って、物珍らし氣に見物する。其時若し小塊若し飯粒が地上に轉び落ちると見て、愛惜の念措く能はざる如く、舌を鳴らして見て居る。甚だしきは馳せ寄って拾ふものもある。是れは決して貪欲の故に、又は野卑なるが故にと云ふて嘲笑すべきものではない。元來本島には「一粒(チツリャプ) 米亦著流幾若百(ビイイアチオラウクイナアパア)汗(コア)(チツリャプビイイアチオラウクイナアパアコア)」と云ふ習慣語あり。即一粒の米を作らんとするにも、農夫が浴風沐雨旦に星を踏んで出で、夕べに月を戴て歸るの勞苦艱難あるのみならず、其後と雖も膳に上る迄には、尚幾多の手數を經ざるべからず。是れ所謂一粒の米に對し幾百滴の汗を流すのである、との意である。

△雷に撃殺さる
 
であるから決して一粒の穀物と雖も無益に棄つべからずと云ふ心より出で、斯く穀物は貴重するのであると云ふ。また本島に五穀を粗末にすれば、必ず雷に撃ち殺さるゝと云ふ迷信がある。是れ前述の五穀貴重の風を一般人民をして實践せしめんとの意より、諸衆に説教せし儒者長老輩の一方便に過ぎざりしに、愈々常に穀物を粗末にせしもの、雷電に觸れて死したるものありしより大いに其迷信を高めたるものであろう。然して之に付

△面白き傳説 

がある。昔一婦女常に五穀を粗末にして少も愛惜の念なく、或時炊殘の米を庭前に棄てしに、天忽ち掻き曇り、暴風強雨来り、彼女の身邊に於いて一囘の大霹靂鳴り響き、後ち天前の如く霽れ渡った。人々怪しみ彼女の家に到りしに、身邊は寸断され、恰も膾の如くになつて死んで居た。人々は常に彼女が穀物を棄てしに依り、神罰を受けたのであると云ふて、互に云ひ合ひ相戒めて居つた。

△雷の誤解 

其翌日良家の婦女、瓜を切り其の種を庭前の屑溜に棄てしに、前日の如く驟かに雨来り雷鳴り、遂に彼女も雷の為に撃ち殺された。雷公が瓜の子(タネ)を白米と見誤り、一途に精米を棄てたものであると誤信し、大に怒り一撃に撃ち殺したのであると云ふ。成程天上より下界にある瓜の子(タネ)を見れば、一寸白米と見分けが付かぬであらう。然し随分周章腐った雷公ではあるまいか、之が為に本島に「好心被雷公打死(ホエシムホオルエコンバアシイ)」と云ふ慣習語がある、之れは善人なるに拘わらず、雷に撃ち殺されたと云ふ意にして、今は「労して功なし」の俚諺に用ゐられて居る。以上の傳説が五穀貴重の良風を致したる一大原因であるから、茲に付記して参考に供へるのである。


1913年10月20日 臺法月報第七巻 第十號




曾孫注:「労して功無し」でも自分が間違った行いをしていないと信じるならば、見ていようがいまいが、
誰が何といおうと、(例え雷神に撃殺されようとも)正しい行いをしていくべきという良俗の紹介でもありますね。

 
この文章は文字数の都合か一切改行がされていませんでしたが、読みやすさを考慮して改行。
逆に読みにくくなったかもしれません。
このブログでは縦書きである原文を横書きにしているのですが、これも少々ニュアンスが変わってしまうし、読みづらいと思います。


齋教と食菜人の焚死 1913年5月20日

2016年03月13日 | 臺法月報
齋教と食菜人

△開臺以来の大珍事 大正二年四月十三日の夜、開臺以来未曽有の大珍事こそ起こりたれ、處は台南廳下六甲なる赤山岩(一名火山岩、岩は山寺の意)の住職陳淪外七名の僧及び鹽水港付近に住する齋教信教の婦人施氏品外六名の十五人、赤山岩の廟前に於いて薪を積み油を灌ぎ、又各自身の體に綿花を纏ひ油を灌ぎ、十五名一時に焚死成佛せんとて先づ其旨を書したる二通の遺書を留め、身體に火を點じて積み置ける炎々たる薪火の中に飛入り遂に焚死を遂げたる一大珍事あり。


△赤山岩 抑々彼の赤岩山は鄭氏、擄臺の當時建立せしものなりと云ひ傳え、該地方最古の寺廟なるを以て従て信徒も尠からず、且つ該寺は臨済宗にして、雲水の僧及び食菜人等常に寄食し居りしと云ふ。


△食菜人 食菜人は即吃齋人にして齋教の信徒を云ふ、齋教とは俗人にして佛戒を守持し葷肉を食わず髪を剃らず法衣を著けず佛を信仰し朝夕佛前に誦經し信徒相互の為冥福を祈るものを云ふ、又信徒に二あり、一は常に寺廟に寄食し僧侶と同棲妻帯せず、夫に嫁せず、朝夕佛前に經を讀誦して供養するものと、一は自家にありて妻帯し、普通の業務に従事し、朝夕佛前に禮拝讀經するものと是なり。

△齋堂 信徒か佛像を安置禮拝する所を齋堂と稱ふ、台南にあるものを西華堂、愼徳堂(金幢派)徳化堂、徳善堂(龍華派此派目下旺盛ナリ)報恩堂(先天派)と云ひ、鹽水港にあるものを善徳堂(龍華派)と云ひ、其他臺中の尼寺乃至は新竹樹林頭の鄭家の尼姑庵、及西門外の周家の齋堂、又苗栗街の齋堂等は出名なるものにして、其外到る所に小齋堂あり。


△信徒 昔時上流者に信徒多かりしが、中古衰微し、下流社會に移りしに現今再び中流以上に皈依(きえ)するもの多き傾向にあり、又閔人、粤人を問はず皈依するもの甚だ多し。


△皈依者多き理由 なぜに斯く皈依者多きかを問ふに、僧尼は法衣を著し頭を剃り居るも、往々糊口の為に出来したるものありて、能く佛祖の戒法を守るもの少し、故に教理を究め世を濟度する等は思束なく、僧尼は徒に寺廟に住し生産に務めず、又た假令法服を著けず頭髪を剃らざるも能く佛道の教義に通じ戒律を守らば佛徒たるに恥ぢず、又生産を務め國用を空費せざるは國民の務めなリとの意より斯く皈依者多きを致すと云ふ


△信徒の名稱 
信徒相互に相呼んで齋友と云ひ、男を齋公と呼び、女を齋姑と稱ふ、信徒中死者あるときは
齋友行て經を讀誦し葬祭をなす、異教人と雖依頼者あるときは之に應じて讀經す、依頼者は普通僧侶に禮する如く金銭を以てせず、物品を贈つて禮となす、又た齋堂の費用は信徒の寄附に依り、亦齋堂に主教なるものありて之を監理す。


△信徒の階級 信徒に九階級あり、曰く空々、大空、清(せい)煕(き)、四偈、大引、小引、三乗、大乗、小乗之なり、入堂後修行を積むに従て階級漸次に進む、一堂の主教は大空にして、全島の主教は空空を以て之れに充つと云ふ。


△教派 齋教に三派あり、曰く龍華、先天、金幢是なり、龍華派の開祖は明の時、山東省莱州の人羅因なるもの二十八歳にして臨済宗に皈依し、五十二歳にして成道し、諸國を遍歴し諸民を教化し、嘉靖六年露靈山に在て示寂したり、後ち師弟相継ぎ清の雍正年中、陳晋月なるもの福州福寧縣観音埔に於て齋堂を開く、之を一是堂と稱す、今の福建及び臺灣に於ける總主教の所在地即之なり。喜慶年間其十五代の祖、蘆晋耀興の第晋濤渡臺して教義を弘め、其弟子晋爵始めて臺南に今の徳善寺を創建せり。


△先天派 は明の代に徐物なるもの四川省に於て先天堂を建立し、盛んに吃齋の教義を宣傳してるより始まり、其孫徒黄昌成、咸豊年間臺南に渡りて教義を弘め、徒弟鄭良謨なるもの今の報恩堂を建立せり。


△金幢派 は明の嘉慶年中王太虚なるもの直轄省永平府より出で齋教に皈依し、其弟子薫應亮萬歴年間興化府蕭田に来り樹徳堂を建立し、其徒弟蔡權なるもの台南に来り今の慎徳堂を建立せり。故に以上の三派は何れも臨済宗の一派にして、就中龍華派は開祖なるを以て現今尚優勢なる一宗派をなし、全島至る所に齋堂ありて且つ歸依者頗る多きを致せり。

△今回焚死したる施氏品 等が常に禮拝せしは鹽水港近くの善徳堂及該赤山岩なりしと云へば、前述の如く善徳堂は龍華派に属するを以て、殆んど同宗に近かく且つ各安置せる佛像も、釈迦、阿弥陀、観世音、達磨、尊者等大同小異にして、經も亦金剛、大悲、靈王、阿弥陀、観音、法華經等を讀誦し居り、其信仰心の歸する所亦同一なるにより陳淪等が迷信に附和するに至りたるものなるべしと云ふ。


△赤山岩の僧陳淪 は支那の禅寺より受戒し來りし僧に非らず、臺灣に於いて出家したるものにして唯一囘、福州皷山湧泉禅寺の靈場に詣で、現今の總監古月師が悟道正定して神通玄妙なるを聞き来り、自己の未だ修行の足らざるをも悟らず、自ら己に悟道入定したるものと迷信し、信徒にも斯の如く説教し信徒も之れを信じ居りたるものなりと云ふ。


△焚死の動機 とも云ふべきは同廟寄寓の僧、張献なるもの法華經に「身に布を纏ひ油を灌ぎ焚死するときは成佛す云々」とあり、吾人も速かに焚死して成佛するに若かず、と云ひ出したるに、陳淪等は大ひに之に賛同し、各信徒に説き勧め、𦾔四月八日の佛祖祭日を期して焚死成佛と定めたりと云ふ、然るに何故か其期に先き立て焚死したるものなりと、彼等が誤信したりと云ふ法華經中の句は即ち左の如し。


法華經第六巻二十三品録。時佛告其子徒、宿王華菩薩、往昔過數劫、時有佛號日月浄明徳、有得大菩薩、弟子八十億七十二、恒河聲聞、聴其説法華經具得三昧、得三昧己卽入定以供養於佛、復起自念言、不知以身供養、随舎身卽天寶衣纏身塗香油用三昧火焚化

と然して又迷信の熱を高めたりと見るべき一事は曾て(かつて)福州皷山湧泉寺に詣てたる際、古月師が座禅數十日、更らに食を取らず、后醒めて徒弟に云て曰く、吾心魂神に通ず故に食せざるも飢えず、之卽禅那也、故に若し全身を猛火森水中に投ずるも何等苦痛なく成佛すべし、と云ひしことありしを以て、陳淪は深かく之を信じ、己れの未だ正定に達し至らざるを悟らず、自ら大悟徹底せるものと迷信し遂に焚死したるものなりと云ふ、兎に角開臺以来の一大珍事と云ふべし。



臺法月報第七巻第五號 1913年5月20日




以下;曾孫注 
一大珍事と書いているが、焚死した僧及び在家信者にとってはそこまでに至るなにかの理由があっての事だと思うのです。それこそ僧の焚死はその後、宗教宗派、國は違えど政治への非暴力の抵抗として行われたのは数知れず、また引用された法華経以外でも記載されているであろうと思われます。宗教指導者は自らも、また信徒にも死を負わせることのないように、実践的祈りで平和に導くことを願い、ご冥福をお祈りいたします。

○ 1913年2月20日

2016年03月09日 | 臺法月報


△牛爺、馬爺 牛と馬とは何時も乍ら引き合ひに出されるゝのであるが、殊に本年は丑歳であるから本当の牛に就て一寸書て見やう、本島には牛天とか牛祭りとか云ふ様なものはない様であるが、牛爺、馬爺と稱するがある、是は我が母國の牛頭天王、馬頭天王と云ふと同じである、本島のは罪人を逮捕懲戒し又は刑罰を執行することを掌つて居る、此のは何れの廟にも居ると云ふのではなく、十殿閻王のある寺廟には必ずある、台南には岳帝廟、重慶寺、それから新竹の廟にもあつたと思ふ、彼の鑼皷亂撾の御祭り行列の眞先きに立つて行く、身の丈け一丈餘りの張子の人身牛首、馬頭人體が即ちそれである、其執務振りはかうである、茲に人間の犯人があるが、人間界では之を探査することが出来ず困じて居る、即ち犯人が巧みに法網を脱れ居る場合、此場合は直に其實況を取調べて主に報告する、恰も警察の刑事の様な鹽梅である、此報を得た主は直に其犯人を處分する、其處分は犯人をして不治の重病に罹からしめ、又は白痴、瘋嬾(ふうらん)となさしめ、再び世に起ちて活動することを得ざらしむるのである、陽間丈けでは取調べがつかぬ時は、陰間にも出張して取調べるのである、假へば被害者は死亡して地下に居る、其加害者が明らかでないと云ふ場合、如此時は牛爺、馬爺はそれぞれ手配りをして黄泉へ出張し、亡者を訊問して加害者の誰かを知り、陽間即娑婆に歸り主に報告する、主神は之に依て犯人を處罰するのである、處が之れは加害者の生存し居る場合である、若し取調べの結果、加害者も已に死亡して居ると云ふことを知った場合は此の二は己れの直属長官たる、閻王に報告するのである、閻王は自己の管轄内のことであるから、直に此の両に命ずる、両は其部下なる掌牌爺と云ふに其執行方を命ずる、被命者は、落磨(スリミ)、落油(アブラ)鼎(イリ)、呑錢(テツノタマ)丸(ノマス)、攪(ヒバシラ)火柱(ヲダカス)、割(シタ)舌(ヲキル)、落(ノコギリ)鋸(サキ)、落(ツキ)椿(ミ)、落(フカシ)蒸(ミ)、浸(チノ)血(イケニ)池(イレル)、挖(メヲ)目眮(ヌク)、寃死(ロウニ)城(イレル)等それゞ犯情に照らして処罰するのである、斯う云ふ風であるか土人に於ても加害者の知れざる場合、又は故意に加害者を害する為め、假へば些細なることにでも害を受けたるとき其加害者をして大いなる禍に逢はしめやうとする場合等は其被害の状況を書き陳ねて此に祈り訴へ、而し(しかし)て後之を焼くのである、さうすると其効験が顕はるゝと云ふて居る、それが爲め此前には年中香煙が絶えぬのである、が之れを聞いては、本島人に對しては滅駄に大きな聲で話すことも出来ないことである、でも畏ろしきは牛馬の両ではあるまいか。

1913年2月20日 臺法月報第七巻第二號

贌の字 1911年7月23日

2016年02月04日 | 臺法月報
1911年7月23日発行    臺法月報第五巻第七號
慣習  
贌の字
      片 岡 巖

贌の字に就いては臺灣𦾔慣習調査会の報告及び臺灣土地投機規則註解の釈義によると何れも狭義の解釈で、田、園、山、林に就いてのみの贌耕に限り、広義の解釈がない、加之北南處に依りても其用法を異にしているやの感がある。故に今之に就いて左に記述しやう。
「贌」とは豫て有期限にして(又は無期限なるものあり)代償を定めて其者を設け、収益を取り又は或る条件の下に人を雇い入れて労働その他に従事せしめ、もしくは人の名義を籍りて収益を取る契約をなすのを云ふのである。
先づ贌園、贌田、贌山場、贌埔等は、人皆云ふ所の贌耕であるが、然る共同便所の糞便を期限及び代償を定めて其期間内に汲み取るを贌尿礜と云ひ、船筏を期限代償を定めて借り期限内使用するのを、贌船、贌竹筏なぞと云ふ。
更に不思議なのは、樓主が娼妓や藝妓を抱へるのを贌と云ひ、小間使いとして婦女子を或る期間何程と定めて雇ふのを贌査某と云ふ。
又た金鑛や炭鑛で下請けを為すをも贌と云ひ、牡蠣飼育所を借り入れるを贌蠓仔塭、 鹽田、魚塭、池沼、を借り入れるのも、寝台借用も同様で、
煉瓦工場借用を贌瓦仔磘、贌磚仔磘と云ひ、木炭炮竈を借りるのも贌と云ふ。
其他理髪職、大工、左官、桶職などの弟子を雇入れるのを贌司仔と呼び、俳優を雇入れるのも亦た贌と名付ける。
監獄軍隊等の残飯を請けたり、牛乳搾取業者が飼牛の為市内の豆腐屋から豆腐の滓を買う約をするのも、亦た石工が石山の石を搾取する契約も矢張り贌だ。
以上は北部で多く用ゆる語だが、南部では更に多く、豚守り、牛守り、の小児を雇う入るるを贌看猪、贌看牛、と云ひ、又甲が子豚数等を買ひ乙に之を預け飼養せしめ、他日肥大となり売却した時歩割を以て分配するのを贌分飼猪と云ふ。
又た辯護士の名義で出張所を開設して居るのを贌辯護士と云ひ、阿片煙膏の下請、食塩煙草の下請亦た然りだが、理髪職が一定の客人に対して一箇年何程として理髪契約をするのを贌庄と称する。
かくの如く贌の字の要所は非常に多く、今一般を窮治する便に数種を摘録したに過ぎない、而も贌の字は現行法規上如何なる性質を含むかの点は専門家に譲り、贌辯護士、贌司仔、贌査某、贌庄の如きは、蓋し内地人には珍しい慣習ではあるまいか。