【片岡巖 家系図】
さて、片岡家と森永家が台湾から船で日本に帰った日時が残念ながらまだわかりません。
母の記憶では1945年 昭和20年だそうですが、今度もっと調べてみます母の姉が知ってるかもしれません。
(1946年になってから帰ってきた人もいるそうです。)
【住所、年月日】
以前郡山の市役所で調べた片岡巖関係の戸籍謄本をみてますと、娘や息子の出生時の届出の時に住んでいた住所など色々わかってくる事が有ります。
まずは、ぼくの母 森永勲枝(のりえ)が生まれたのは、1944、8/10 台南州東石郡朴子街朴子364番地です。
3つ年上の姉は1941、1/17 台南州嘉義市西門町4丁目62番地で出生と有りますから、森永信一、薫夫妻は、嘉義市に住んでいたんですね。でも、片岡巖は1930に亡くなっていますね。
森永薫(かおる)つまり、ぼくの祖母、片岡巌の三女は、1915、9/1台南市馬兵衛街811番地で出生。
ぼくの祖父、森永信一は1908、9/29 台北廳大和蚋堡台北城内新北門街3丁目1番戸
片岡直寛の三男、片岡巖は昭和年 1930年、2/7 台南州台南市大宮(室?)町 3丁目30番地に於いて死亡と有ります。(しかし、郡山市の墓石には台北にて没すると書かれている。)
福島県出身の片岡家関係は、その他に
片岡巌の最初の妻、高萩 初瀬(はつせ)1911、9/13に3年の結婚生活の後23才の若さで台南病院で死亡と有ります。
その時片岡巖は35才ですね。僕の今とおなじどしです。
その初瀬さんとの子供は、
長女の繁(しげ)1909、2/13 新竹廳地方法院官舎に於いて出生。
長男 武(たけし)1910、6/18 台北書院街6丁目34番地に於いて出生。
残念ながらこの二人はぼくの母に聞く所によると、武は二十二才、繁は三才と、若くに亡くなっているようで、戸籍にも詳しく書かれていません。
その後、1912、4/15 同じく福島出身の池添和子(にぎこ)と再婚。
台南馬兵衛街818番地に暮らす。
二人の間には、
勇(いさお)1912、8/15~11/3
操(みさお)1914、1/5~10/8
とても短い命ですね。
他にも台湾風俗誌の奥付けには 台南市竹園1丁目6番地と著者の住所かと思われる番地が書かれています。
【片岡巖の兄弟】
長兄の準太郎(じゅんたろう)の息子たち成美(なるみ)、寛(かん?ひろし?)、謙三(けんぞう)、
巖は三男とありますが、二男は何故か戸籍に書かれていません。きっと若くして亡くなっているのでしょう。
四男の克己(かつみ)1923年、4/13 新化都善化社善化262番地に於いて死亡。
克巳の娘、麗子(れいこ)と敏子(としこ)が台中廳東堡彰化街土名東門231番地-1彰化公学校官舎にて出生とあるので、学校の教師だったかもしれないですね。(←その後克己さんが彰化の國中で準訓導として務めていた事が判明しました。2012・4・20 彰化國中に行き、当時使っていた机や教科書などを見せてもらいました。
息子 公(ただし)も台南州新化都湾裡街250番地に於いて出生とあります。)
五男の直四郎(なおしろう)も台湾で生活していたかもしれないです。