goo blog サービス終了のお知らせ 

randomnote

日記。

片岡巖関係の家系

2011年08月26日 | Weblog


【片岡巖 家系図】 
 さて、片岡家と森永家が台湾から船で日本に帰った日時が残念ながらまだわかりません。

母の記憶では1945年 昭和20年だそうですが、今度もっと調べてみます母の姉が知ってるかもしれません。
(1946年になってから帰ってきた人もいるそうです。)

【住所、年月日】
 以前郡山の市役所で調べた片岡巖関係の戸籍謄本をみてますと、娘や息子の出生時の届出の時に住んでいた住所など色々わかってくる事が有ります。


まずは、ぼくの母 森永勲枝(のりえ)が生まれたのは、1944、8/10 台南州東石郡朴子街朴子364番地です。

3つ年上の姉は1941、1/17 台南州嘉義市西門町4丁目62番地で出生と有りますから、森永信一、薫夫妻は、嘉義市に住んでいたんですね。でも、片岡巖は1930に亡くなっていますね。

 森永薫(かおる)つまり、ぼくの祖母、片岡巌の三女は、1915、9/1台南市馬兵衛街811番地で出生。

ぼくの祖父、森永信一は1908、9/29 台北廳大和蚋堡台北城内新北門街3丁目1番戸
 
 片岡直寛の三男、片岡巖は昭和年 1930年、2/7 台南州台南市大宮(室?)町 3丁目30番地に於いて死亡と有ります。(しかし、郡山市の墓石には台北にて没すると書かれている。)

 福島県出身の片岡家関係は、その他に
片岡巌の最初の妻、高萩 初瀬(はつせ)1911、9/13に3年の結婚生活の後23才の若さで台南病院で死亡と有ります。
その時片岡巖は35才ですね。僕の今とおなじどしです。

 その初瀬さんとの子供は、
長女の繁(しげ)1909、2/13 新竹廳地方法院官舎に於いて出生。
長男 武(たけし)1910、6/18 台北書院街6丁目34番地に於いて出生。

残念ながらこの二人はぼくの母に聞く所によると、武は二十二才、繁は三才と、若くに亡くなっているようで、戸籍にも詳しく書かれていません。

その後、1912、4/15 同じく福島出身の池添和子(にぎこ)と再婚。
台南馬兵衛街818番地に暮らす。
二人の間には、
勇(いさお)1912、8/15~11/3
操(みさお)1914、1/5~10/8
とても短い命ですね。

他にも台湾風俗誌の奥付けには 台南市竹園1丁目6番地と著者の住所かと思われる番地が書かれています。

【片岡巖の兄弟】
 長兄の準太郎(じゅんたろう)の息子たち成美(なるみ)、寛(かん?ひろし?)、謙三(けんぞう)、

 巖は三男とありますが、二男は何故か戸籍に書かれていません。きっと若くして亡くなっているのでしょう。

 四男の克己(かつみ)1923年、4/13 新化都善化社善化262番地に於いて死亡。
克巳の娘、麗子(れいこ)と敏子(としこ)が台中廳東堡彰化街土名東門231番地-1彰化公学校官舎にて出生とあるので、学校の教師だったかもしれないですね。(←その後克己さんが彰化の國中で準訓導として務めていた事が判明しました。2012・4・20 彰化國中に行き、当時使っていた机や教科書などを見せてもらいました。
息子 公(ただし)も台南州新化都湾裡街250番地に於いて出生とあります。)

 
 五男の直四郎(なおしろう)も台湾で生活していたかもしれないです。

片岡巌と森永信光

2011年08月22日 | Weblog
片岡巌が本を作成する際に使った資料は残念ながら、
今現在の我が家には残されてませんが、
日本には、片岡巌のお墓が有ります。片岡巌が1930に台湾で亡くなった後、
前述の福島県の郡山に墓碑を曾祖母の和子が建てました。

片岡巌の娘、ぼくの祖母の薫(かおる)は(1915~1983)
東石郡郡守、森永信光の長男、信一(のぶかず)(1908~1998)と(1940)結婚
台湾基隆港から日本に戻った時、まずは森永家の福井の実家に戻りましたが、震災もありすぐに片岡和子の実家、福島県の郡山に戻る。
森永信一は小学校の教師として生活を送る。
その時の生徒の中に俳優の西田敏行がいます!彼の芝居経験の最初はこの時の学芸会での浦島太郎の役ではないか?(と
は祖父信一談)

台南にて生まれた二女の、勲枝(のりえ)(1944~)が僕の母です。

森永信光は福井中学卒業後、茗荷谷の台湾協会の一期生、
台湾総督府、土木課、外事課を経て
東石郡、郡守として勤務する傍ら朴雅吟社を設立で、楊爾材さんらと漢詩などを詠み、楽しいひと時をすごしたようです。
また、当時長男信一の同級生だった、安藤百福を図書館司書として推薦する。

森永信光は日本に帰国してからは福井にいたが、空襲、震災があり、神戸の三男光雄のところに、晩年は長男信一がいた福島郡山に来たので母が小学六年の時に亡くなるまで一緒に住んでいた。

台湾語研究会と朴雅吟社の事はつい最近知りましたが、
森永信光と片岡巌とは生前、何かしらの繋がりがあったのでは
ないかと思います。
この事についてはどのように調べてゆけば良いかこれから考えます。
 


祖父母の生きていた頃にもっと話しを聞いておけば良かったと残念に思います。
しかしながら、片岡巌の本のように後世に残された本もあるので誰かのためになればと感じます。

片岡巌の生涯 墓標より

2011年08月07日 | 台湾ー郡山
明治九年西暦1876年一月二十六日、
白河藩の藩士の三男として生まれる。
父と共に棚倉開墾事業に従事。
陸軍仙台第四歩兵隊に入隊
台湾の地に渡る。
憲兵として台南に
のちに総督府法院の通訳
退職後、台湾みやげ話と台湾風俗誌を出版
晩年は目を患い、口述にて
台湾人向けの法廷訴訟簡略書式を作成するを試みるも、
志半ば享年五十五才
昭和五年、西暦1930年、二月六日台北にて没する。