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日記。

星名宏修「植民『地を読む贋』日本人たちの肖像」 (法政大学出版社,2016)を読みました。

2017年08月09日 | 台湾みやげ話
                                                           台湾みやげ話が引用されていた最近の星名宏修の著作を読んで、とても良い本だと思ったのでご紹介します。



要旨を引用しますが星名先生の著作物なので概略のみ


『1925年11月、片岡巌は『台湾みやげ話』を自費出版した。総督府法院の元通訳で、台湾研究の古典として名高い『台湾風俗誌』の著者が一般向けに執筆した同書は、全部で51の設問(例えば「台湾人は如何なる神仏を祭りますか」や「台湾人の音楽は何なものですか」に答える形式をとっている。回答には「台湾風俗誌に由る」と知るされているものもあり、専門書である後者からも題材がとられ易しく解説されている。
 だがこの二冊の書物には難易度だけではない大きな違いがある。1184ページにも及ぶ大著『台湾風俗誌』ではほとんど触れられていないが、わずか102ページの『台湾みやげ話』の冒頭から登場する話題。それは「生蕃」に対する露骨な好奇心に満ちた話題であった。そもそも同書は「台湾に永く居人で、台湾の事を余り知らぬ為、台湾から帰て、内地の人に台湾は如何所ですか、と聞かれて台湾は暑い暑いところでそれで生蕃が居りまして酷い所ですと云ふ位外話すことが出来ない人が沢山」(「自序」)いることに鑑み、台湾の事情を平易に紹介することを目的としていた。台湾に住みながら台湾のことをあまり知らない、にもかかわらず、「みやげ話」として「内地の人」に期待されている話題として「生蕃」に関するそれが選ばれるのである。

では冒頭の問答を見てみよう。

◎台湾に生蕃(せいばん)が居ると云うが如何ですか

此の生蕃とは内地で聞きますと台湾には至る所生蕃が居る様に云うて居りますがそう云う訳ではありません。
生蕃と云うのは、ズーッと昔台湾に居った土着の人で人種はマレー人種で初めは台湾の平地に居った野蛮人でありますが、対岸の支那からどしどし支那人が移住して来て蛮人の生業たる農業や漁業等を殆ど壓制(あっせい)的に取り上げて、年々次第次第に山辺に押し込み、今では全く深山の山麓、山腹、山奥に外居らぬ事になって居ります。其の風俗習慣は全く原始的で能く南洋の蕃人の繪を見る事がありますが彼れと少しも異なりませぬ、まあ我が内地の北海道の「アイヌ」族のようなものです。言葉などは全く支那人、外国人または南洋諸島の土人などとは違って居ります。その語系は日本語、朝鮮語の様に棒読みでありまして外国語や支那語の様に翻訳をする時、かえり点を付けて解釈することは要りませぬ。衣物は風呂敷の様なものを一枚片方の肩から脇き下に掛け腰には一寸した布を巻き付けて置くばかりで随分原始的な風であります。併し内地では生蕃が台湾到る所に居る様に考えて居る人がある様ですがそれは間違いで、前に申した様に深山(しんざん)に居るので殆ど原始的の様な有様です。併し今は村落に接した所の蕃人は大いに進化して稀に中学卒業した者も医学校を卒業したものもありますが、之に極僅かのものであります。


第二の問いと、それへの回答も引用しよう。

◎生蕃(せいばん)は人の首をとるというが本当ですか
それは真実です。しかし蕃人でも山麓や又人里近い所又は宗教の為教化された所の蕃人は首はとりません。
まだ教化を受けない山奥の者が、多く首をとった者が勇者であると友に誇る為、又は祖先を祭る時、又は春秋の穀祭り等に神前に供える為に能く首狩りに出ます、此の首は老若男女の区別はありませぬ何でも人の首であれば選ばずにとるので、此の風、深山の兇蕃に残って居ります。


 台湾とは「暑い暑い所でそれで生蕃が居」る所。そして「深山の兇蕃」は「何でも人の首であれば選ばず馘る」、「元始的」な存在。こうした台湾のイメージは、この本に限らず繰り返し語られてきた典型的なものだった。 



 ところで『台湾みやげ話』が出版された1925年とは、後に紹介するように総督府による徹底的な軍事作戦と「理蕃道路」の建設によって、原住民、特にブヌン族の抵抗を押さえ込むことに「成功」しつつあった時期にあたる。植民地期の『台湾鉄道名所案内』を分析した曽山毅によると、旅行案内書に原住民関連の項目が登場するのは1916年版からであり、23年から24年版にかけてそれが急増するという。「山岳地域への安全なアクセス路が確保され」ることで、「蕃地」とそこに住む「蕃人」がスリリングな「観光資源」として浮上するのは、『台湾みやげ話』の出版と同時期のことなのである(略)』(星名宏修『植民地を読む 偽日本人たちの肖像』第6章 「兇晩」と高砂族の「あいだ」河野慶彦「扁柏の蔭」を読む2016法政大学出版局)


長い引用となったがこの後に著者は河野慶彦の文芸作品、「扁柏の蔭」を読み解いていく。
理蕃道路建設中に原住民に殺害された日本人警察官の息子の主人公が1943年夏に新高山を踏破し父親の死の現場を訪れる物語

著者の河野の紹介をしつつ作品に描かれた「兇蕃」が悔い改め、いまや志願兵や高砂義勇隊として戦争に参加していく姿と作品に書かれない理蕃政策の暴力の歴史を紐解きながら紹介していく。








大江志乃夫の「植民地戦争と総督府の成立5-6頁」から
1895年の台湾領有から1915年までの台湾住民に対する大規模な軍事行動を、日清戦争とは別の「台湾植民地戦争」と名づけ、次のように三つの時期に区分した。
第一期(1895-96年3月):台湾民主国の崩壊から全島の軍事制圧まで。
第二期(1896年4月-1902年):日本軍占領下で漢民族のゲリラ的な抵抗が続けられた時期。
第三期(1903年-15年):原住民に対する軍事的制圧を主な課題とした時期。第五代総督佐久間左馬太の任期(1906年-15年)とほぼ重なる。





台湾みやげ話

2011年12月30日 | 台湾みやげ話
「台湾みやげ話」は「台湾風俗誌」の後に片岡巌の出した本、今回、楊先生は約束していた通りに台湾からわざわざ持って来て頂いた。コピーして綺麗な装丁で表紙も付けて頂いた。子孫としてこれほどありがたい事は無い。
楊先生ありがとうございます!


早速、読んで見た所、「台湾風俗誌」でよくわからなかった言葉などが簡単に書かれていて、(漢字に全てふりがながふってある)読者の対象が研究者だけでなくごく一般的な内地の人に向けて居るのが分かります。
つまり、台湾風俗誌の「解説書」のようなのでまずは、台湾みやげ話を載せて行きたいと思います。
ただ、簡単にわかりやすい様に口語体で書かれている分、(実家の墓碑に後年失明するとありますので、台湾みやげ話も、もしかすると口述筆記の可能性があります)
なんだか今の言葉で云うと「差別的」と思う箇所が多々あります。成る可く日本と台湾との差異を際立たせている様に感じる箇所です。まるで今の週刊誌に載っているインタビュー記事のようです。(あらためて文化人とは、文化とは、を問い直しつつ)時代背景を捉えて片岡巌はどの様な気持ちで云ったのかを、考察してゆく必要があるでしょう。

【台湾みやげ話のポイント】

1 なぜ「台湾風俗誌」の後にこの本を出したか ?
(みやげ話は大正14年初版、風俗誌は大正10年出版)
「台湾風俗誌」は出版までにおそらく準備期間が長くあったと思われるが、「台湾みやげ話」は出版までに準備期間はほとんどなかったように思われる。
(自費出版)

2 日本と台湾の差異を際立たせている箇所の考察

(1)当時、片岡巌はどの様な社会秩序背景にいたのか?
(台南地方法院通訳退職後、マラリヤにより失明しようとしている期間。昭和5年没)
台湾の教育の項(44)にもある様に台湾人が日本語を巧みに話せる時代になっていた。
日台間、台湾内の交通が発達したころ。(膨湖島にも自由に行くことが出来た程)

(2)出版当時の台湾の状況の複雑さを、(台湾に行った事があるが、台湾の状況をわからぬまま帰国した日本
人の為にみやげ話用として)簡潔に述べた。


3 相手(日本人)の期待に応えて、出版当時の望ましいと思われる多少の誇張や憶測などが付加されているはず、片岡巌はデータや経験の上で自分の考えを述べているように思われるが整合性は当時の他の記録と比べてあるのか。

以上不明な点も多いですが、それでも当時をご考察頂きながらお読みいただければと思います。


台灣みやげ話 片岡巌 50(後半)

2011年12月29日 | 台湾みやげ話
仙草は山間湿地に野生に産する丈2尺余の草でありますが之を根元より刈り取り干して釜にいれて草の無くなる迄煮る時は丁度寒天と同じく黒茶色のものとなります之を凝結(かたまら)して寒天を切る様に切って砂糖を掛け夏の食物として売って歩きます、まあ内地の石花菜(ところてん)と同じ様なものです。

 それから内地で一年生の植物、即ち、茄子「唐辛子」蔓豆類で2、3年乃至数年枯れずに居るものがあります、それですから「トウガラシ」の木又は茄子の木でパイプ等が出来ます、南部の蕃界には「トウガラシ」の木が野生にあります恒春付近の山には上向唐辛子が沢山あります、唐辛子の太い木は漁師が「イカ」を釣る針を作る為態々(わざわざ)蕃界に採取に行く人があります「トウガラシ」の事を南蛮と云うたのもこれらの事からだろうと思います。

礰珊瑚樹(りょくさんごじゅ) 之は海にあるのではなく台灣南部の田舎の畑の畦畔(けいはん)や家の周囲に野生して自然の籬(かき)を為して居ります此の樹は丈1丈内外で幹と枝のみで葉がありませぬそれで礰珊瑚樹と呼んで居るのであります色は全部真っ青で奇妙な樹であります此の枝を折ると白い液が出ますが人は毒だと云うて恐れて居ります。

仙人掌(しゃぼてん)は全島至る所にありまして8、9尺位のは珍しくはありませぬ之は内地と同じく種々ありますが只偉大だと云う点が珍しいのです。

 蘆(よし)と茅(かや)、蘆(あし)も茅(かや)も一年ごとには枯れませぬ6年7年も生きて居りますからだんだん太くなりその節から枝が出て居ります、長さ1丈前後で太さは徑1寸位のは珍しくありませぬ此れ等は多く山地に接した所にあります一見竹の様ですそれで本当人は盧竹(ろちく)と言って居ります。

 又蕃界に行けば檜も有り松も山桐もありますが、杉は無い様です、松も五葉三葉(ごようさんよう)の松が沢山あります、又蕃躑躅(つつじ)なども紅も紫も山にありますが栗などは無い様です。

台灣みやげ話 (完)

大正14年11月15日印刷
大正14年11月18日発行
大正15年5月1日再版
昭和2年4月1日再版

著者兼発行人  台南市大宮町3丁目30番地
片岡巌

発行所 台南市大宮町3丁目30番地
 片岡巌

印刷人 台南市本町3丁目234番地
 寺川 喜三郎 

印刷所 台南市本町3丁目234番地
 台南新報社印刷部 

_________________________________________________________
元法院通訳官片岡巌君著
「台灣風俗誌 」菊版総クロース
紙数千二百頁
定価 金5圓
 
下村台灣総務長官に序して「台灣風俗誌は正しく台灣の社会の側面史である」と喝破せり。凡そ台灣人の風俗習慣に関すること本書之を掲げざるは無く、官は之を持って施政の資となし、民は或いは之を民族研究の図書館と為し、或いは之を商工業参考の博物館と為すを得ん千二百頁の大著、宛然たる台灣風俗の百科辞書なり

発行所 台北市栄町 
台灣日々新報社 
電話番号125番、126番

台灣みやげ話 片岡巌 51

2011年12月28日 | 台湾みやげ話
51◎台湾に珍しい植物はありませぬか
(前半)
台灣の珍しい植物は専門家に云わせましたら随分ありませうが素人の私は只大概の處を申し上げます  前に申し上げた他に左の植物があります。

 檳榔樹、之は南洋植物で皆さん南洋の寫眞(しゃしん)などご覧になれば必ず傘を開いた様な幹の真っ直ぐで長く その先に一箇所の周りに「シュロ」の葉の様なのが傘の様に開いて居る木がありませうそれが檳榔です、その葉のでた根本に鈴の様に生って居るのが檳榔子(びんろうじ;實のこと)で台灣南部の人は之を噛むんで歯を黒赤く染めて居ります之は歯が大層丈夫になるともうして居ります。

 椰子(やし)椰子も南洋より移植したのがありますが未だ餘り沢山にはありませぬ。

「サイゼルヘンプ」南洋移植である台灣南部に盛んに栽培して居りますこれは例の「マニラ」ロープの原料になるのである此の繊維で 筅子(ハタキ)拂子(ホッス)等を拵らえて売って居るのが盛んに売れます近来内地にも移入して居ります。

 林投(りんとう)は台灣全島至る處の平地に無尽蔵に野生であります「シュロ」科に属する植物で、その葉には棘があります此葉の繊維を漂白して純白として之にて夏帽子を製造する会社があります之が即ち林投帽であります。
 蛇木(しゃぼく)之は山中にある木でちょっと我が内地の「鬼ゼンマイ」の大きい様なもので、丈は1丈5、6尺に及ぶものもあります、その形は傘を開いた様に一箇所から四方に開いて居ります葉の形は「鬼ゼンマイ」の開いたものと似て居ります年々葉の落ちた跡が蛇の鱗の様になって居りますから蛇木(しゃぼく)と云うのですが之を花生け又は筆立てにすればその鱗形が大層見事で賞美せられます。
 黒柿、黒柿は台灣の恒春地方の山中の野生にあります、昔は随分ありましたそうですが今は乱伐又は山焼け等の結果若木ばかり至る處にあります、黒柿の實は小さな鶏卵大で白毛が一面に生えて居りますが形は柿であります、台灣人は之を毛柿(もうきー)と申しますこれで造る種々の製作品は内地の黒柿とは異はありませぬ。
菊花木、之は一種の蔓科植物で蕃界至る所にあります、太い藤の蔓の様なもので太いのは1尺5寸周り位のものがあります之を横に切れば菊の花の様な模様があります、それで菊花木と云うのでありますが之で茶托(ちゃたく)、煙草いれ、楊枝入れ、その他種々の器物を作製しますが随分見事なものであります。
 藤蔓、之も蕃界に至る所に野生でありますその太いのは「コップ」大のがあります、籐椅子、籐籠、行李、バスケット、その他種々の器物に作製せられます。
 右の他、梓(あずさ)、相思樹(そうしじゅ)、桑の大木、石楠花(しゃくなげ)及び萬兩のステッキのなる様な大きいものは蕃界至る所にあります。竹は最も有名なもので嘉義林𣏌埔等の山々は全山各種の竹にて埋(うず)まって
居ります此の付近に居る人民は竹の副産物にて生活して居ります竹で内地に無い竹は棘竹で丈は4、5

丈で太さは2尺周りのがあります、そしてその枝には棘が生えて居ります防御の為城壁がわりに最も適して居ります田舎でも家の周りに植えて自然の障壁を作って居ります之を人民は竹園と云うて居ります草類は内地にあるものは大概あります。
又愛玉子(オーギョーチー)
と云うものがあります之は蕃界にある植物の實の子(たね)でありますが一見粟粒の様なものです之を袋に入れて清水の中で揉むとその實から茶色の粘液が出ますそれが為清水は茶色となりますその茶色の水が30分位すると凝固(ぎょうこ;かたまり)ます丁度内地の石花菜(ところてん)又は寒天の様になりますこれに砂糖をかけて食します。夏の食物として台灣人は売って歩きます。
(後半につづく)

台灣みやげ話 片岡巌 50

2011年12月26日 | 台湾みやげ話
50◎台湾の果物や野菜は如何ですか

果物や野菜は内地にあるものは大概ありますが果物は只寒国(かんこく;韓国?)にある林檎や栗、梨、
胡頺子(ぐみ)胡桃(くるみ)「イチヂク」「マルメロ」、木通(あけび)、蒟蒻(こんにゃく)、蕗(ふき)、等はありませぬ梅、桃、李桃(すもも)はありますが余り上等ではありませぬ柿は渋柿はありますが甘柿は少ないです、茄子、かぼちゃ、芋、西瓜、瓜等は秋より冬迄が最も多く出来ます併し甜瓜(あまうり)はありませぬ、果物の内で最も柑橘類は本島の気候に適して味も美味であります、全島至る處栽培に適しますが台中の員林(いんりん)と新竹の新埔は全島第一の産地であります栽培町歩は
2300町歩で一カ年の収量は1499萬9559斤で内地に移出するものは一カ年183萬3500斤此の価格が33萬5135圓と云う大層な額であります年々聖上陛下に献上する文旦と云う柚も台南の麻豆(まとう)と云う處から出来ます。
 又内地に少ない果物としては芭蕉の實即ち「ばなな」ですが之は全島至る處に栽培せられて居ります其の植え付け町歩数は8940町歩で一カ年1億3139萬9701斤と云う収量であります。
又、鳳梨(おんらい)「パイナップル」も又本島の気候に適し一カ年の収量は905萬3907個でその価は89萬圓以上であります之は年々増産するばかりです。
又、龍眼肉と云うものがあります多く南部の山地又は畑の畦畔(けいはん)等にある樹になるのですが樹数51萬本余で一カ年の収量961萬餘斤ぐらいですが干し龍眼又は砂糖漬けとして支那に輸出します一カ年に13萬5000圓餘であります。(以上台湾事情に由る)
その他釈迦頭(しゃかとう)と云う奈良の大仏の頭の様に粒々のある握り拳ぐらいの果物があります之は台灣の南部に多いのですが味は「あけび」の様です。
又、楊桃(ようとう)と云う内地の「ほうずき」形をした果物があります、之を横に切れば丁度兵士の帽章の様な星章形となるちょっと珍しい果物でありますその味は甘酸っぱいものであります。
  又、様子「マンボウ」と云うものがあります、これ又熱帯地の果物で南洋諸島にあります果物では台灣は南部方面に沢山あります、その形は楕円形で鶩(あひる)の卵大で始めは青色ですが熟すれば赤黄色となります、九月ごろに出来ますが甘味に僅か酸味を帯びて居ります先ず味に於いて果物の王だと言われて居ります。
又、抜仔(ばっし)と云う果物があります之は内地の石榴(ざくろ)の様な風で大きいので梅の實位でその味は薄甘味であります併し石榴の様に烈れはしませぬ。
又、木瓜(もくくわ)と云うものがあります木瓜は南部にありますが全島出来ぬと云う訳ではありませぬが主に南部が適して居ります、木と草の間の植物でその区別は専門家に譲りましてまずその木の高さは6尺より1丈2、3尺位ですが5、6尺より實が生りますその葉は丁度傘を広げた様に一箇所より四方にかの天狗の羽団扇(はうちわ)と云う様なものが周りに出でてその茎の下に千成瓢箪を吊るした様に生りますその形は小さいくびれの無い瓢箪の様なものです内地の甜瓜(あまうり)のようなものであります。
  尚、珍しい果物には𤪼霧(れんぶ)と云うものがありますこれも熱帯植物で南部より他はありませぬ例え之を移植しても北部では結実しませぬ此の果物の形は(あさがお)大でその味は内地の林檎の味の様で極軽い味でありますその色は白赤、浅紅、白青色t色々ありますが之れ等は多く生食用にするのであります。
又、牛心梨(ぎゅうしんり)と云うものがあります牛の心臓の形をして居ると云う所から名付けたもので大きさ及び形は蓮の蕾の少し大きい様なものでその色は茶色をして居ります味は甘だるいものです之は台灣の南部にありますが極めて稀な果物であります。
又、波羅蜜と云うものがあります之も南部の旗山郡(きざんぐん)にありますが極めて稀な果物であります形色は牛心梨の様ですが大きさは人の頭ぐらいで味も牛心梨に似て居りまして矢張り甘だるいものであります。


台湾みやげ話 片岡巌49

2011年12月25日 | 台湾みやげ話
49◎台湾の主な産物は何ですか
 そうですな、砂糖、鹽(しお)、米、茶、樟脳等でしょうが其の他、甘藷(さつまいも)、落花生、苧麻(ちょま)、麻、藍、煙草等もあります。
砂糖は至る處に製糖会社があって農民に其の原料たる甘蔗栽培を奨励して居りますから畑は殆んど甘蔗で埋められて居ります、製糖会社の数は14会社ありまして一カ年の製糖高は5億7365萬0922斤と云う大変に沢山な製品をだして居ります此れらは多くは皆な支那及び内地に送るのであります。
 鹽は矢張り製塩会社がありまして西部海岸の遠浅の海埔(かいほ)を利用して荒き潮水の来らざる處で水田の如き形に区画を為し其の田面全部に磁器の破片を敷き詰め粘土にて其継ぎ目を塞ぎ水の漏らざる様に作り 其の上に塩分濃き䶢水(かんすい)を注ぎ入れて、天日にて干曝(かわかし)さしむる時は8時間くらいで結晶して鹽となるものでありまして一カ年の産額2億3000萬斤位であります西海岸は遠浅でありますからまだまだ有望な所が沢山あります。
 
米は前にお話ししたとおりですが今日開けて居る田畑は全部で 約77萬3800町歩内田は37萬6300町位です、此の収量は545萬石で此の価格は857萬圓であります。
 
 茶は多く北部に産しますが其の作付け町歩は約46550町歩で一カ年の収量は2860萬7878斤価格800萬圓であります。

 樟脳も今は製脳会社が採取しておりますが、本島至る處の蕃界にある樟脳の脂(やに)を以て製造するのであります年産529斤と云うことであります。

 甘薯(さつまいも)も全島植え付け町歩役11萬850町歩で其収量は15億8299萬1324斤と云うのであります。

    落花生も其作付け面積は24490町歩でありまして収量は36萬6661石であります、此れ等は食糧及び製油の原料とするのであります。
 
苧麻(ちょま)は作付け町歩1500町歩位ですが其収量は一カ年169萬3672斤であります。

  藍は多くは泥藍に製すのですが一カ年306萬3545斤位とします。

  煙草は植え付け町歩1219歩一カ年の収量283萬8859斤であります。(以上、台湾事情に由る)


1町歩(ちょうぶ)=約1ヘクタール
1斤 =約600グラム

台湾みやげ話 片岡巌 48

2011年12月23日 | 台湾みやげ話
48◎台湾は米が三度収れると云うがそうですか

三度は収(と)れませぬが二度は収れます今申しました様に夏が長く冬と云うものが殆んどない位ですから1、2月に植えたら6、7月に刈り取り直ぐに傍らに苗代を拵えておきまして第一回の収穫が終わると直ぐ耕して植え付けをしますそれから其年の12月か来年の1月頃には刈り取ります斯様にして年々農業をやって居ります併し山手の水の冷たい處又は雨水でなければ出来ない田は雨水を利用するので年に一回より他に収れませぬ。
  斯様な訳ですから畑の作物も水さえ灌(かけ)れば、沢山肥料を使わずとも年に数回収れます、牛蒡(ごぼう)人参の如きは7、8月かかりますが菜の如きは蒔いてから三週間位で採集が出来ますから年には何回となく収れます併し内地の入梅時とも云うべき台灣
の雨期及び二百十日とも云うべき暴風雨期には野菜は荒らされ又は雨の為に腐敗しますから収穫がありません、併し此れに堪える丈けの設備をしたら温度は適して居るのですから出来ぬと云うことはありませぬ。

台湾みやげ話 片岡巌 47

2011年12月23日 | 台湾みやげ話
47◎台湾の気候は如何ですか

台灣はご存知の通り台灣の中央より少し南の嘉義郡水上庄(みづかみしょう)に汽車に乗って居ても見える所に北回帰線がありまして熱帯と亜熱帯とに跨って居る位ですから最高気温が継続する間が長いのであります内地でも東北辺では夏の土用の中三日間は最高温度でありますが、つまり彼の最高温度が長く続くと云うのであります併し北部の雨の多い所は1、2度低下して居ります、どうしても南部は温度が常に高いのであります、5、6月から9月頃迄は室内でも日中は90度(℉)内(約32℃)ぐらいは珍しくありませぬ、併し夜分に至れば急に涼しくなり日中の暑さは全部忘れて仕舞い大層凌ぎ良くなります之が為住み慣れれば内地より却って宜しい様であります。

台湾みやげ話 片岡巌 46

2011年12月23日 | 台湾みやげ話
46◎台湾の衛生状態は如何ですか

領臺当時は各市街村落に至る處(ところ)不潔でありましたのと衛生と云う方に無関心の本島人が多くありました為彼の有名な麻喇利亞(マラリア)、ペスト、台灣赤痢、腸窒抹斯(腸チフス)、虎列拉(コレラ)、其の他の伝染病及び風土病が盛んでありましたが近来は各地共(かくちとも)市区(しく)の改正を為し清潔となりたるのみならず医学の進歩と共に衛生の設備も行き渡りたる為め衛生状態は良好であります。

台湾みやげ話 片岡巌 45

2011年12月22日 | 台湾みやげ話
45◎台湾は交通や通信が便利ですか

それは大層便利であります、先ず内地から台灣に行くには神戸、門司、長崎等何所からでも台灣の基隆へ行く航路がありまして又3、4日に一回位の定期便が往復して居ります又今年(大正う14年)より高雄、横浜間の直航便も出来益々便利となりました又支那に行くにも基隆、淡水、高雄何れの港からでも常に船が往復して居ります、海路を取りて基隆から東海岸を経て台灣を周はるには先ず蘇澳(すおう)、花蓮港。台東、大板埒(だいはんらつ)車城(しゃじょう)、高雄、安平(あんぴん)、淡水、基隆(きいるん)
の順序でありますが西海岸を経て台灣を周はるにも此れと反対に基隆、淡水、安平と常に沿岸船が往復して居ります又膨湖島に行くにも右の港の何れからでも自由に往復が出来ます、
陸上は汽車が北の基隆より南の渓州駅迄278哩三(マイルサン)の縦貫鉄道がありますから朝基隆を出発すると夕方には渓州に着きます、尚ほ官線(幹線?)の支線としては八堵(はっと)宜蘭、蘇澳間、及び臺北、北投、淡水間があります又縦貫線の一部複線とも云うべき竹南(ちくなん)、追分(おいわけ)間の海岸線があります、又縦貫線を起点として各小都会、及び村落に通ずる製糖会社の私設鉄道や軽便鉄道は至る所にありますのみならず、人力車、自動車もありますし荷物の運搬なども右の機関に依るのみならず馬車牛車、荷車担送人夫等どこにもありますから大層便利であります。
 通信も台灣、長崎間の海底通信がありますから内地を朝発信したら午前12時には台灣に着いて居ります、無線電信所も各所にありますから海上や内地及び各国の出来事も直ちに知ることが出来ます、陸上の通信は至る所郵便電信局があり又電話もありますから如何なる偏僻(へんぴ)な山中に住む人も大層便利であります又要所要所には燈臺(灯台)や測候所(そくこうじょ)等を設けて船舶や其の他の交通の便に備え都会は勿論村落に至る迄電燈が行き渡って居るので少しも不便を感ずる様なことがありません又飛行機は南部の屏東と云う所にありますが、此れは国防と云うよりは蕃人防御に用いて居るので郵便飛行等はまだまだのことでありませう。