台湾みやげ話が引用されていた最近の星名宏修の著作を読んで、とても良い本だと思ったのでご紹介します。
要旨を引用しますが星名先生の著作物なので概略のみ
『1925年11月、片岡巌は『台湾みやげ話』を自費出版した。総督府法院の元通訳で、台湾研究の古典として名高い『台湾風俗誌』の著者が一般向けに執筆した同書は、全部で51の設問(例えば「台湾人は如何なる神仏を祭りますか」や「台湾人の音楽は何なものですか」に答える形式をとっている。回答には「台湾風俗誌に由る」と知るされているものもあり、専門書である後者からも題材がとられ易しく解説されている。
だがこの二冊の書物には難易度だけではない大きな違いがある。1184ページにも及ぶ大著『台湾風俗誌』ではほとんど触れられていないが、わずか102ページの『台湾みやげ話』の冒頭から登場する話題。それは「生蕃」に対する露骨な好奇心に満ちた話題であった。そもそも同書は「台湾に永く居人で、台湾の事を余り知らぬ為、台湾から帰て、内地の人に台湾は如何所ですか、と聞かれて台湾は暑い暑いところでそれで生蕃が居りまして酷い所ですと云ふ位外話すことが出来ない人が沢山」(「自序」)いることに鑑み、台湾の事情を平易に紹介することを目的としていた。台湾に住みながら台湾のことをあまり知らない、にもかかわらず、「みやげ話」として「内地の人」に期待されている話題として「生蕃」に関するそれが選ばれるのである。
では冒頭の問答を見てみよう。
◎台湾に生蕃(せいばん)が居ると云うが如何ですか
此の生蕃とは内地で聞きますと台湾には至る所生蕃が居る様に云うて居りますがそう云う訳ではありません。
生蕃と云うのは、ズーッと昔台湾に居った土着の人で人種はマレー人種で初めは台湾の平地に居った野蛮人でありますが、対岸の支那からどしどし支那人が移住して来て蛮人の生業たる農業や漁業等を殆ど壓制(あっせい)的に取り上げて、年々次第次第に山辺に押し込み、今では全く深山の山麓、山腹、山奥に外居らぬ事になって居ります。其の風俗習慣は全く原始的で能く南洋の蕃人の繪を見る事がありますが彼れと少しも異なりませぬ、まあ我が内地の北海道の「アイヌ」族のようなものです。言葉などは全く支那人、外国人または南洋諸島の土人などとは違って居ります。その語系は日本語、朝鮮語の様に棒読みでありまして外国語や支那語の様に翻訳をする時、かえり点を付けて解釈することは要りませぬ。衣物は風呂敷の様なものを一枚片方の肩から脇き下に掛け腰には一寸した布を巻き付けて置くばかりで随分原始的な風であります。併し内地では生蕃が台湾到る所に居る様に考えて居る人がある様ですがそれは間違いで、前に申した様に深山(しんざん)に居るので殆ど原始的の様な有様です。併し今は村落に接した所の蕃人は大いに進化して稀に中学卒業した者も医学校を卒業したものもありますが、之に極僅かのものであります。
第二の問いと、それへの回答も引用しよう。
◎生蕃(せいばん)は人の首をとるというが本当ですか
それは真実です。しかし蕃人でも山麓や又人里近い所又は宗教の為教化された所の蕃人は首はとりません。
まだ教化を受けない山奥の者が、多く首をとった者が勇者であると友に誇る為、又は祖先を祭る時、又は春秋の穀祭り等に神前に供える為に能く首狩りに出ます、此の首は老若男女の区別はありませぬ何でも人の首であれば選ばずにとるので、此の風、深山の兇蕃に残って居ります。
台湾とは「暑い暑い所でそれで生蕃が居」る所。そして「深山の兇蕃」は「何でも人の首であれば選ばず馘る」、「元始的」な存在。こうした台湾のイメージは、この本に限らず繰り返し語られてきた典型的なものだった。
ところで『台湾みやげ話』が出版された1925年とは、後に紹介するように総督府による徹底的な軍事作戦と「理蕃道路」の建設によって、原住民、特にブヌン族の抵抗を押さえ込むことに「成功」しつつあった時期にあたる。植民地期の『台湾鉄道名所案内』を分析した曽山毅によると、旅行案内書に原住民関連の項目が登場するのは1916年版からであり、23年から24年版にかけてそれが急増するという。「山岳地域への安全なアクセス路が確保され」ることで、「蕃地」とそこに住む「蕃人」がスリリングな「観光資源」として浮上するのは、『台湾みやげ話』の出版と同時期のことなのである(略)』(星名宏修『植民地を読む 偽日本人たちの肖像』第6章 「兇晩」と高砂族の「あいだ」河野慶彦「扁柏の蔭」を読む2016法政大学出版局)
長い引用となったがこの後に著者は河野慶彦の文芸作品、「扁柏の蔭」を読み解いていく。
理蕃道路建設中に原住民に殺害された日本人警察官の息子の主人公が1943年夏に新高山を踏破し父親の死の現場を訪れる物語
著者の河野の紹介をしつつ作品に描かれた「兇蕃」が悔い改め、いまや志願兵や高砂義勇隊として戦争に参加していく姿と作品に書かれない理蕃政策の暴力の歴史を紐解きながら紹介していく。
註
大江志乃夫の「植民地戦争と総督府の成立5-6頁」から
1895年の台湾領有から1915年までの台湾住民に対する大規模な軍事行動を、日清戦争とは別の「台湾植民地戦争」と名づけ、次のように三つの時期に区分した。
第一期(1895-96年3月):台湾民主国の崩壊から全島の軍事制圧まで。
第二期(1896年4月-1902年):日本軍占領下で漢民族のゲリラ的な抵抗が続けられた時期。
第三期(1903年-15年):原住民に対する軍事的制圧を主な課題とした時期。第五代総督佐久間左馬太の任期(1906年-15年)とほぼ重なる。
要旨を引用しますが星名先生の著作物なので概略のみ
『1925年11月、片岡巌は『台湾みやげ話』を自費出版した。総督府法院の元通訳で、台湾研究の古典として名高い『台湾風俗誌』の著者が一般向けに執筆した同書は、全部で51の設問(例えば「台湾人は如何なる神仏を祭りますか」や「台湾人の音楽は何なものですか」に答える形式をとっている。回答には「台湾風俗誌に由る」と知るされているものもあり、専門書である後者からも題材がとられ易しく解説されている。
だがこの二冊の書物には難易度だけではない大きな違いがある。1184ページにも及ぶ大著『台湾風俗誌』ではほとんど触れられていないが、わずか102ページの『台湾みやげ話』の冒頭から登場する話題。それは「生蕃」に対する露骨な好奇心に満ちた話題であった。そもそも同書は「台湾に永く居人で、台湾の事を余り知らぬ為、台湾から帰て、内地の人に台湾は如何所ですか、と聞かれて台湾は暑い暑いところでそれで生蕃が居りまして酷い所ですと云ふ位外話すことが出来ない人が沢山」(「自序」)いることに鑑み、台湾の事情を平易に紹介することを目的としていた。台湾に住みながら台湾のことをあまり知らない、にもかかわらず、「みやげ話」として「内地の人」に期待されている話題として「生蕃」に関するそれが選ばれるのである。
では冒頭の問答を見てみよう。
◎台湾に生蕃(せいばん)が居ると云うが如何ですか
此の生蕃とは内地で聞きますと台湾には至る所生蕃が居る様に云うて居りますがそう云う訳ではありません。
生蕃と云うのは、ズーッと昔台湾に居った土着の人で人種はマレー人種で初めは台湾の平地に居った野蛮人でありますが、対岸の支那からどしどし支那人が移住して来て蛮人の生業たる農業や漁業等を殆ど壓制(あっせい)的に取り上げて、年々次第次第に山辺に押し込み、今では全く深山の山麓、山腹、山奥に外居らぬ事になって居ります。其の風俗習慣は全く原始的で能く南洋の蕃人の繪を見る事がありますが彼れと少しも異なりませぬ、まあ我が内地の北海道の「アイヌ」族のようなものです。言葉などは全く支那人、外国人または南洋諸島の土人などとは違って居ります。その語系は日本語、朝鮮語の様に棒読みでありまして外国語や支那語の様に翻訳をする時、かえり点を付けて解釈することは要りませぬ。衣物は風呂敷の様なものを一枚片方の肩から脇き下に掛け腰には一寸した布を巻き付けて置くばかりで随分原始的な風であります。併し内地では生蕃が台湾到る所に居る様に考えて居る人がある様ですがそれは間違いで、前に申した様に深山(しんざん)に居るので殆ど原始的の様な有様です。併し今は村落に接した所の蕃人は大いに進化して稀に中学卒業した者も医学校を卒業したものもありますが、之に極僅かのものであります。
第二の問いと、それへの回答も引用しよう。
◎生蕃(せいばん)は人の首をとるというが本当ですか
それは真実です。しかし蕃人でも山麓や又人里近い所又は宗教の為教化された所の蕃人は首はとりません。
まだ教化を受けない山奥の者が、多く首をとった者が勇者であると友に誇る為、又は祖先を祭る時、又は春秋の穀祭り等に神前に供える為に能く首狩りに出ます、此の首は老若男女の区別はありませぬ何でも人の首であれば選ばずにとるので、此の風、深山の兇蕃に残って居ります。
台湾とは「暑い暑い所でそれで生蕃が居」る所。そして「深山の兇蕃」は「何でも人の首であれば選ばず馘る」、「元始的」な存在。こうした台湾のイメージは、この本に限らず繰り返し語られてきた典型的なものだった。
ところで『台湾みやげ話』が出版された1925年とは、後に紹介するように総督府による徹底的な軍事作戦と「理蕃道路」の建設によって、原住民、特にブヌン族の抵抗を押さえ込むことに「成功」しつつあった時期にあたる。植民地期の『台湾鉄道名所案内』を分析した曽山毅によると、旅行案内書に原住民関連の項目が登場するのは1916年版からであり、23年から24年版にかけてそれが急増するという。「山岳地域への安全なアクセス路が確保され」ることで、「蕃地」とそこに住む「蕃人」がスリリングな「観光資源」として浮上するのは、『台湾みやげ話』の出版と同時期のことなのである(略)』(星名宏修『植民地を読む 偽日本人たちの肖像』第6章 「兇晩」と高砂族の「あいだ」河野慶彦「扁柏の蔭」を読む2016法政大学出版局)
長い引用となったがこの後に著者は河野慶彦の文芸作品、「扁柏の蔭」を読み解いていく。
理蕃道路建設中に原住民に殺害された日本人警察官の息子の主人公が1943年夏に新高山を踏破し父親の死の現場を訪れる物語
著者の河野の紹介をしつつ作品に描かれた「兇蕃」が悔い改め、いまや志願兵や高砂義勇隊として戦争に参加していく姿と作品に書かれない理蕃政策の暴力の歴史を紐解きながら紹介していく。
註
大江志乃夫の「植民地戦争と総督府の成立5-6頁」から
1895年の台湾領有から1915年までの台湾住民に対する大規模な軍事行動を、日清戦争とは別の「台湾植民地戦争」と名づけ、次のように三つの時期に区分した。
第一期(1895-96年3月):台湾民主国の崩壊から全島の軍事制圧まで。
第二期(1896年4月-1902年):日本軍占領下で漢民族のゲリラ的な抵抗が続けられた時期。
第三期(1903年-15年):原住民に対する軍事的制圧を主な課題とした時期。第五代総督佐久間左馬太の任期(1906年-15年)とほぼ重なる。