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日記。

臺灣の美風良俗 1913年10月20日

2016年03月28日 | 臺法月報

臺灣の美風良俗



△五穀を粗本にせざる習慣

 母國人には随分五穀を粗末にする者がある、是れは彼の「飯粒前に落つ、拾って之を食ふ、倶に為す有るに足らざるを知る」と、誰やらが云ふたのを穿き違へて居るのであらう。猫も杓子も此の句を振廻し、少しも穀物に對し愛惜の心が無いものが多い。斯く云ふ風であるから下々に至るまで之を見習ひ、穀物を粗末にする風がある。彼の其の日暮しの雇はれ女、乃至心無しの下婢等は、何程目上のものが厳格にしても穀物を粗末にする風がある。然るに上已に穀物を愛惜する心なくんば、下々のものは得たり賢し、層一層粗末にするのである。之では一家の經濟と云ふ所から云ふても、又年々増殖する人口に対し、穀物の不足を嘆じつゝある国家に對し穀物の不足を嘆じつつある国家に對しても甚だ不忠実なるものであらうと思ふ。

△本島人の俗
  
然るに本島人間は一般五穀を粗末にせぬと云ふ風がある。實に善良なる風習ににて、大いに喜ぶべき事である。故に母國人が遠足又は行軍乃至出張等の際、木陰に憩ひ行厨を開く、すると田舎の土人が蟻の群るが如く集り來って、物珍らし氣に見物する。其時若し小塊若し飯粒が地上に轉び落ちると見て、愛惜の念措く能はざる如く、舌を鳴らして見て居る。甚だしきは馳せ寄って拾ふものもある。是れは決して貪欲の故に、又は野卑なるが故にと云ふて嘲笑すべきものではない。元來本島には「一粒(チツリャプ) 米亦著流幾若百(ビイイアチオラウクイナアパア)汗(コア)(チツリャプビイイアチオラウクイナアパアコア)」と云ふ習慣語あり。即一粒の米を作らんとするにも、農夫が浴風沐雨旦に星を踏んで出で、夕べに月を戴て歸るの勞苦艱難あるのみならず、其後と雖も膳に上る迄には、尚幾多の手數を經ざるべからず。是れ所謂一粒の米に對し幾百滴の汗を流すのである、との意である。

△雷に撃殺さる
 
であるから決して一粒の穀物と雖も無益に棄つべからずと云ふ心より出で、斯く穀物は貴重するのであると云ふ。また本島に五穀を粗末にすれば、必ず雷に撃ち殺さるゝと云ふ迷信がある。是れ前述の五穀貴重の風を一般人民をして實践せしめんとの意より、諸衆に説教せし儒者長老輩の一方便に過ぎざりしに、愈々常に穀物を粗末にせしもの、雷電に觸れて死したるものありしより大いに其迷信を高めたるものであろう。然して之に付

△面白き傳説 

がある。昔一婦女常に五穀を粗末にして少も愛惜の念なく、或時炊殘の米を庭前に棄てしに、天忽ち掻き曇り、暴風強雨来り、彼女の身邊に於いて一囘の大霹靂鳴り響き、後ち天前の如く霽れ渡った。人々怪しみ彼女の家に到りしに、身邊は寸断され、恰も膾の如くになつて死んで居た。人々は常に彼女が穀物を棄てしに依り、神罰を受けたのであると云ふて、互に云ひ合ひ相戒めて居つた。

△雷の誤解 

其翌日良家の婦女、瓜を切り其の種を庭前の屑溜に棄てしに、前日の如く驟かに雨来り雷鳴り、遂に彼女も雷の為に撃ち殺された。雷公が瓜の子(タネ)を白米と見誤り、一途に精米を棄てたものであると誤信し、大に怒り一撃に撃ち殺したのであると云ふ。成程天上より下界にある瓜の子(タネ)を見れば、一寸白米と見分けが付かぬであらう。然し随分周章腐った雷公ではあるまいか、之が為に本島に「好心被雷公打死(ホエシムホオルエコンバアシイ)」と云ふ慣習語がある、之れは善人なるに拘わらず、雷に撃ち殺されたと云ふ意にして、今は「労して功なし」の俚諺に用ゐられて居る。以上の傳説が五穀貴重の良風を致したる一大原因であるから、茲に付記して参考に供へるのである。


1913年10月20日 臺法月報第七巻 第十號




曾孫注:「労して功無し」でも自分が間違った行いをしていないと信じるならば、見ていようがいまいが、
誰が何といおうと、(例え雷神に撃殺されようとも)正しい行いをしていくべきという良俗の紹介でもありますね。

 
この文章は文字数の都合か一切改行がされていませんでしたが、読みやすさを考慮して改行。
逆に読みにくくなったかもしれません。
このブログでは縦書きである原文を横書きにしているのですが、これも少々ニュアンスが変わってしまうし、読みづらいと思います。


齋教と食菜人の焚死 1913年5月20日

2016年03月13日 | 臺法月報
齋教と食菜人

△開臺以来の大珍事 大正二年四月十三日の夜、開臺以来未曽有の大珍事こそ起こりたれ、處は台南廳下六甲なる赤山岩(一名火山岩、岩は山寺の意)の住職陳淪外七名の僧及び鹽水港付近に住する齋教信教の婦人施氏品外六名の十五人、赤山岩の廟前に於いて薪を積み油を灌ぎ、又各自身の體に綿花を纏ひ油を灌ぎ、十五名一時に焚死成佛せんとて先づ其旨を書したる二通の遺書を留め、身體に火を點じて積み置ける炎々たる薪火の中に飛入り遂に焚死を遂げたる一大珍事あり。


△赤山岩 抑々彼の赤岩山は鄭氏、擄臺の當時建立せしものなりと云ひ傳え、該地方最古の寺廟なるを以て従て信徒も尠からず、且つ該寺は臨済宗にして、雲水の僧及び食菜人等常に寄食し居りしと云ふ。


△食菜人 食菜人は即吃齋人にして齋教の信徒を云ふ、齋教とは俗人にして佛戒を守持し葷肉を食わず髪を剃らず法衣を著けず佛を信仰し朝夕佛前に誦經し信徒相互の為冥福を祈るものを云ふ、又信徒に二あり、一は常に寺廟に寄食し僧侶と同棲妻帯せず、夫に嫁せず、朝夕佛前に經を讀誦して供養するものと、一は自家にありて妻帯し、普通の業務に従事し、朝夕佛前に禮拝讀經するものと是なり。

△齋堂 信徒か佛像を安置禮拝する所を齋堂と稱ふ、台南にあるものを西華堂、愼徳堂(金幢派)徳化堂、徳善堂(龍華派此派目下旺盛ナリ)報恩堂(先天派)と云ひ、鹽水港にあるものを善徳堂(龍華派)と云ひ、其他臺中の尼寺乃至は新竹樹林頭の鄭家の尼姑庵、及西門外の周家の齋堂、又苗栗街の齋堂等は出名なるものにして、其外到る所に小齋堂あり。


△信徒 昔時上流者に信徒多かりしが、中古衰微し、下流社會に移りしに現今再び中流以上に皈依(きえ)するもの多き傾向にあり、又閔人、粤人を問はず皈依するもの甚だ多し。


△皈依者多き理由 なぜに斯く皈依者多きかを問ふに、僧尼は法衣を著し頭を剃り居るも、往々糊口の為に出来したるものありて、能く佛祖の戒法を守るもの少し、故に教理を究め世を濟度する等は思束なく、僧尼は徒に寺廟に住し生産に務めず、又た假令法服を著けず頭髪を剃らざるも能く佛道の教義に通じ戒律を守らば佛徒たるに恥ぢず、又生産を務め國用を空費せざるは國民の務めなリとの意より斯く皈依者多きを致すと云ふ


△信徒の名稱 
信徒相互に相呼んで齋友と云ひ、男を齋公と呼び、女を齋姑と稱ふ、信徒中死者あるときは
齋友行て經を讀誦し葬祭をなす、異教人と雖依頼者あるときは之に應じて讀經す、依頼者は普通僧侶に禮する如く金銭を以てせず、物品を贈つて禮となす、又た齋堂の費用は信徒の寄附に依り、亦齋堂に主教なるものありて之を監理す。


△信徒の階級 信徒に九階級あり、曰く空々、大空、清(せい)煕(き)、四偈、大引、小引、三乗、大乗、小乗之なり、入堂後修行を積むに従て階級漸次に進む、一堂の主教は大空にして、全島の主教は空空を以て之れに充つと云ふ。


△教派 齋教に三派あり、曰く龍華、先天、金幢是なり、龍華派の開祖は明の時、山東省莱州の人羅因なるもの二十八歳にして臨済宗に皈依し、五十二歳にして成道し、諸國を遍歴し諸民を教化し、嘉靖六年露靈山に在て示寂したり、後ち師弟相継ぎ清の雍正年中、陳晋月なるもの福州福寧縣観音埔に於て齋堂を開く、之を一是堂と稱す、今の福建及び臺灣に於ける總主教の所在地即之なり。喜慶年間其十五代の祖、蘆晋耀興の第晋濤渡臺して教義を弘め、其弟子晋爵始めて臺南に今の徳善寺を創建せり。


△先天派 は明の代に徐物なるもの四川省に於て先天堂を建立し、盛んに吃齋の教義を宣傳してるより始まり、其孫徒黄昌成、咸豊年間臺南に渡りて教義を弘め、徒弟鄭良謨なるもの今の報恩堂を建立せり。


△金幢派 は明の嘉慶年中王太虚なるもの直轄省永平府より出で齋教に皈依し、其弟子薫應亮萬歴年間興化府蕭田に来り樹徳堂を建立し、其徒弟蔡權なるもの台南に来り今の慎徳堂を建立せり。故に以上の三派は何れも臨済宗の一派にして、就中龍華派は開祖なるを以て現今尚優勢なる一宗派をなし、全島至る所に齋堂ありて且つ歸依者頗る多きを致せり。

△今回焚死したる施氏品 等が常に禮拝せしは鹽水港近くの善徳堂及該赤山岩なりしと云へば、前述の如く善徳堂は龍華派に属するを以て、殆んど同宗に近かく且つ各安置せる佛像も、釈迦、阿弥陀、観世音、達磨、尊者等大同小異にして、經も亦金剛、大悲、靈王、阿弥陀、観音、法華經等を讀誦し居り、其信仰心の歸する所亦同一なるにより陳淪等が迷信に附和するに至りたるものなるべしと云ふ。


△赤山岩の僧陳淪 は支那の禅寺より受戒し來りし僧に非らず、臺灣に於いて出家したるものにして唯一囘、福州皷山湧泉禅寺の靈場に詣で、現今の總監古月師が悟道正定して神通玄妙なるを聞き来り、自己の未だ修行の足らざるをも悟らず、自ら己に悟道入定したるものと迷信し、信徒にも斯の如く説教し信徒も之れを信じ居りたるものなりと云ふ。


△焚死の動機 とも云ふべきは同廟寄寓の僧、張献なるもの法華經に「身に布を纏ひ油を灌ぎ焚死するときは成佛す云々」とあり、吾人も速かに焚死して成佛するに若かず、と云ひ出したるに、陳淪等は大ひに之に賛同し、各信徒に説き勧め、𦾔四月八日の佛祖祭日を期して焚死成佛と定めたりと云ふ、然るに何故か其期に先き立て焚死したるものなりと、彼等が誤信したりと云ふ法華經中の句は即ち左の如し。


法華經第六巻二十三品録。時佛告其子徒、宿王華菩薩、往昔過數劫、時有佛號日月浄明徳、有得大菩薩、弟子八十億七十二、恒河聲聞、聴其説法華經具得三昧、得三昧己卽入定以供養於佛、復起自念言、不知以身供養、随舎身卽天寶衣纏身塗香油用三昧火焚化

と然して又迷信の熱を高めたりと見るべき一事は曾て(かつて)福州皷山湧泉寺に詣てたる際、古月師が座禅數十日、更らに食を取らず、后醒めて徒弟に云て曰く、吾心魂神に通ず故に食せざるも飢えず、之卽禅那也、故に若し全身を猛火森水中に投ずるも何等苦痛なく成佛すべし、と云ひしことありしを以て、陳淪は深かく之を信じ、己れの未だ正定に達し至らざるを悟らず、自ら大悟徹底せるものと迷信し遂に焚死したるものなりと云ふ、兎に角開臺以来の一大珍事と云ふべし。



臺法月報第七巻第五號 1913年5月20日




以下;曾孫注 
一大珍事と書いているが、焚死した僧及び在家信者にとってはそこまでに至るなにかの理由があっての事だと思うのです。それこそ僧の焚死はその後、宗教宗派、國は違えど政治への非暴力の抵抗として行われたのは数知れず、また引用された法華経以外でも記載されているであろうと思われます。宗教指導者は自らも、また信徒にも死を負わせることのないように、実践的祈りで平和に導くことを願い、ご冥福をお祈りいたします。

○ 1913年2月20日

2016年03月09日 | 臺法月報


△牛爺、馬爺 牛と馬とは何時も乍ら引き合ひに出されるゝのであるが、殊に本年は丑歳であるから本当の牛に就て一寸書て見やう、本島には牛天とか牛祭りとか云ふ様なものはない様であるが、牛爺、馬爺と稱するがある、是は我が母國の牛頭天王、馬頭天王と云ふと同じである、本島のは罪人を逮捕懲戒し又は刑罰を執行することを掌つて居る、此のは何れの廟にも居ると云ふのではなく、十殿閻王のある寺廟には必ずある、台南には岳帝廟、重慶寺、それから新竹の廟にもあつたと思ふ、彼の鑼皷亂撾の御祭り行列の眞先きに立つて行く、身の丈け一丈餘りの張子の人身牛首、馬頭人體が即ちそれである、其執務振りはかうである、茲に人間の犯人があるが、人間界では之を探査することが出来ず困じて居る、即ち犯人が巧みに法網を脱れ居る場合、此場合は直に其實況を取調べて主に報告する、恰も警察の刑事の様な鹽梅である、此報を得た主は直に其犯人を處分する、其處分は犯人をして不治の重病に罹からしめ、又は白痴、瘋嬾(ふうらん)となさしめ、再び世に起ちて活動することを得ざらしむるのである、陽間丈けでは取調べがつかぬ時は、陰間にも出張して取調べるのである、假へば被害者は死亡して地下に居る、其加害者が明らかでないと云ふ場合、如此時は牛爺、馬爺はそれぞれ手配りをして黄泉へ出張し、亡者を訊問して加害者の誰かを知り、陽間即娑婆に歸り主に報告する、主神は之に依て犯人を處罰するのである、處が之れは加害者の生存し居る場合である、若し取調べの結果、加害者も已に死亡して居ると云ふことを知った場合は此の二は己れの直属長官たる、閻王に報告するのである、閻王は自己の管轄内のことであるから、直に此の両に命ずる、両は其部下なる掌牌爺と云ふに其執行方を命ずる、被命者は、落磨(スリミ)、落油(アブラ)鼎(イリ)、呑錢(テツノタマ)丸(ノマス)、攪(ヒバシラ)火柱(ヲダカス)、割(シタ)舌(ヲキル)、落(ノコギリ)鋸(サキ)、落(ツキ)椿(ミ)、落(フカシ)蒸(ミ)、浸(チノ)血(イケニ)池(イレル)、挖(メヲ)目眮(ヌク)、寃死(ロウニ)城(イレル)等それゞ犯情に照らして処罰するのである、斯う云ふ風であるか土人に於ても加害者の知れざる場合、又は故意に加害者を害する為め、假へば些細なることにでも害を受けたるとき其加害者をして大いなる禍に逢はしめやうとする場合等は其被害の状況を書き陳ねて此に祈り訴へ、而し(しかし)て後之を焼くのである、さうすると其効験が顕はるゝと云ふて居る、それが爲め此前には年中香煙が絶えぬのである、が之れを聞いては、本島人に對しては滅駄に大きな聲で話すことも出来ないことである、でも畏ろしきは牛馬の両ではあるまいか。

1913年2月20日 臺法月報第七巻第二號