臺灣の美風良俗
△五穀を粗本にせざる習慣
母國人には随分五穀を粗末にする者がある、是れは彼の「飯粒前に落つ、拾って之を食ふ、倶に為す有るに足らざるを知る」と、誰やらが云ふたのを穿き違へて居るのであらう。猫も杓子も此の句を振廻し、少しも穀物に對し愛惜の心が無いものが多い。斯く云ふ風であるから下々に至るまで之を見習ひ、穀物を粗末にする風がある。彼の其の日暮しの雇はれ女、乃至心無しの下婢等は、何程目上のものが厳格にしても穀物を粗末にする風がある。然るに上已に穀物を愛惜する心なくんば、下々のものは得たり賢し、層一層粗末にするのである。之では一家の經濟と云ふ所から云ふても、又年々増殖する人口に対し、穀物の不足を嘆じつゝある国家に對し穀物の不足を嘆じつつある国家に對しても甚だ不忠実なるものであらうと思ふ。
△本島人の俗
然るに本島人間は一般五穀を粗末にせぬと云ふ風がある。實に善良なる風習ににて、大いに喜ぶべき事である。故に母國人が遠足又は行軍乃至出張等の際、木陰に憩ひ行厨を開く、すると田舎の土人が蟻の群るが如く集り來って、物珍らし氣に見物する。其時若し小塊若し飯粒が地上に轉び落ちると見て、愛惜の念措く能はざる如く、舌を鳴らして見て居る。甚だしきは馳せ寄って拾ふものもある。是れは決して貪欲の故に、又は野卑なるが故にと云ふて嘲笑すべきものではない。元來本島には「一粒(チツリャプ) 米亦著流幾若百(ビイイアチオラウクイナアパア)汗(コア)(チツリャプビイイアチオラウクイナアパアコア)」と云ふ習慣語あり。即一粒の米を作らんとするにも、農夫が浴風沐雨旦に星を踏んで出で、夕べに月を戴て歸るの勞苦艱難あるのみならず、其後と雖も膳に上る迄には、尚幾多の手數を經ざるべからず。是れ所謂一粒の米に對し幾百滴の汗を流すのである、との意である。
△雷に撃殺さる
であるから決して一粒の穀物と雖も無益に棄つべからずと云ふ心より出で、斯く穀物は貴重するのであると云ふ。また本島に五穀を粗末にすれば、必ず雷に撃ち殺さるゝと云ふ迷信がある。是れ前述の五穀貴重の風を一般人民をして實践せしめんとの意より、諸衆に説教せし儒者長老輩の一方便に過ぎざりしに、愈々常に穀物を粗末にせしもの、雷電に觸れて死したるものありしより大いに其迷信を高めたるものであろう。然して之に付
△面白き傳説
がある。昔一婦女常に五穀を粗末にして少も愛惜の念なく、或時炊殘の米を庭前に棄てしに、天忽ち掻き曇り、暴風強雨来り、彼女の身邊に於いて一囘の大霹靂鳴り響き、後ち天前の如く霽れ渡った。人々怪しみ彼女の家に到りしに、身邊は寸断され、恰も膾の如くになつて死んで居た。人々は常に彼女が穀物を棄てしに依り、神罰を受けたのであると云ふて、互に云ひ合ひ相戒めて居つた。
△雷の誤解
其翌日良家の婦女、瓜を切り其の種を庭前の屑溜に棄てしに、前日の如く驟かに雨来り雷鳴り、遂に彼女も雷の為に撃ち殺された。雷公が瓜の子(タネ)を白米と見誤り、一途に精米を棄てたものであると誤信し、大に怒り一撃に撃ち殺したのであると云ふ。成程天上より下界にある瓜の子(タネ)を見れば、一寸白米と見分けが付かぬであらう。然し随分周章腐った雷公ではあるまいか、之が為に本島に「好心被雷公打死(ホエシムホオルエコンバアシイ)」と云ふ慣習語がある、之れは善人なるに拘わらず、雷に撃ち殺されたと云ふ意にして、今は「労して功なし」の俚諺に用ゐられて居る。以上の傳説が五穀貴重の良風を致したる一大原因であるから、茲に付記して参考に供へるのである。
1913年10月20日 臺法月報第七巻 第十號
曾孫注:「労して功無し」でも自分が間違った行いをしていないと信じるならば、見ていようがいまいが、
誰が何といおうと、(例え雷神に撃殺されようとも)正しい行いをしていくべきという良俗の紹介でもありますね。
この文章は文字数の都合か一切改行がされていませんでしたが、読みやすさを考慮して改行。
逆に読みにくくなったかもしれません。
このブログでは縦書きである原文を横書きにしているのですが、これも少々ニュアンスが変わってしまうし、読みづらいと思います。