なにか最近よく思い出すので
2018年のときに郡山市音路というところにある土佐藩の墓地にある南部宗長さんのお墓の後ろに書いてある墓碑の文字をノートにおこしてみました。
それを当ブログに載せておきます。
何故なら片岡巌が臺南で昭和5年に亡くなったのち妻の和子(ニギコ)がここの墓に埋葬したからです。
南部宗長はその和子の祖父にあたります。
自転車で朝夕通う中央区の区役所が土佐藩の下屋敷だったから築地あたりには土佐藩の藩士も多かったんだろうなあと思いつつ。(2018当時自分は自宅から新富町までは電車で新富町から有明まで自転車通勤してました)
ちなみに南部宗長さんは僕の母の母の母の母の父
お墓の後ろに書いてある文により
因幡守高忠を先祖とし、その人は奥州から来た旅の僧侶で高岡藩の米野河村(現在の四万十町、一斗俵)を開墾したそうです。
(新天地に行ったり、開墾してる人が多い家系です)
田口求道の長女を妻としていた南部宗長は高知から東京で築城と砲術を学んでその後福島へ来て安積開墾事業をしてきた事がわかります
検索してみると
岡山篤次郎という会津藩少年兵について知ることが出来ました。
彼の死を家族に伝えたのは南部宗長だったとか
http://aozorabower.web.fc2.com/hitobito/okayamatokujiro.html
鹿持雅澄の万葉集の出版にも携わっていたようで奥付に名前がある版があります。
宗長にとって祖父にあたる南部巌男(いつお)は歌人
南部宗長さんの妻の父は田口求道という土佐藩医だそう。
田口求道について
(コメント欄に記事を引用させていただいてます)
https://tosareki.gozaru.jp/tosareki/asakura/taguchi/kyudo.html
田口求道そしてその息子田口文良の墓碑に書かれてることがわかります。
南部宗長と共通点が多くそこには繋がりを見つけることができます。
南部宗長の墓碑に書かれている文面を書き取りました。
『南部宗長
姓南部名宗長清和源氏之末裔也
祖南部因幡守高忠城守土佐國高岡郡
米野河村居之其末係仲助字厳男〇三子宗長即長男
天保十二年正月五日生於土佐國土佐郡小高村仕藩主山內候
明治二年5月4日為砲術並築城学修業被差遣東京明治四年十一月八日為兵部省出仕
被補陸軍省十一等出仕在職十六年克精勤以功積顯著也偶々坂本常太郞氏〇(遝?)去
此地宗長抱殖產大志願以継承其事業刻苦勉励躬枝私財行農作試験示其成積以誘啓富業者寔多
又在村農會長之栄職十数年且又為農事措導員巡迴各地盡力農事改良宣傳大
稗益鄉黨終始蕩盡自費一切不受報酬因其勤労受領縣知事閣不及郡農會之褒賞前後数回也
偶々爲二豎所襲大正四年七月十七曰、病沒享壽七十六歲翁
資性豪毅躯幹牢大沈〇且寡言而酒量蒙朋〇酒不猶辞而未嘗見陶踫也
室田囗求道氏長女大正十二年病沒享年七十九歲
葬翁側余嘗爲翁孑弟親接其温谷令當建翁〇〇旧之情不能禁聊録略歴貽無窮云爯
干時昭和六年夏
弘田良馬稱』
土佐の歴史散歩>高知市西部>田口求道・文良親子
田口求道明哲
すばらしい彫刻を施した台座と美しく深く掘られた文字です。頂頭部の曲面もあまり見ない形です。当時の土佐の墓石屋の技術の粋を尽くしたと思われます。それだけ医者として仁徳があったのでしょう。墓石の周囲三面には業績を記す文字がびっしりと埋め尽くしています。
高知市の丹中山にある
田口求道の墓碑 君諱明哲字士新通称求道号晩
稲考田口諱種益妣小松氏育四
子士新其三男也學医于大久保
桑名之両門業成文政七年ト家
於城西朝倉居数年転徒于北奉
公人街業日弘焉舊君山内公聴
之容拝謁焉安政紀元地大震公
設救民舎君請以施薬護之四年
夏特擢用人格賜稍食三口屡役
于京 攝及江都之間三膺褒典 戊辰之
変嗣子文良以功挙留守士隊加
賜稍食一口禄六石君為人淡泊
節倫下人親 輯睦及身老任業嗣
子従容自養焉配福富氏生三男
二女長女及二男早夭明治十年
一月廿又一日以病卒年七十又
三葬于石井村丹中山士新与余
友善甞同飲酒令余作壽蔵文余 諾而未果而没令茲明治十四年
九月嗣子来請碑銘所以不辞也
鉛曰
求道得道 刻苦其功 躋人壽域
福禄所同 三世立基 家名無窮
奥村祐辰撰
妻名佐恵福富易和之三女明治
十二年十二月八日卒年六十又
五
志和直利書
田口文良明俊
天保13寅年9月11日生 明治17年2月27日病死 葬丹中山
妻郷士長尾貞次重直養育人 高芝小七郎章明女 名は久 嘉永2酉年12月27日
父の求道の墓石には及びませんが、台座の彫刻がすばらしく、文字も深く彫られています。
この人の墓石を立派なものにしようという職人の意地を感じさせます。
父の医業を継ぎましたが、土佐勤王党に加盟し、幕末には迅衝隊の医師として戊辰戦争に参加しました。
明治になると五台山にできた西洋病院において西洋医学の普及に努めました。
丹中山の田口家墓所にある
田口文良の墓碑 君諱明俊通称文良襲父業及禄
學術本藩浪華東京於横濱研究
英醫文久元年開業慶応三年以
命代父於京都戊辰之變従迅衝 隊以職務盡力除留守士隊賜食
禄別賜賞典米許多後為醫學司
調役及長明治四年免同十七年
二月十日病卒年四十葬石井村 丹中山配高芝小七郎長女名久
生二男三女
澤村祐辰撰
島崎利通書
高知市民図書館より刊行された「土佐藩戊辰戦争資料集成」(林 英夫編)の中に「東征道の記」(弘田親厚)があります。
土佐藩を含む官軍には西洋式に日本で初めて従軍の病院が編成され、土佐藩の病院頭取が弘田親厚でした。
その「壱の巻」中から一部要約、引用「」させていただきます。
明治元年二月十四日には、「病院組下として附属の医師横川酸達正勝・細川養碩廣世・田口文良明俊・北川鎌伯則寿・森田良斉義利・大久保元良高良・久米宗碩正則・高橋良益元高・小橋渡吉吉正等十人其余歩卒三十人を卒して打ち立ちぬ」
十七日には「雨いたく降りける」中、関ヶ原を抜け、十九、二十日は大垣に滞陣したようすが書かれている。
二十一日には大垣を出発し二十三日には木曽川のようすが書かれている。
「二十四日 ・・・・、御嶽の宿にて関東の形勢もそこそこ聞べける由にて此処より惣軍道を早めて押行ける、正形は参謀を兼し事なれば岩倉殿の本営に添うて一日後より進みける故病院より田口明俊を添置きけり、此辺も官軍拝見の人夥敷出たり」
三月には七日から九日にかけて甲府勝沼、石和での戦闘のようすが記されている。
「十三日 晴、八王寺を打立府中の宿に着きぬ、けふは未だ日高けれども賊の江戸本城近ければ猶又伏兵等も有らんかと陣列を厳にして府中へ止まりける、四小隊斥候として前駆しけるにより病院よりも横川正勝・田口明俊を差し添えける」
十四日からは新宿に滞陣し、江戸見物などをしている。十八日には市ヶ谷尾張候の屋敷に着陣。
「十九日 晴、此の日因州勢の内壱人外輪にて誰とも知らず後ろより切られ手傷を受け立ち帰りけれども、因州病院狼狽して手術隙取りければ我が病院へ頼み来たりける故立ち越し療術を施しける、田口明俊・北川則寿随従せり」