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日記。

青年時代の片岡巖

2011年10月28日 | Weblog
片岡巖の渡台前について、
あらたにわかった事をお伝えします。

明治29年1896.6.15に三陸沖大地震が有りました。
M7を超えた地震で、余震もしばらく続いて、
今回の大地震同様にやはり大津波が起きたそうです。
被害は甚大で二万人の死者を出したと伝えられています。
1895~、片岡巖は仙台の第二師団第四連隊に入隊してました。仙台の今は榴岡公園になっている演習場や宿舎も大変な揺れがあったと思います。
そして履歴書には1896.10.28に渡台と記録されてます。

まだ若き片岡巖の21才の頃の心情を鑑みるに、
台湾というまだ見ぬ新天地に夢を抱いたんだと思います。
この事は、
今年の東北を襲った大地震と津波の被害、原発の事故による二次災害に於いても、
途方にくれ悲観するだけでなく、かつて片岡巖がそうだったように若い新しい世代が力強く、羽ばたいてゆくような希望を感じます。

また、1876.1881の二度、郡山に明治天皇の東北巡幸が二度有りました。
1876は、白河塙にでまだ生まれたばかりで無理だとしても、1881は、もう6歳になっていたので、家族兄弟と行列に並んでいたと推測されます。
郡山はその契機を境に町づくり、発展を遂げて行きました。
教育の面でも片岡巖が10年前に産まれていたら、受ける事の出来なかった新しい学問が薩長同盟の明治政府により受ける事ができました。
そして新しい空気を充分に吸い込み、深く呼吸して世界に目を向けて台湾に渡るそのような気概を養ったのだ、と。

曾孫とsodagreen

2011年10月23日 | Weblog
 あれは2003のことだったと記憶しています。

 何度目かの台湾に旅行に行ったとき、僕は台湾の音楽にも興味があり、
ちょうどロックフェスみたいなたくさんのバンドがでるイベントが台北であるので様子を見に行きました。



帰国の時間の都合でイベントが始まる前の準備をしている所しか見れなかったんですが、
その時にとあるブースに並んでいるCDを手に取って眺めていると、
これは僕たちのバンドなんだよと気さくに話しかけてくれた若者たちがいました。

「きみたちのバンド名は?」とか、たどたどしく日本語と北京語と英語で
「僕は日本人ですが先祖が台湾で暮らしていたことがあります、台湾の人はみんな音楽が上手だし歌もうまいね」と話すと、
うちとけて、台湾の原住民の血をメンバーの何人かは受け継いでいるので、音楽が好きなのはそのおかげかもしれないと話してくれました。


帰りにCDを買おうと思ったら、
あいにく台湾ドルを帰りの飛行場までの切符代しか残していなくて、日本円しかなかった。

日本円だけど換算して「1000円でいい?」と交渉すると、「OK喜んで」と言って笑って売ってくれた。

そのうち日本にも来てね、と言ってその場を後にしました。
彼らの歌はすばらしい。楽しいし、CDを聞いてすぐに好きになりました。

今思えばCDにサインをしてもらえばよかったね。





僕と曾孫とsodagreen

2011年10月23日 | Weblog
 あれは2003のことだったと記憶していますが何度目かの台湾に旅行に行ったとき、僕は台湾の音楽にも興味があり、ちょうどロックフェスみたいなたくさんのバンドがでるイベントの様子を見に行きました。
帰国の時間の都合でイベントが始まる前の準備をしている所しか見れなかったんですが、その時にとあるブースに並んでいるCDを手に取って眺めていると、これは僕たちのバンドなんだよと気さくに話しかけてくれた若者たちがいました。

きみたちのバンド名は?とかたどたどしく日本語と北京語と英語で「僕は日本人ですが先祖が台湾で暮らしていたことがあります、台湾の人はみんな音楽が上手だし歌もうまいね」と話すと、
うちとけて台湾の昔の話や、台湾の原住民の血をメンバーの何人かは受け継いでいることや音楽が好きなのはそのおかげかもしれないと話してくれました。
帰りにCDを買おうと思ったら、あいにく台湾ドルを帰りの飛行場までの切符代しか残していなくて日本円しかなかった。
日本円だけど換算して「1000円でいい?」と交渉すると、「OK喜んで」と言って笑って売ってくれた。
そのうち日本にも来てね、と言ってその場を後にしました。

今思えばCDにサインをしてもらえばよかったね。