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日記。

森永信光のこと

2012年07月14日 | Weblog
先週のお昼に家の方に拓殖大学の方から電話で連絡が来た。
そして
昨日、
S教授から大学の歴史を綴った

「拓殖大学百年史(大正編)」が自宅に届いた。

さっそくページを開いて見ると、

台湾協会学校から始まったその歴史
その第一期生である森永信光は明治33年に入学,36年に卒業後.台湾総督府外事課に就職。
その後、東石郡の郡守として大正9年から地方分権「五州三庁制度」の一端を担う。
大正12年4月に退官し帰国。
とここまでちゃんと書かれていたが
その後の事がよくわからないというので、ご質問を受けたが、
僕も本人ではないのでよくはわからないので推測や憶測でしか言えなかったが、
きちんとデータから出ているところはお伝えした。

その頃の拓殖大学は、
桂太郎が創立者で、後藤新平や新渡戸稲造なども名前が出てくる。
まあ、その人たちが信光のことを知らないとは思うけど。
でも学生の数は少なかったから知ってたかもしれない。
信光は帰国後、日本では、
福井にて老後を過ごすつもりであったが、空襲にて妻と長女を失うと、次男の神戸のところに、そして福島の長男のところで過ごした。
仕事も何かといろいろとやろうとはしていたが、
神官の資格を取り、戦争や震災で亡くなった方の供養をして回り、晩年は囲碁と文学と酒を愛していた。

S教授とはお互いに意見を交換し、推測を修正をして頂いたり。
お互いにこれからのことを考えると、あと十年後には日本も台湾も戦時中の事を知っている人がほとんどいなくなってしまう事。だからなるべく急がなくてはならない、、、。
今でさえ90歳の台湾で日本人と一緒に暮らしていた人だって、子供の頃の記憶があっても、
当時のことを正しく理解できていたかはわからない。さらにその後の未来を考えると不安になる事は多い。