goo blog サービス終了のお知らせ 

randomnote

日記。

沖縄、琉球新報と森永信一と台湾の空気

2012年05月30日 | Weblog
今回も片岡巖から脇にそれてしまいますが、琉球新報の5月13日の記事について

内容は前回4月21日に行った
「台湾竹村小85周年記念式典について」です。
記事の投稿は沖縄の職業能力開発大学校の林文彬教授です。
林教授も台湾人で竹村小校の卒業生。

竹村小学校の教師だった祖父、故森永信一の代理として行ったおば夫婦と僕は
楊承淑教授と伊原大作教授に案内してもらい、光栄にも来賓として迎えられました。

叔母はお祝いの言葉を壇上にて述べ、その時朴子の空気を感じたまま気持ち良さそうに話していました。
僕はもしかして自分にも回って来たらどうしようかと考えましたが、
その時は、曽祖父森永信光の詠んだ朴雅吟社の漢詩をお伝えしよう、、、。
幸い僕には回ってこなかったからその心配は杞憂に終わりました。

さて記事の最後は、安谷屋長也(アダニヤ)先生の事が書かれていました。
沖縄の出身の安谷屋長也先生は一度だけ竹村小学校へ行ったのですが、その後、
行方不明で音信不通になってしまっているようです。
誰か心当たりの人がいたら教えて欲しいという旨で文章は締めくくられていました。
安谷屋長也先生は竹村小学校の校歌を作曲者でも有り大変生徒の信頼が篤かったようです。

生徒に親のように慕われていた安谷屋長也先生を探す、林教授の気持ちがすごく良くわかります。

沖縄には、小学生の頃隣に住んでいたJALに勤めていた家族が沖縄に転勤したときに夏休みに遊びに行ったのと高校3年生の修学旅行で西表島、翌年に同じく8月~9月までの間に友人3人で西表島でキャンプ生活をしていました。
晴れた日には台湾が見えました。
また沖縄には友人もたくさんいます。
今回の記事を読んだ友達もいるかもしれません。
日本よりアメリカに近い沖縄はその分、就業率(失業率)の事を考えても、日本に先んじて問題が顕在化していたと思います。だからこそ日本の近い将来が見える沖縄の職業能力開発はとても興味があります。
そして長寿の沖縄、例えば定年後の人もまだまだ新しい可能性があると思います。

林文彬教授も健康で100歳ぐらいまで一緒に元気に頑張りましょう!



大正12年の台湾

2012年05月07日 | Weblog
この間、赤羽に居らっしゃる大叔母さんの所へ遊びに行きました。
そもそも、今年のはじめに大叔母さんよりお手紙を戴いて
何やらいろいろ話しておきたい事が有るから一度車でおいでなさい。との事。
時期も4月の終わりごろがよろしいでしょう。と
母と一緒に相談して日程を調整して大叔母さんへ電話、4月30日にしましょうと確認を取ると
電話に出たお嫁さんは何も聞かされてなかった様でびっくりされて居ました。
けれども事情がわかると何よりも喜んでくれました。
トリコさんは7月で90歳(大正12年うまれ)になる、結婚記念日は6月で70年の節目に当たる。
当日午後に赤羽に着くと、以前の40年以上の昔、母が独身時代にお世話になった大叔母さん夫婦
の話を聞く。森永歯科は西が丘で戦前から営業をして居た。戦後は下宿人もたくさんの出入りして居た事

でも、今回は、それに加えて、森永信光の事をお話してもらえた。
仲人は森永信光であったと言う事が判明(森永信光の当時の友人を介して)
お見合い写真は、(割烹着)写真屋さんに遊びに行った時に撮った写真、
偶然間違えて渡してしまった所、逆にこれがいかにも働き者に見えて気に入られたそうです。(実際、働き者で信光以外にも大変多くの方がお世話になりました)
そうしたお話のあと昭和16年の森永信光の写真を(目黒の雅叙園での結婚式の時のを)見せてもらった。。

福井県、殿下(てんが)に本家がある森永与右衛門の次男森永信光は、拓殖大学を出て、台湾へ行き
日本に終戦前に帰ってきて居た。
台湾の役職を退いたのは、大正12年3月1日とある、そこで思い出したのが、もう一人の曾祖父である片岡巖。
彼も同じく大正12年5月1日に地方法院通訳を退官している。

大正12年3月1日と5月1日両方とも4月を挟んではいるが、同じ様な年度変わりの時期で重なる。
この奇妙な一致した偶然に何か裏付ける理由が有りそうだと感じた。


何かが変わった大正12年(1923年)、何が変わった台湾。

1、まずは、台湾総督府
1921年に委任立法制度となる。
文官時代の総督、田健二郎から内田嘉吉へ
皇太子(後の昭和天皇)の台湾訪問4月17日~26日(台南の成功大学にガジュマルの樹を植えられた。)
翌大正13年(1922年) 皇太子ご成婚
2、次に、台湾人の環境
林献堂たちによる台湾文化協会が1921年10月発足
台湾人による 台湾の歴史、漢文や公衆衛生、法律講座、経済学講座などを地域社会に広める。

3、当時の日本政府の政治の面
関東大震災9月1日
虎ノ門事件12月27日→山本内閣総辞職

4、西洋の動向
前年の1922年のアイルランド内戦を経て、アイルランドが独立した。
ネパールもイギリスから独立

うーん。
まだまだわからない事も多いけれど、何か激動の昭和の入り口が見えてきた時期。
台湾人にとっては、武力抵抗にとってかわる独立心、自立が目指された時期だと思う。
今から振り返ると、歴史の折り返し地点でもあるような気がする。


4月19日~23日 台湾旅行の報告

2012年05月03日 | 台湾ー郡山

今回の旅行の目的は二つ
【日本に帰ってから一度も行ってない叔母さん夫婦を台湾に案内する事】
【半年前に行った時に約束した朴子竹村國小学校85周年文化祭に日本人教師の子孫として出席】

23日、朝一番の飛行機で台北を発ち無事に日本に帰ってきました。
おば夫婦も17時ごろ福島郡山の自宅へ帰宅。

思いだして振り返ると
今回も楊教授にとってもお世話になりました。
19日午後に空港について、楊承淑先生のご案内で台北に着いて、
すぐに101に行き鼎泰豐で小籠包。その間に地下に停めていた車の整備。
その夜は国軍英雄館で宿泊

20日、台北国軍英雄館での朝食。天気は曇り
伊原教授と彰化へ向かいながら車内にて台湾の歴史及び台湾人と台湾語について講義を伺う。
彰化国小で片岡克巳の関連したことを伺えて良かった。
員林の夜市はとても美味しかったです。(鶏スープ店の小姐さんは僕の顔を憶えていてくれた!)

21日、朝には夜の雨がすっかりやんで晴れて、朴子に向かい小学校へ。
助手の雅芬女史と合流し竹村國小学校85周年文化祭に出席。
美味しい精進料理をみんな(300人くらい)でビッフェ(精進料理は美味。日本の台湾料理のお店もやるべき!)
校長先生のお部屋にてお茶を頂き、祖父の教え子さん方とお話が出来ました。
   放課後、森永先生の家に行って蓄音機をみんなで聞いたらしいです。
1980年代にやった同窓会の話もしました。
また朴子の市役所へ行くと休日出勤の課長さんが快く対応してくれました。
(朴子の郷土史の入ったDVDを頂きました、こちらは曾祖父森永信光の写真と直筆の漢詩をコピーしてお渡しする)
台南に移動してからは、安平の夜市へ向かいながら林徳政教授に伊原先生を通じてお話が出来たので嬉しく思いました。台湾の中の京都で有る台南にて、台南と仙台の関連性をお話しました。
安平ゼーランダ城や赤嵌樓の壮大な歴史に片岡巌や森永信光も何を見ただろうかと思いを馳せ、

22日、片岡巖の晩年に住んでいた法院職員の公舎跡に隣接する娘の薫が通って居た
今も現役の台南公園國小学校も風情が有りました。

そういえば成大会館ホテルの縦に寝ても横に寝ても同じく大きな正方形のベッドも良かったです。

22日の朝食前に(朝6時30分)同じ台南東区の龍山寺通の友人サニーさんのマンションにトランクを返しに行き地図を見ながら土地の感覚を養えました、
10時出発、車の整備をしてから嘉義に叔母さんの生まれた場所を探しに行きました。
今は大通りに面した商店街の一角で雑居ビルが立って居ましたが住所は間違いなく、しかも叔母さんも記憶を思い出し、二階でハンモックに揺られて寝てたら窓越しに隣の男の子が顔を出してたそうです。

叔母夫婦と楊承淑教授と伊原教授は嘉義から台北へそのまま車に乗って、僕は嘉義~新營の単独行動、日本の大塚にある台南料理のお店「秀美」の女主人洪秀美さんがお兄さんの49日で実家に居て、会いに行きお悔やみ申し上げると家族も喪があけて少し明るい兆しがあり、突然の来訪者を喜んでもらえて良かったです。
その晩は台北に20時30分に到着、地下鉄で輔仁大へ
輔仁大の教学会館も学生の元気な若さを感じ。
朝に楊教授の助手リャオさんの見送りで
無事に成田へ向かう飛行機に乗りました。
しみじみと楊承淑先生とまた台湾か日本にてお会いできると良いなあと思いました。

今回は90歳で亡くなった祖父森永信一の生徒さん(90歳以上!)に何人も会えて、本当に良かったと思います。
あと車での旅行が好きだった祖父、今回の旅行を車の中で喜んで居たに違い有りません。
ありがとうございました!

最後に帰国後竹村國小学校へ送ったメールを転記させて頂きます。

『 今回の85周年祝福します。
竹村國小学校の壮大な歴史に感無量です。
方校長先生の暖かな心に触れて伸びやかに育つ子供達と、
子供たちを強く優しく見守る卒業生の皆さん。
この素晴らしい環境がずっとずっと長く続きますように
そして更に朴子の悠久の時の流れと共に
日本にいる私たちも継がっている事がいつまでも出来ますように


またお会いしましょう
謝々』