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randomnote

日記。

よろしく 「台湾風俗誌」 です。 FOLKLORE BOOK OF TAIWAN

2100年02月05日 | Weblog
 台湾風俗誌という古い本があるんだけど、その本を書いたのが片岡巖。
(写真家の方とは同姓同名の別人です、すみません)
その人は母方の曽祖父。仕事をしながら、余暇を使い、書き上げたそうです。


 これから少しずつその本をこのブログに写し記していこうと思っています。


 百年ぐらい前の本なのですが、あの頃の台湾と日本の雰囲気を知りたい方もいらっしゃると思うので
当時の表現により現在では使われない言葉も出ていますが、それも含めて時代考証の参考にしていただければと思います。

毎日1ページを目標に頑張ります。

台湾風俗誌の話

2021年06月15日 | Weblog

台湾風俗誌という本とそれにまつわる私の不思議な話

 

 

台湾風俗誌と書かれた本を東久留米の医師が母に貸してくれた。

 

台湾について書かれた古い本、大正11年発行の昭和60年くらいの復刻版

 

本を母が祖父に見せたらそれは曽祖父の書いた本だとわかった時の母は驚いた。

その日から本をコピーしようとしばらくその医師のお宅に通った。

ついに神田の古本屋で本を購入し書き写してデジタルアーカイブとして残そうとブログを始めた。

僕はその本を書くに至った経緯や100年前の日本人、文化、歴史、漢字、そして台湾人のことを全然知らなかった。

それはブログにメッセージをくれたクロスカルチャーを大学で教えているヤン先生と今でも続く交流の始まりました。

放送大学のスチュワート本多先生から文化人類学を学び、そして台湾風俗誌とその著者をテーマにしたこと、そして続けて台湾の医療制度の歴史を書いた。

この本の中に書かれていることは未来の予言かもしれないと思っていた。

この本のおかげでまだあったことのない親戚とメールのやりとりができたこと

まだやり残したことが、たくさんある。次の世代に伝える事

コロナ禍において旅行はままならない時代になったがいつでもこの本を開くと

100年以上前の台湾に行けると

 

(写真は台湾の友達とバンド練習しているところ)

 

 

 

 

 

 


朴子市の森永の家には

2018年10月07日 | Weblog

なんか秋だからか長めのレポートになりました。

長文その1
チキンラーメン日清の安藤百福さんは祖父森永信一と台湾で一緒に暮らしてました。

  両親を早く亡くし祖父母に育てられてた百福さんを小学校が近くにあるので曽祖父の勧めで家から通ってたそうです。
この曽祖父は茗荷谷にある台湾協会学校の一期生です。(今は拓殖大学)
福井県人で、テニスが好きで晩年は囲碁を趣味としてました。
曽祖父の息子は三人、その長男が僕の祖父、百福さんとは次男が同級生でした。

曽祖父森永信光に勧められて朴子の図書館の司書をされてたそうですが、その後、商売の道に進みました。

 

という事を百福さんの自伝を読んで知りました。

長文その2

その頃は曽祖父は台湾の東石郡の郡守というのをしてました。帰国後、福井の震災と空襲に遭って福島の祖父母の家では肩身がせまい思いをしてたから、きっと立派になった百福さんのことを知ったらどんなに喜んだことかなー。と思います。

後日談、、、、
何年か前マクドナルド食肉問題で沸いていた頃、ちょうど曽祖父の事で日清に問い合わせていました。
ついつい新製品の開発にアドバイス、しました。
この食肉不信の時代の中で野菜だけのカップラーメンがあったら良いなと提案しました。台湾でもウケますよーって思って。
担当の方は開発部に転送しますと言ってくれて、無事に半年以内に「ベジータ」という野菜だけのカップラーメンを作ってくれました(思い込みかもしれませんが)

正直「ベジータ」が国内で売れたとは聞いてませんが、変わった発想をバカにせず商品化するその創業者精神が日清に今も息づいてる気がしました。ビーガン向け食品は海外の需要の方があるのかもしれないです。

今は「謎肉」と言うカップラー麺に入ってる不思議なお肉を僕は喜んで食べてますー。

 


久しぶりに。

2014年04月28日 | Weblog
もうすっかり春ですね。

というかゴールデンウィーク。

久しぶりに、

そろそろ台灣風俗誌の事を書いていこうと思います。

最近は台湾風俗誌以外に読んでいる本が多くて、、、。

、、すみません。


でも、なにもしなかった訳では無く、

勉強して少し賢くなって来たかな?
最近では
渋谷栄一の「論語と算盤」
池田敏雄さんの「民芸台湾」面白かったです。

持地六三郎氏の「台湾植民地について」の講演録なども当時の空気が伝わって面白かったです。

現在読んでいるのは、
『病の皇帝「がん」に挑む』

がん治療の歴史を小説で読めます。

いろいろな疑問を解いてくれます。


あと一高時代に新渡戸稲造の教え子であった南原繁と矢内原忠雄の本も、

機会があれば読もうと思ってます。


でも、なぜブログ更新の期間が空いていたのか。

本当の理由は、、、


ログインパスワードを忘れてしまい。

ついつい再発行をしてなかったからです。


すみませんでした!!

また、よろしくお願いしますー!

台南地方法院にはまだ牛心梨の樹があるのかな?

2012年12月26日 | Weblog
いつも読んでくださってありがとうございます
今年一年を振り返り、いろいろな方との出会いに心より感謝いたします。

1921年に書かれた「台湾風俗誌」を書いた片岡巌の勤め先だった台南地方法院の庭には、
牛心梨が植わっていたそうです。

「牛心梨はその日を葉のごとくして牛の心臓大の實を結ぶ其の味甘くして釈迦頭の味に似たり、
大目および台南にあるも甚だ希有なり、今、台南地方法院中庭にあるもの即ちこれなり」

まだあるといいな。

台灣みやげ話 片岡巌 50

50◎台湾の果物や野菜は如何ですか果物や野菜は内地にあるものは大概ありますが果物は只寒国(かんこく;韓国?)にある林檎や栗、梨、胡頺子(ぐみ)胡桃(くる...


去年を振り返って

2012年11月20日 | Weblog
今月の最初に放送大学に卒業研究を提出しました。
まだ面接などがあるので詳しいことは後日報告したいと思いますが、「臺灣風俗誌から見た台湾」という題で書かせていただきました。去年から今年にかけて台湾の方々との交流はとても貴重な体験でした。
改めてお礼申し上げます。ありがとうございました。

片岡巌の曽孫、台湾にて、原子力発電に反対する呉慶年教授に出会う。
台湾に11・9から4泊5日で行きました。大変楽しく密度の濃い旅でした。詳しくいずれ皆さんに報告できると思いますが、取り急ぎ台南の成功大学にて夜の不思議な古老との出会いについて...

一年前のブログに感想文を書きました。

2012年09月28日 | Weblog
片岡巌と台湾語研究会

台湾風俗誌と僕。小さな頃、何故かキョンシー映画がすきだったぼくは、小学校の頃は少林寺拳法を習い、一つ上の姉がいたからと言う理由で自由の森学園に入り、中学校と高校時代を過ごす。...


全く同じようなところで行ったり来たりしているようで、もうすでにはるか遠くに来たような気もする。
相変わらずの毎日だけど、今は仕事と勉強の時期だ。過去は10年後に振り返る事にして、現状だけ記録しておこうと思います。
卒業研究の論文を11月6日までに書き終えること。
大学院の入試10月7日

バンドはしばらく休憩でも練習だけは続けて行く事。
辛島さんのドラムと嶋さんのギターでなにかやりたい。
家賃28000円の仮事務所を借りて勉強部屋を作る予定。
ほかにたくさんのご恩を受けたお返しをしたい。
以上今月の目標でした。

片岡巖の友人は?

2012年09月05日 | Weblog
僕にも友人がいる、
ちゃっかりしているやつもいれば、ずーっと見守っていてくれるような友人。。
多くの友人がいて僕がいる。
片岡巖だって、友達くらいいただろう。

台湾風俗誌を出版するのも友人の勧めだし、
書き上げるのだってきっと一人では書ききれない。
調査は一人では出来ないし。また、風俗誌の定本となったような本もあっただろう。
福島の友人、
明治29年に仙台から台湾に守備隊としてきた時の友人、
憲兵として転々としながらも、通訳として現地の人との友情、人情に触れたこともあっただろう。
また同じような興味を持つような人もいただろう。

台湾日日新報とは、薩摩派の台湾新報と長州派の台湾日報が合併した
最盛期5万部を発行する台湾の最大の新聞で、その新聞を中央の言論だとすると、
片岡の考えは色々な周辺の言論でもあったのでしょうか。

京都出身の森丑之助のような人にもまた片岡巖は、影響を受けただろう。

森は台湾原住民の研究者で、大正期に台湾原住民の研究では日本、台湾に於いて森にかなうものはいない
森と片岡は、手元に決定的な資料は無いが、おそらく、面識は有ったであろう。

片岡1876年生まれ、森も1877年生まれ、
年も近く、どちらかというと、
どちらもあまり恵まれた境遇とは言えない環境から、
新天地を目指して、期待を膨らませた。
若者たちの胸の中に、躍る夢は何だったのだろうか?
通訳としての台湾と日本の架け橋になり、また自分たちの眼でみたものを、公平な立場から伝えようとした。。

日本人と原住民の架け橋となった森丑之助の生涯は、最後は船から身投げをしてしまう。
(大正15年1926年7月)
原因は研究著述出版のための資金援助の打ち切りと、未帰順蕃のブヌン族シブクン蕃を政府の攻撃から安全な場所に移住させようとした「東埔楽園」移住計画の頓挫のための深い鬱病であったと言われる。


人類学のもつ特性、文明批評としての眼。台湾から見た日本。
植民地政策のために安易に命をすてたとは思えない。
政策が政策であったために、自分の命をかけて血を通わそうとした。
それは、まさに武士道とも言えるだろうか、そしてまた台湾原住民の心とも同じと。

その後、痛ましい霧社事件のことを知らずに、
森に続いて片岡も昭和5年にマラリアにて、この世から去っている。

彼らは自らの命をかけて

日本と台湾の架け橋を次の世代にわたして、、。

7月27日に拓殖大学を訪問しました。

2012年08月05日 | Weblog
森永信光の家族で写っている写真を、郵送で百年史の担当のS教授へ送らせて頂きました。
7月27日 金曜日、平日の休みを利用して、拓殖大学に行って校舎を観てみようと思いました。
茗荷谷から歩いて徒歩、6分ぐらい。校門をくぐると、正面に新しい校舎があり、
垂れ幕でロンドンオリンピックに出場する選手の名前が書いてありました。

そう。拓殖大学はすごいスポーツ選手を沢山出している事でも有名です。
右手に立派な古い建築が綺麗な状態で残っていました。
(昭和初期の校舎を保存して新たに修築してあるそうです)

その古い建築がシンメトリーになっていて、とても綺麗でした。
正面玄関の右手に桂太郎先生の像もあります。
自動ドアを開けて中に入ってみると、中は空調が効いて涼しく、明かりは新しいシャンデリアです。
案内板に百年史編纂室と書いてあった。
S教授にまだ、お会いしていないので、もしかしたらいらっしゃるかもしれない。
ぜひお会いしてみようと、突然ですが、何の用意も無しに、
階段を上がり3階に行き、ドアを開けてみました。

中には、数名の先生が机に向かっていましたが、突然の訪問者に快く対応していただき、
手を休めて小一時間ほど台湾と拓殖大学の関係の歴史を教えていただきました。
S教授は今日はお休みでしたが、他の先生方から、貴重な本や資料を頂いたり、卒業生たちの事や、
文章を書く時の注意するポイントなどいろいろな教えていただきました。

信光が居た第一期の頃は、校舎は別のところにあり、その古い頃は写真は無いのですが、
絵が2階の廊下に飾ってありました。洗い直して、描いたばかりのような鮮やかな色を出している油絵は、
校舎裏の倉庫に長いこと眠って居たそうです。
そのあと校舎をぐるりと見学して、夕方までゆっくり、考えにふけったり、
改築中の校舎をみたり、道ゆく学生たちの中に息づく校風みたいなものを感じ取ったりして、、、。

わからないことがあったらいつでもいらっしゃいと言って頂いたので、
信光の手紙や日記を持ってぜひまた、伺いたいと思います。
帰り道はぐるっと寄り道して拓殖大学の国際教育会館にも行きました。
こちらも素敵な建物でした。こちらもまた伺いたいと思います。

森永信光のこと

2012年07月14日 | Weblog
先週のお昼に家の方に拓殖大学の方から電話で連絡が来た。
そして
昨日、
S教授から大学の歴史を綴った

「拓殖大学百年史(大正編)」が自宅に届いた。

さっそくページを開いて見ると、

台湾協会学校から始まったその歴史
その第一期生である森永信光は明治33年に入学,36年に卒業後.台湾総督府外事課に就職。
その後、東石郡の郡守として大正9年から地方分権「五州三庁制度」の一端を担う。
大正12年4月に退官し帰国。
とここまでちゃんと書かれていたが
その後の事がよくわからないというので、ご質問を受けたが、
僕も本人ではないのでよくはわからないので推測や憶測でしか言えなかったが、
きちんとデータから出ているところはお伝えした。

その頃の拓殖大学は、
桂太郎が創立者で、後藤新平や新渡戸稲造なども名前が出てくる。
まあ、その人たちが信光のことを知らないとは思うけど。
でも学生の数は少なかったから知ってたかもしれない。
信光は帰国後、日本では、
福井にて老後を過ごすつもりであったが、空襲にて妻と長女を失うと、次男の神戸のところに、そして福島の長男のところで過ごした。
仕事も何かといろいろとやろうとはしていたが、
神官の資格を取り、戦争や震災で亡くなった方の供養をして回り、晩年は囲碁と文学と酒を愛していた。

S教授とはお互いに意見を交換し、推測を修正をして頂いたり。
お互いにこれからのことを考えると、あと十年後には日本も台湾も戦時中の事を知っている人がほとんどいなくなってしまう事。だからなるべく急がなくてはならない、、、。
今でさえ90歳の台湾で日本人と一緒に暮らしていた人だって、子供の頃の記憶があっても、
当時のことを正しく理解できていたかはわからない。さらにその後の未来を考えると不安になる事は多い。