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日記。

臺俗瑣談 1910年12月10日

2014年08月23日 | 臺法月報
臺俗瑣談

旧弊瑣談

 所変われば品変わるとは古い文句だが、内地と本島とは元是れ同文同宗教の点から、日常の瑣事にまで類似は多いが、さてその理由がまたしても異なるから妙だ。茲に記す一項もその一つである。
内地でも死人を棺に納めるときに、六道銭や珠数草鞋、さては空木(うつぎ)麻殻(おがら)の杖を棺中に入れる通り、本島もこれに似た事をする。即ち今茲に「天寿を以て終わった者があるとする。」而すると其棺には、「桃枝に握り飯、龍銀一圓」に一文か三文の銭を添えて入れ、死者の枕頭の両端には「鶏毛」を一本づつ挿す、これが例になって居る。今其理由を聞くに、人死して陰間即ち地獄に行く、その途中若し犬にでも吠えられると、その時は「桃のこの枝で追い払う」けれども犬奴が逃げない時は「握り飯を與て此の難関を通過する」のだと云う迷信を抱いて居る。而も亡者の最も恐るゝものは犬だとは、愈々以て奇なりと云うべしだ。次に鶏毛は如何かと云うと、亡者が陰間に行った後、所用あって娑婆に来ることがある。その時は先ず閻魔大王の許可を得て行く、而も「其地獄の門限が鶏鳴なので」、これに遅れたら亡者には一大事であるから、「其記憶を喚び起す為に鶏毛が入用だ」なぞは少々お伽式だ。龍銀と銭は内地同様、但し十萬億土を一圓で旅行するなどは奇跡然(ミステリヤス)とした迷信であろう。
 ところで、特例と云うのがある。それは人の為めに「殺害され」たりして往生を遂げたもので其加害者が不明だと、納棺の際には柳の枝を入れる、これは「柳の枝は劍に代えて加害者を捜索し、首尾よくこの劍で仇討をせよ」と云う意味だそうだ。
ちょっと振るっている。本当に柳劍という言葉がある、これは柳の葉の先が尖っていて劍尖に似ているから云うのだが、さりとて此の迷信になんらの因縁があるのか、その處は先ず疑問である。
次に特例の一つ、平素から嫌悪され、一日も速く死ねとばかりに扱われた人が死ぬとする場合だ、即ち姦夫姦婦なだの類いでその基本夫が可哀そうにも死んだとするか又は姦夫姦婦はその死を待つの餘り遂に絞殺か毒殺でとどめを刺すその場合、棺の中鶩(あひる)の卵を煠でた奴を死人の手に握らし『この卵の孵化する時には復たこの世に戻ってこい!』と吐かし、因果を含ませる。けれど煠でた卵が孵化する例がないから、畢竟世に来るなと云ふことになる、生前虐待したに係わらず、猶飽き足らず死後まで恁うやるなどは憎らしい位の悪習だが、この中には灣民気質がよく見られるが面白い。

1910年12月10日 「臺法月報第4巻第12号」p162~164投稿記事
臺俗瑣談 終

法院月報

2014年08月23日 | 法院月報
 法院通訳の月報、「法院月報」(1911年より「臺法月報」と改名)は、
臺灣語学習者向けの雑誌、「語苑」と比べると、
臺灣地方法院の通訳者たちが中心となって記事を構成していることが雑誌名からもわかる。
もしかして、警察官は警察官の雑誌があったのかな?



資料は六本木にある台湾文化協会の図書室のマイクロフィルムから拾いました。


「法院月報(臺法月報)」の中で、「片岡巖」の記名入り記事




字縜の解      1910年10月10日

臺俗琑談      1910年12月10日

贌の字       1911年 7月23日  「臺法月報」

壬子年頭の感    1912年 1月20日

安平偉感      1912年2月22日

臺灣人と職業的信仰 1912年3月20日

革命歌と本島人   1912年5月20日

迷信一束 1    1912年6月20日

迷信一束 2    1912年7月20日

迷信一束 3    1912年8月20日

迷信一束 4    1912年9月24日

迷信一束 5    1912年11月22日

迷信一束 6    1912年12月20日

牛         1913年1月20日

○         1913年2月20日

臺風灣俗      1913年3月20日


字縜の解 1910年10月10日

2014年08月23日 | 臺法月報
字縜の解

 禮儀三百、威儀三千なぞと云っても、其實一向に実行されず、徒に冗文となり終わる今日、これも其の餘影か現に本島に存在して居る字縜(字輩とも云う)が夫れである。 
即ち字縜と云うのは、本島では貴賤貧富の諭なく、何人でも附有するもので、之に依りて長幼尊卑の順序を分かつのである。
これも臺灣風俗の一つであろう。
 さてこの字縜は、『百家の姓に各異なる字縜を有し、同姓のものも其の先祖出所が異なれば、従ってこの字縜が異なるのである。
即ち字縜の一字を以て、一代とすると云うことから、福慶榮誉に因める文字を選ぶ、』其の文字數は八字或十字十二字なぞ、多いのは三十二字のもあるが、これ以上はない、三十二字が一定限としてある。
若し之れで盡れば、更に別字を選定するのである。流石は文字の國の餘影が認められる。
今一寸と二三の例を記すと、『或る黄家』では、「維源俊徳長發於祥」の八字を選び、維が一代、源が二代、俊が三代と、恁う順次に代をも數える、又或る『邱家』では、「詩禮傳家創國瑞列」とやるし、長い奴では、或る昌家の「金華發祥蕃衍朝漳傳芳、禮學詔美文章百千萬世、甲地賡楊英俊尉起永際其昌」なぞ三十二文字もあって、即ち三十二代と云うのである。その他或る『李家』の「榮華富貴詩禮傳家英祖遙宗」の十二字即ち十二代、或る『楊家』は「模炳浚鋒涵材稀鏡錫耽」の十字、即ち十代なぞも面白い。
以上の如く『一般の楊又は李家と云わず』「或る楊家、或る李家」とせしは、前述の如く
『同姓でも祖先の出所に依ってかく字縜を異にするからである。』次に『同姓』のを記すと、武功周と云うのには「朝庭必嘉士宗祖宜賢孫」の十字十代があり、また汝南周のには「朝庭學道士」云々のもある。
であるから、同姓でも一概には同一字縜であるとは云えない。
 處で下流社會になると、あるにはあるが、「字縜の何たるを知らない。」けれども流石は臺灣、「中流や上流の連中なぞは往々「爾是甚麽字縜(字輩)」即ち貴殿の字縜は何ですか、問いを発するのを、耳にすることがあるが、これは取りも直さず、字縜の上下を問い出して、相當の敬意を表せんとするのである。これも亦た一風俗である。

今、系統図に於いて図解説明をすると、『黄家』「維源俊徳長發於祥」の系統は左の如くである。


1代、黄維元→維祥―源来―俊皮―徳木
              ↘俊来―徳来―長發―水發(十二歳)

2代、水源→源吉―俊目―徳芳―長發

3代、俊木→其俊―徳禄―長―樹發

4代、徳坑→徳隆、徳福

5代、長久

6代、金發→發水、發枝

7代、於天

8代、永祥(ニ十歳)
(備考表中の字の附しあるものは維字縜源の字を附したるものは源字縜なり)


 これで其字縜の一字を、通字として命名してあるのが知れよう。
而してこの字縜は、長幼を諭ぜざるもので、永祥はニ十歳なるに、十二歳の水發を、尊敬しなければならない。
これは字縜の関係だ。で、永祥で字縜が盡るから、永祥の子には更に「別の字縜」を選擇せねばならないことになる。
而して黄維元は第一祖で、それ以下は第二第三となるのだ、けれども以上の関係から、始めの黄字の字縜と、後の黄字の字縜と、異なることになるのである。



1910年10月10日発行

臺法月報第4巻第10号 P128~130

字縜の解 終