臺俗瑣談
旧弊瑣談
所変われば品変わるとは古い文句だが、内地と本島とは元是れ同文同宗教の点から、日常の瑣事にまで類似は多いが、さてその理由がまたしても異なるから妙だ。茲に記す一項もその一つである。
内地でも死人を棺に納めるときに、六道銭や珠数草鞋、さては空木(うつぎ)麻殻(おがら)の杖を棺中に入れる通り、本島もこれに似た事をする。即ち今茲に「天寿を以て終わった者があるとする。」而すると其棺には、「桃枝に握り飯、龍銀一圓」に一文か三文の銭を添えて入れ、死者の枕頭の両端には「鶏毛」を一本づつ挿す、これが例になって居る。今其理由を聞くに、人死して陰間即ち地獄に行く、その途中若し犬にでも吠えられると、その時は「桃のこの枝で追い払う」けれども犬奴が逃げない時は「握り飯を與て此の難関を通過する」のだと云う迷信を抱いて居る。而も亡者の最も恐るゝものは犬だとは、愈々以て奇なりと云うべしだ。次に鶏毛は如何かと云うと、亡者が陰間に行った後、所用あって娑婆に来ることがある。その時は先ず閻魔大王の許可を得て行く、而も「其地獄の門限が鶏鳴なので」、これに遅れたら亡者には一大事であるから、「其記憶を喚び起す為に鶏毛が入用だ」なぞは少々お伽式だ。龍銀と銭は内地同様、但し十萬億土を一圓で旅行するなどは奇跡然(ミステリヤス)とした迷信であろう。
ところで、特例と云うのがある。それは人の為めに「殺害され」たりして往生を遂げたもので其加害者が不明だと、納棺の際には柳の枝を入れる、これは「柳の枝は劍に代えて加害者を捜索し、首尾よくこの劍で仇討をせよ」と云う意味だそうだ。
ちょっと振るっている。本当に柳劍という言葉がある、これは柳の葉の先が尖っていて劍尖に似ているから云うのだが、さりとて此の迷信になんらの因縁があるのか、その處は先ず疑問である。
次に特例の一つ、平素から嫌悪され、一日も速く死ねとばかりに扱われた人が死ぬとする場合だ、即ち姦夫姦婦なだの類いでその基本夫が可哀そうにも死んだとするか又は姦夫姦婦はその死を待つの餘り遂に絞殺か毒殺でとどめを刺すその場合、棺の中鶩(あひる)の卵を煠でた奴を死人の手に握らし『この卵の孵化する時には復たこの世に戻ってこい!』と吐かし、因果を含ませる。けれど煠でた卵が孵化する例がないから、畢竟世に来るなと云ふことになる、生前虐待したに係わらず、猶飽き足らず死後まで恁うやるなどは憎らしい位の悪習だが、この中には灣民気質がよく見られるが面白い。
1910年12月10日 「臺法月報第4巻第12号」p162~164投稿記事
臺俗瑣談 終
旧弊瑣談
所変われば品変わるとは古い文句だが、内地と本島とは元是れ同文同宗教の点から、日常の瑣事にまで類似は多いが、さてその理由がまたしても異なるから妙だ。茲に記す一項もその一つである。
内地でも死人を棺に納めるときに、六道銭や珠数草鞋、さては空木(うつぎ)麻殻(おがら)の杖を棺中に入れる通り、本島もこれに似た事をする。即ち今茲に「天寿を以て終わった者があるとする。」而すると其棺には、「桃枝に握り飯、龍銀一圓」に一文か三文の銭を添えて入れ、死者の枕頭の両端には「鶏毛」を一本づつ挿す、これが例になって居る。今其理由を聞くに、人死して陰間即ち地獄に行く、その途中若し犬にでも吠えられると、その時は「桃のこの枝で追い払う」けれども犬奴が逃げない時は「握り飯を與て此の難関を通過する」のだと云う迷信を抱いて居る。而も亡者の最も恐るゝものは犬だとは、愈々以て奇なりと云うべしだ。次に鶏毛は如何かと云うと、亡者が陰間に行った後、所用あって娑婆に来ることがある。その時は先ず閻魔大王の許可を得て行く、而も「其地獄の門限が鶏鳴なので」、これに遅れたら亡者には一大事であるから、「其記憶を喚び起す為に鶏毛が入用だ」なぞは少々お伽式だ。龍銀と銭は内地同様、但し十萬億土を一圓で旅行するなどは奇跡然(ミステリヤス)とした迷信であろう。
ところで、特例と云うのがある。それは人の為めに「殺害され」たりして往生を遂げたもので其加害者が不明だと、納棺の際には柳の枝を入れる、これは「柳の枝は劍に代えて加害者を捜索し、首尾よくこの劍で仇討をせよ」と云う意味だそうだ。
ちょっと振るっている。本当に柳劍という言葉がある、これは柳の葉の先が尖っていて劍尖に似ているから云うのだが、さりとて此の迷信になんらの因縁があるのか、その處は先ず疑問である。
次に特例の一つ、平素から嫌悪され、一日も速く死ねとばかりに扱われた人が死ぬとする場合だ、即ち姦夫姦婦なだの類いでその基本夫が可哀そうにも死んだとするか又は姦夫姦婦はその死を待つの餘り遂に絞殺か毒殺でとどめを刺すその場合、棺の中鶩(あひる)の卵を煠でた奴を死人の手に握らし『この卵の孵化する時には復たこの世に戻ってこい!』と吐かし、因果を含ませる。けれど煠でた卵が孵化する例がないから、畢竟世に来るなと云ふことになる、生前虐待したに係わらず、猶飽き足らず死後まで恁うやるなどは憎らしい位の悪習だが、この中には灣民気質がよく見られるが面白い。
1910年12月10日 「臺法月報第4巻第12号」p162~164投稿記事
臺俗瑣談 終