今日は福島へ楊先生が友達と来てくださいました。
思えば東日本大震災の時からもう13年が経ちました。
楊先生は学生時代の友人とその学校の元の校歌を作詞した野口雨情の記念館にも行く予定だそうです。僕は仕事のため東京でお留守番ですが、母の姉夫婦と、その子孫が会えたそうです。
3/14には講演があったらしく、そこでもう1人の台湾にて東石郡郡守をしていた森永信光氏の事を発表してくださったそうです。
今日は福島へ楊先生が友達と来てくださいました。
思えば東日本大震災の時からもう13年が経ちました。
楊先生は学生時代の友人とその学校の元の校歌を作詞した野口雨情の記念館にも行く予定だそうです。僕は仕事のため東京でお留守番ですが、母の姉夫婦と、その子孫が会えたそうです。
3/14には講演があったらしく、そこでもう1人の台湾にて東石郡郡守をしていた森永信光氏の事を発表してくださったそうです。
なにか最近よく思い出すので
2018年のときに郡山市音路というところにある土佐藩の墓地にある南部宗長さんのお墓の後ろに書いてある墓碑の文字をノートにおこしてみました。
それを当ブログに載せておきます。
何故なら片岡巌が臺南で昭和5年に亡くなったのち妻の和子(ニギコ)がここの墓に埋葬したからです。
南部宗長はその和子の祖父にあたります。
自転車で朝夕通う中央区の区役所が土佐藩の下屋敷だったから築地あたりには土佐藩の藩士も多かったんだろうなあと思いつつ。(2018当時自分は自宅から新富町までは電車で新富町から有明まで自転車通勤してました)
ちなみに南部宗長さんは僕の母の母の母の母の父
お墓の後ろに書いてある文により
因幡守高忠を先祖とし、その人は奥州から来た旅の僧侶で高岡藩の米野河村(現在の四万十町、一斗俵)を開墾したそうです。
(新天地に行ったり、開墾してる人が多い家系です)
田口求道の長女を妻としていた南部宗長は高知から東京で築城と砲術を学んでその後福島へ来て安積開墾事業をしてきた事がわかります
検索してみると
岡山篤次郎という会津藩少年兵について知ることが出来ました。
彼の死を家族に伝えたのは南部宗長だったとか
http://aozorabower.web.fc2.com/hitobito/okayamatokujiro.html
鹿持雅澄の万葉集の出版にも携わっていたようで奥付に名前がある版があります。
宗長にとって祖父にあたる南部巌男(いつお)は歌人
南部宗長さんの妻の父は田口求道という土佐藩医だそう。
田口求道について
(コメント欄に記事を引用させていただいてます)
https://tosareki.gozaru.jp/tosareki/asakura/taguchi/kyudo.html
田口求道そしてその息子田口文良の墓碑に書かれてることがわかります。
南部宗長と共通点が多くそこには繋がりを見つけることができます。
南部宗長の墓碑に書かれている文面を書き取りました。
『南部宗長
姓南部名宗長清和源氏之末裔也
祖南部因幡守高忠城守土佐國高岡郡
米野河村居之其末係仲助字厳男〇三子宗長即長男
天保十二年正月五日生於土佐國土佐郡小高村仕藩主山內候
明治二年5月4日為砲術並築城学修業被差遣東京明治四年十一月八日為兵部省出仕
被補陸軍省十一等出仕在職十六年克精勤以功積顯著也偶々坂本常太郞氏〇(遝?)去
此地宗長抱殖產大志願以継承其事業刻苦勉励躬枝私財行農作試験示其成積以誘啓富業者寔多
又在村農會長之栄職十数年且又為農事措導員巡迴各地盡力農事改良宣傳大
稗益鄉黨終始蕩盡自費一切不受報酬因其勤労受領縣知事閣不及郡農會之褒賞前後数回也
偶々爲二豎所襲大正四年七月十七曰、病沒享壽七十六歲翁
資性豪毅躯幹牢大沈〇且寡言而酒量蒙朋〇酒不猶辞而未嘗見陶踫也
室田囗求道氏長女大正十二年病沒享年七十九歲
葬翁側余嘗爲翁孑弟親接其温谷令當建翁〇〇旧之情不能禁聊録略歴貽無窮云爯
干時昭和六年夏
弘田良馬稱』