ガルシア(Vn)メニューイン指揮イギリス室内管弦楽団(ARABESQUE)CD
なだらかな、ほとんどが全音符ではないかという心象風景をうつした弦楽アンサンブルの上、トリルを駆使して上がり下がりを繰り返す雲雀のさまをヴァイオリン小協奏曲の形式にうつした音画である。元になっている詩があることだし内容的に音詩と言ったほうがしっくりくるか。私はRVWにこの曲から入った。ラジオで聴いて何て曲だ、とすぐに譜面を取り寄せ弾いてみた。この譜面がまた小節線が省かれたカデンツァが有機的に織り交ざりリズムもラヴェルのように自由で、しかしそこから浮かび上がってくる世界は紛れも無い素朴な民謡音楽の世界。リズムの切れが感じられない、全曲がスラーで繋がったような何とも不思議な譜面である。聴いた演奏のせいか五音音階が際立ちひときわ日本民謡に近いものを感じさせ、清澄で単純な宗教性すら醸す響きにかかわらず、卑近で世俗的な面も持ち合わせた不可思議さが何とも言えない魅力をはなっていた。なんとなく坂本龍一の音楽を彷彿とさせた。それほど難しい技術を要するものでもなく(バックオケは尚更単純ではあるのだが)、だからこそ解釈しがいがあり、学生時分はずいぶんと弾いたものである。発表の機会はついぞなかったが、ここまで内面的な曲に発表の機会なぞ不要とも感じた。
あくまで意図は雲雀の飛ぶさまを描写する点にあり、極力抑制されるバックオケはいわば緩やかな起伏に彩られたどこまでも続く農地や草原をあらわせればそれでよい(だからコンサートの演目にしにくいのかもしれない)。雲雀は重要である。最初に聴いて以降この曲に対して私はまったく譜面しか相手にしていなかったので、自分の中で消化したうえのテンポとアゴーギグを、雲雀のさまとして投影しようとした。
・・・楽器はもうずいぶん弾いていない。この曲となれば、若さの表徴のようなこの曲となれば尚更、弾けない。しかし頭の中ではずっと鳴り響いていたものがあり、それは私自身の解釈によるものであった。
最近聴いた演奏で私は少し驚いた。
物凄く遅いのである。
雲雀は優雅に滑空してまわる大鳥ではない。鳶とは違う。不意にぴいっと鳴いてひらりと舞い降り、またのぼっていく、見えない羽虫を巧みに捕らえながら、碧空に軌跡をひくのである。
何もなく平和に飛んでいる、しかし急にせわしなく、その瞬発力をどう表現するか。
ある程度のスピードが必要であり、その変化はテンポだけに留まらず音にもあらわれなければならない。牧歌的というRVWのイメージに統一してはいけないのだ。ソリストは俊敏でなければならない。
だが・・・この演奏もそうなのだが、ソリストも含め、遅すぎる。トリルがのんべんだらりと歌われすぎていて、雲雀は落下しそうだ。テンポも表現も生硬で一定にすぎる。純音楽的にやろうとした、と好意的に言うこともできるが、それでは曲が死んでしまう。描写対象のない描写音楽は空疎にしかなりえない。こういうやり方では空疎で印象に残らない音楽にしかならない。これがこの曲が余り演奏されない真の理由にも思えた。
音色にも何もあらわれない。いや音色は金属質でいいのだ、しかしそのぎらっと輝く瞬間を、アクセントのきいた下降音形に投影しないと、それが雲雀が羽を翻して下降するように聞えないのである。
この盤は全般にまずい。生硬でアンサンブルもぎくしゃくしておりスムーズさがない。解釈はまったく一直線で素人臭い。せっかくのいい曲も、凡庸に聞える。メニューヒンたるもの・・・と思ってしまう。この協奏曲はソリストはメニューヒンではないが、技術的に安定しないのは晩年のメニューヒンに似ている。この簡便な曲でそれでいいのか、という怪しい箇所すら見える。うーん。。
無印。
(参考)マリナーは絶対に外せないRVW演奏における現代の名手です。アイオナ・ブラウンとのこの録音は古典といっていい。カップリングも素晴らしい。RVWを堪能することができます。
ヒラリー・ハーンのこのSACDが目下有名なようですね。エルガーとのカップリングです。
ナイジェル・ケネディもすっかり普通のソリストですね。
↓の評価ボタンを押してランキングをチェック!
なだらかな、ほとんどが全音符ではないかという心象風景をうつした弦楽アンサンブルの上、トリルを駆使して上がり下がりを繰り返す雲雀のさまをヴァイオリン小協奏曲の形式にうつした音画である。元になっている詩があることだし内容的に音詩と言ったほうがしっくりくるか。私はRVWにこの曲から入った。ラジオで聴いて何て曲だ、とすぐに譜面を取り寄せ弾いてみた。この譜面がまた小節線が省かれたカデンツァが有機的に織り交ざりリズムもラヴェルのように自由で、しかしそこから浮かび上がってくる世界は紛れも無い素朴な民謡音楽の世界。リズムの切れが感じられない、全曲がスラーで繋がったような何とも不思議な譜面である。聴いた演奏のせいか五音音階が際立ちひときわ日本民謡に近いものを感じさせ、清澄で単純な宗教性すら醸す響きにかかわらず、卑近で世俗的な面も持ち合わせた不可思議さが何とも言えない魅力をはなっていた。なんとなく坂本龍一の音楽を彷彿とさせた。それほど難しい技術を要するものでもなく(バックオケは尚更単純ではあるのだが)、だからこそ解釈しがいがあり、学生時分はずいぶんと弾いたものである。発表の機会はついぞなかったが、ここまで内面的な曲に発表の機会なぞ不要とも感じた。
あくまで意図は雲雀の飛ぶさまを描写する点にあり、極力抑制されるバックオケはいわば緩やかな起伏に彩られたどこまでも続く農地や草原をあらわせればそれでよい(だからコンサートの演目にしにくいのかもしれない)。雲雀は重要である。最初に聴いて以降この曲に対して私はまったく譜面しか相手にしていなかったので、自分の中で消化したうえのテンポとアゴーギグを、雲雀のさまとして投影しようとした。
・・・楽器はもうずいぶん弾いていない。この曲となれば、若さの表徴のようなこの曲となれば尚更、弾けない。しかし頭の中ではずっと鳴り響いていたものがあり、それは私自身の解釈によるものであった。
最近聴いた演奏で私は少し驚いた。
物凄く遅いのである。
雲雀は優雅に滑空してまわる大鳥ではない。鳶とは違う。不意にぴいっと鳴いてひらりと舞い降り、またのぼっていく、見えない羽虫を巧みに捕らえながら、碧空に軌跡をひくのである。
何もなく平和に飛んでいる、しかし急にせわしなく、その瞬発力をどう表現するか。
ある程度のスピードが必要であり、その変化はテンポだけに留まらず音にもあらわれなければならない。牧歌的というRVWのイメージに統一してはいけないのだ。ソリストは俊敏でなければならない。
だが・・・この演奏もそうなのだが、ソリストも含め、遅すぎる。トリルがのんべんだらりと歌われすぎていて、雲雀は落下しそうだ。テンポも表現も生硬で一定にすぎる。純音楽的にやろうとした、と好意的に言うこともできるが、それでは曲が死んでしまう。描写対象のない描写音楽は空疎にしかなりえない。こういうやり方では空疎で印象に残らない音楽にしかならない。これがこの曲が余り演奏されない真の理由にも思えた。
音色にも何もあらわれない。いや音色は金属質でいいのだ、しかしそのぎらっと輝く瞬間を、アクセントのきいた下降音形に投影しないと、それが雲雀が羽を翻して下降するように聞えないのである。
この盤は全般にまずい。生硬でアンサンブルもぎくしゃくしておりスムーズさがない。解釈はまったく一直線で素人臭い。せっかくのいい曲も、凡庸に聞える。メニューヒンたるもの・・・と思ってしまう。この協奏曲はソリストはメニューヒンではないが、技術的に安定しないのは晩年のメニューヒンに似ている。この簡便な曲でそれでいいのか、という怪しい箇所すら見える。うーん。。
無印。
(参考)マリナーは絶対に外せないRVW演奏における現代の名手です。アイオナ・ブラウンとのこの録音は古典といっていい。カップリングも素晴らしい。RVWを堪能することができます。
![]() | Vaughan Williams: Fantasies; The Lark Ascending; Five VariantsArgoこのアイテムの詳細を見る |
![]() | English Folk Song Suite / Lark AscendingAcademy of St Martin in the FieldsAsv Living Eraこのアイテムの詳細を見る |
ヒラリー・ハーンのこのSACDが目下有名なようですね。エルガーとのカップリングです。
![]() | Elgar: Violin Concerto; Vaughan Williams: The Lark Ascending [Hybrid SACD]Deutsche Grammophonこのアイテムの詳細を見る |
ナイジェル・ケネディもすっかり普通のソリストですね。
![]() | Elgar: Violin Concerto/Williams: The Lark AscendingEMIこのアイテムの詳細を見る |
↓の評価ボタンを押してランキングをチェック!



