既出かもしれない。録音状態は雑音が多いが同時期のワルターライヴとしては標準的。演奏はかなりスピーディでインテンポ気味に力強く押してくるスタイルで、30年代ヨーロッパライヴを彷彿とさせるもの。マーラーでも民族的な舞踏要素の目立つ楽曲だが、装飾音符の頭を強調しリズムに独特の民族性を持たせている部分が目立つ。ボストンというわりとヨーロッパ的といわれるオケのせいもあるのかもしれないが、アメリカオケのイメージとはちょっと違った印象を受ける。2楽章終わりで拍手が入ってしまい、ワルターはそれを無視して3楽章に突入するというハプニングがある。この曲が知られてなかった証左かもしれない。3楽章はいつものワルター節だ。ソリスト不詳。○。
既出かもしれない。録音状態は雑音が多いが同時期のワルターライヴとしては標準的。演奏はかなりスピーディでインテンポ気味に力強く押してくるスタイルで、30年代ヨーロッパライヴを彷彿とさせるもの。マーラーでも民族的な舞踏要素の目立つ楽曲だが、装飾音符の頭を強調しリズムに独特の民族性を持たせている部分が目立つ。ボストンというわりとヨーロッパ的といわれるオケのせいもあるのかもしれないが、アメリカオケのイメージとはちょっと違った印象を受ける。2楽章終わりで拍手が入ってしまい、ワルターはそれを無視して3楽章に突入するというハプニングがある。この曲が知られてなかった証左かもしれない。3楽章はいつものワルター節だ。ソリスト不詳。○。
録音は最高レベルのステレオ。演奏は分厚い響きでヨーロッパの楽団のように重みある表現をなしており、異様な精度の高さとあわせてこのオケの懐深さを感じさせる。厳しい統制や組み立ての明確さはセルを思わせるところもある(しかしセルとは違い音楽的だ)。若々しい曲なのに何か老人の回顧する若き日の幻想のような、滋味が染み出してくるところがいい。冷静に言えば情緒的な場面が少ないラインスドルフの無難な解釈によるものであるが、3楽章、4楽章の緩徐部のしっとりした、それでいて緊張感を失わないカンタービレはとりわけ深い情趣をかもし、晩年の9番あたりの雰囲気を漂わせている。そこだけが聴き所と言ってもいい・・・すれっからしには。たとえば最後などあっさりしすぎており、即物的な軽さがあり、まとめて全般普通と聴こえるのだが、普通の人には、とりわけ初心者には過度なデフォルメがないゆえ、向いているのかもしれない。ライヴでこの精度であればブラヴォが出るのは当然か。○。
(参考)1,3番のボストン・RCA録音廉価盤。あるていどマーラーを知っている人なら6番のほうが入りやすいかな。
![]() | Mahler: Symphony 3 & 1RCAこのアイテムの詳細を見る |
↓の評価ボタンを押してランキングをチェック!




バーンスタイン指揮VPO(DA他:CD-R)1974/10/8パリlive
重い。悪い録音のせいもあるとはいえ生気なく遅い。4楽章終盤を除けばかなり「客観的な」演奏のようにも聴こえる。フレージングに持ち味のねちっこさや特有の表情付けがあらわれているとはいえ、この鈍重さではブレのひとつの現れとしか聞き取れず、何を言いよどんでいるのか、といった感を最後まで抱き続けた。キーにも馴染めない。聴衆反応も冷たい。無印。
(参考)VPOとの映像全集から最近分売されたこちらはほぼ同時期のもの。1~3番。![]() | マーラー:交響曲第1番ニ長調《巨人》ユニバーサル ミュージック クラシックこのアイテムの詳細を見る |
![]() | Mahler: Symphony No. 1Deutsche Grammophonこのアイテムの詳細を見る |
↓NYPの旧全集盤
![]() | Mahler: Symphony No. 1; AdagioSonyこのアイテムの詳細を見る |
○ボールト指揮BBC交響楽団他、カスリーン・フェリア(CA)(TESTAMENT)1947/11/29放送用スタジオ録音・CD
新発見の音源で非常に珍しい。録音状態はかなり厳しいがテスタメントは何とか聞けるレベルには持ってきている。遅く重苦しい出だしからしばしば大太鼓が派手に鳴り響き、まさにマーラー的な深刻な音楽が展開されていく。序奏部からしてただの主部の付け足しではなく役割をもってしっかり設計されており、この指揮者が手遊びで同曲に取り組んだわけではないことが伺える。ボールトはけしてマーラーに疎かったわけではなく積極的に取り組んでおり、歌曲伴奏録音など有名だが、レコード市場的にはアルマ夫人に認められたバルビの影に隠れてしまった感は否めない。しかしもともとドイツ流儀に憧れイギリスでは珍しい重厚なスタイルを持ち味とした指揮者であり、ライプツィヒでは同曲の初演者ニキシュを心の師と仰ぎ学んだ(この時代のライプツィヒはイギリス人にとっても音楽教育の首都であった)、マーラーに近い場所同じ時代の空気をまさに吸っていた人である。マーラーが下手なわけがない。手兵BBC響もマーラーは勝手知ったる作曲家である、もちろん時代なりの精度ではあるにせよこの時代のオケとしてはかなりの技術と集中力をもって壮大な音楽を繰り広げている。
行進曲部ではヴァイオリンの水際立った律動が楽想の変化を明確化し、瑞々しく音楽を盛り立てていく。曖昧さの無さが特徴的だ。リズムは厳しいが主題はつねにレガートで、この乖離具合にボールトらしさが感じられる。行進曲はボールトにはけして得意な分野ではないが、BBCの一糸乱れぬ弦のアンサンブルはその弱点を隠す。録音に音響的な広がりがないのが惜しい。輝かしい盛り上がりは重厚かつ壮大で、非常にダイナミックであり、ちょっと歌劇的なまでの表現力で音楽を盛り上げる。ボールトがやや即物的な傾向にあった時期ではあるが、エルガーのシンフォニー録音にも聴かれるようにBBCとはかなり派手な起伏のある演奏も行っており、バルビ的なロマンの表層性すら感じさせるくらいである。中庸の指揮者?それは晩年の話だ。陰鬱な再現部はこれ以上ないくらい暗く、沈潜する。これもまた劇的な重さで印象的。やや重さを引きずった形で再び行進曲が始まる。重さゆえややくどいが、音量的な迫力がより強まり、高音のトレモロなど装飾音形が煌びやかなのが印象的だ。BBCの力だろう。ドイツ後期ロマン派的な盛り上がりが圧倒的迫力で形作られる。打楽器とブラスの異様な凄まじさが悪い音の中からも聞き取れる。
2楽章はスピーディだが技術的に安定しニュアンス表現は巧みだ。また対位構造が単純化され明確に聞き取れるのはボールトらしい。中低音域のしっかりした明瞭な表現により高音域を引き立てる職人的技である。3楽章のメルヒェンでは相変わらずブラスに瑕疵があるものの、夢想的なパセージから重厚な盛り上がりまで明確な変化がつけられている(ちょっと響きが重いが)。性急なテンポだけれども立体的でリアルな作り方がボールトらしい。ペットソロはやや生々しく歌いすぎか。木管が夢幻的で舞台裏オケまでくまなく美しい。ハープや弦の細かい伴奏もとにかく水際立って巧い。時折まるでロシアオケのような激しいやりとりが、同曲の幻想交響曲パクリ的側面を強烈に抉り出している。最後の破裂が意外と破裂しないのは見識か。恐らく全体設計の中の整合性を重視しているのだろう。ただ、フィナーレはパーカスが派手に鳴り響くどんちゃんになっている。
歌曲楽章になっても相変わらずドラマティック。「原光」はハープが幻想的な雰囲気を盛り立てるように始まり、リアルなロマンの感じられる、呼吸するような起伏が荘重でやや生硬な歌唱に対し強くつけられている。後半になるに従ってフェリアの力量が出てきた感もある。5楽章はやや物足りない。冒頭の子供の合唱からして力感不足で、テンポも生硬なインテンポであり、らしくない。ゴングの音だけがボールトらしいドラマを感じさせる。荘重さは前楽章からの延長でもあり、見識ではあろうが。伴奏とはいえオケは決して手を抜かない。歌唱の下で何をやっているのか、はっきり聞こえるという意味ではボールトはあくまでシンフォニックな3番を指向しているのだろう。打楽器の悪魔的な重厚さだけは印象的。
↓の評価ボタンを押してランキングをチェック!




TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング
そして遅く、重厚な終楽章である。弦楽合奏をドイツ・ロマン派流儀でやることに関しては英国瑞逸。お涙頂戴の歌曲的ロマンに走らず、大編成オーケストラとしてのロマンチシズムの粋を見せる。ちょっとやそっと聞きかじって泣くたぐいのものではなく、時間をかけて心の底から深い感動を呼び起こすような演奏である。BBCの透明な音によって更に、教会音楽のようだ。長いけど。録音がかなり劣化しているのが惜しいのと、最後のコラールでやっぱりペットがしくってるのが気にはなる。ハーモニーバランスは理想的なのに。なめらかで壮大な音楽は完全に浸りきるように、大団円を形づくり終わる。ライヴに近い一発録音のような気がする。
録音状態からして◎にはできないが、ボールトのマーラーをうかがい知ることのできる数少ない録音のひとつとして価値がある。併録のクレンペラーの新発見伴奏音源を目当てにする向きは多かろうが(テスタメントにもその意図はあるだろう)、古い録音に抵抗のない向きは是非聴いてみてほしい。
なぜかテスタメントの新譜(2008年5月発売)がリストにないので参考までに巨人。
![]() | Mahler: Symphony No.1Everestこのアイテムの詳細を見る |
○バーンスタイン指揮NYP(WME,DA:CD-R)1986/3エイブリー・フィッシャー・ホールlive
DA未確認だが同一音源と推測される。WMEは不良品あり検品注意。録音は篭り、ステレオ状態はいいものの細部不明瞭で聴きにくい。演奏自体は基本的にリズミカル&スピーディでジャムセッションのようなアンサンブルの妙技を聴くたぐいの壮年期バンスタに近いもの。緩徐主題で異様にねっとりゆっくりうねるようにくねり踊るのが晩年バンスタらしい。わりとスケールの小さい演奏に聞こえるのは録音のせいかもしれないが、聴きやすさはあるもののそう取り立てて特徴的でもなく、好みもあろうが、この曲にお定まりのロマン性よりも前衛性だとか構築性だとか、マーラー中期純管弦楽作品の極致を期待する向きには陳腐で常套的に聞こえてしまうかもしれない。○。
(参考)
sony正規のSACD盤
マーラー:交響曲第7番「夜の歌」バーンスタイン(レナード)ソニー・ミュージックジャパンインターナショナルこのアイテムの詳細を見る |
四角四面で武骨で遅くつまらない解釈を施すイメージのある人ではあるが、縁深いウィーンのオケとやるとがぜん感情的でスピーディな表現を行う。だからホーレンシュタインは追う価値があるわけで、この演奏は「いい方」である。録音が時代からして極めて貧弱なので、絶対に薦められないが、ホーレンシュタインのガシンガシンと重い発音が、共感を音色に籠めて力強く歌うウィーン響と合致したとき、たとえばイギリスや北欧のオケとやったような無味乾燥さはいささかも感じられない。艶はないが感傷はある。4楽章の弦の迸る熱意、なめらかな表現、織り交ざるポルタメントの妙。厚い響きの歌が途切れることなく、ついえることもなく、足踏みしながら激しく、続く。ああ、ホーレンシュタインの音感覚というのはあくまで中欧のもともと色のついたオケでやることを前提にしており、それが差になってくるのか。アメリカ響のライヴやVOX録音に惹かれた向きにはお奨めする。男気溢れる熱情が構築性の中に活きている。1楽章も聞きものだが、個人的にリアルで生々しく、素晴らしく立体的な造形の施された4楽章が印象的だった。○。WMEはDA音源を利用した模様。
<ホーレンシュタインのマラ9 主要レコード>
![]() | Mahler: Symphony 9/KindertotenliederVoxこのアイテムの詳細を見る |
![]() | Mahler: Symphony No.9 & KindertotenliederMusic & Artsこのアイテムの詳細を見る |
(BBC legends/inta glio/M&A他)1963/7/30ロイヤルアルバートホール・プロムスlive・CD
![]() | Mahler: Symphony No. 2 BBCこのアイテムの詳細を見る |
BBCレジェンズはマスターからの良復刻。非正規盤はモノラルで余りよくない(intaglio)。残響付加がややうざいが重低音はなかなかに迫力がある(ストコの臨機応変なハーモニーバランスのとり方は実に素晴らしい、高音に偏重せず必要な音域を響かせる)。編成が極めて大きいから安定感があり貧乏さが皆無で安心して楽しめる(貧乏な復活は貧乏な千人同様聴くに堪えない、古楽器マーラーなんて言い出したらもう・・・)。演奏は冒頭より稀有壮大あるいはゴージャスで甘美あるいは厳しく邪悪なもので、メリハリがある、しかしスムーズな、いかにもストコだ。ロンドンオケにここまで隈取の強い音を出させるのもストコの魔術。
どうにも壮大なぶん遅い部分もあり、管楽ソロのミスも散見されるものの、弦楽器、とくにチェロバスの迫力が凄い。マイク位置のせいかもしれないが弓音がいちいち強く脂粉飛び散るが如くだ。派手なもののおおむね歌謡的な演奏で上記変化はメロディの動きに従属的に付けられたものだが、やりすぎといった違和感はない。対位的な動きもきびきびしたリズムにのってしっかり立体的に組み合って聞こえてくる。この曲を得意としたストコらしい板についたところである。遅いテンポと重い響きでダレる寸前に2楽章へいくのがうまい(1楽章と2楽章の間に休憩を入れるならまた違う表現になるのかも)。やや遅く構造がきちっとしすぎているものの小気味いい音楽ではある。3楽章は迫力あるティンパニから邪悪な音楽。4楽章「復活」はベイカーのそつない歌唱を芳醇でそっと包み込むオケが巧い。
終楽章は録音が捉えきれない迫力の表現から、ただ、ブラスがやっぱりいきなりしくっているのは気になる。直後、静かな表現のほうがストコの繊細な音響感覚を良く伝えている。終始リズムセクションがきっちり正しく刻んでいるのでダレない。ストコにバンスタのようなグズグズイメージを持っている人もいるが、曲によってはかなり厳しくリズムを意識した演奏を行う。スピードも相対的には遅くは無く、わりと攻撃的だ。弦のコントロール、ブラスの扱い共に自在なストコはこの終楽章では一長を持っている。いや、合奏部を生で聞いたら圧倒されたことだろう。さすがに生なのでセクション間で僅かに縦がずれるところもあるが芳醇な響きが打点をあいまいにするゆえ気にはならない。
行進曲は生気に溢れた独壇場だ。旋律に極端なテンポルバートをかけている記録もあるがこの演奏ではそれほど派手にはかけていない。バンスタの芸風で言えばNYP常任時代であってウィーン大好き自由契約時代ではない。バンスタ晩年のバブル来日の代演時はセレブが荒れたなあ。ホロヴィッツパニックとか、ほんとあほな時代だった・・・脱線した。舞台裏のバンダが大編成で派手に吹かしてびっくりするがそこがまたしっくりくるのがストコマジック。マーラーの指示なんてどうでもいいのだ。ある意味、音楽外効果に頼らない純音楽的配慮(そもそも舞台配置が特殊な可能性は高いが)。テンポが後半にさしかかってどんどん速めになっていくのはいつもの方法である。
天国から行軍ラッパが響いてきた情景とは到底思えないリアルな表現から、しかし合唱はとても美しい。このくらいの遅さでミスるのはロンドンの木管らしくない。伸び伸びと情緒たっぷりのボウイングが印象的な弦。各声部の絡み合いが実に美しく、そこから立ち上る混声合唱及び独唱の慎重に途切れない音、重層的な響きはここぞとばかりに情緒を畳み掛ける。独唱のやや浅い声に誘われ、音楽は終幕へと向かう。ストコの芸というより、このあたりはソリストと合唱指揮と総合的な芸となっていて、個性は情緒たっぷりのテヌート表現のみか。そこから焦燥感のない、壮大なクライマックスへと至り、ストコのカリスマ性を感じさせる盛り上がりが形成される。合唱はなかなか弾けないしブラスは重々しいアクセントを付けて煽ることは無いが、最後の最後にいきなり合唱がストコフスキ・クレッシェンドをかけてあっと言わせる。そこからはパウゼを伴うブラスとパーカスの派手派手な響き、最後の輪をかけたストコフスキ・クレッシェンドの凶悪さ、観客のブラヴォの渦。いや、千両役者だ。○。
![]() | Mahler: Symphonie Nr. 3 d-mollWeitblickこのアイテムの詳細を見る |
甘さの無い峻厳な演奏。時折奇矯なほど鋭く強いスフォルザンドの付けられた単音や、アクセントを異様に付けられた装飾音が聞かれるケーゲル節だが、「節」という言葉ほどこの人に似合わない言葉もない。これはドイツ古典派的な均整感を重視しロマン派的な歌謡的情緒性を禁じた演奏である。終楽章が陶酔的な節回しが印象的にもかかわらず、ひたすらに静謐で重厚で(長大すぎて)まったく感傷をあおられないのはきわめて統制され縦のブレを許さない表現ぶりに起因している。ただ、悲劇的曲想でいきなりアッチェルし溜めをつけて極端にダイナミックな表現をつけているところが山葵になっている。このデジタルな変化付けが表現主義者ぽく、ケーゲルらしい「改変」だ。最後の時間をたっぷり使った雄大な盛り上がりは設計のしっかりした指揮者にはむしろありがちな表現で、ケーゲルの足踏みが聞こえる重々しいフィナーレは印象的ではあるが特異ではない(テンシュテットよりも音響の目が詰まって聴き応えがあるが)。1楽章こそオケに乱れがありケーゲルの陽の部分が多少人間味をおびて聞こえてくるが(楽曲がそうなのだが)、中間楽章はじつに静かで暖かい演奏ぶりが心地よく、ついうとうとさせるような雑味のなさがいい。原光は静謐すぎてほとんど届いてこない印象があった。だが細かい部分でケーゲルらしい独特の切り裂くような音表現というか「解釈」が入りはっとさせられる(注意深く聞けばもっといろいろやってるかもしれない)。5楽章は子供の合唱の録音が乱れ耳障り。全般、やっぱり「表現主義的演奏」だが、客観主義の気のより強い現代的な演奏ではある。個人的には一部を除き眠かった。○。
↓売り切れのようです
Symphony 3Mahler,Scherchen,Vso,Rossel-MajdanTahraこのアイテムの詳細を見る |
↓データ詳細不明(ASINは別、2枚組)要確認
Mahler;Symphony No.3Scherchen,Vienna SoTahraこのアイテムの詳細を見る |
TAHRAから当時のシェルヒェンCDディスコグラフィーと同封でCD化されたもので他にも復刻はある。個人的にTAHRAのシェルヒェン復刻は篭り気味で音場が狭く迫力がないから好きではない。もっと突き刺すような音表現が開放的に響いてほしいが、これはリマスターの好みだろう。LPではもっと派手だった気がする。
演奏の印象はさっさと進む感じでリズミカルでテンポ感がいい。だが緩徐部にはしっとり情緒がある。オケがいいのだろうが、シェルヒェン自身がデジタルに表現を変えているせいもあるかもしれない(録音のせいではっきりとは聞き取れないが)。じつにマーラーを聞いている楽しさはあり、マーラー指揮者を楽しむという感覚に酔える。ライヴかもしれないが(拍手なし)、VSOOとの一連のマーラー録音のように自己主張が抑えられているから聞きやすい。同時代の個性的な指揮者と比べ比較的地味な印象があるのはそのせいかもしれない。終楽章ももちろん情緒はたっぷりだが、それほど乱れない。○。
↓ライプツィヒ・ライヴ、異常なテンションの演奏(再販は品切れの模様)
Mahler: Symphony No. 3 / Adagio from Symphony No. 10Tahraこのアイテムの詳細を見る |
1楽章。丁寧で荘重なテンポとフレージングが一種重さや暗さを孕み、同じ遅いテンポでもゆったり横の流れで壮大さを演出するジュリーニなどと違い深層的なマーラーらしさを獲得しているのがマゼール。BRSOだとVPOよりリアルな甘さの無いマーラーに聞こえる。色艶や荒々しさや力強さはなくマーラーの世俗の側面が煽られないぶんマーレリアンに受けがよくないのかもしれない。流麗で特有の空気感があり、しかし所々でテンポを思い直すようなリズムの重さがクレンペラーの解釈を想起する。もちろん時代柄もありそうとうに大人しく、また大人な演奏でもあるが、厳しく疎な音響(この1楽章であっても「音符が少ない!」と思わせてしまう!)に常時緊張が漲る、そういうリアリズムはライヴ演奏特有の迫真味を味あわせる。特に緊張感の高い演奏ではあると思う。
2楽章。1楽章に比べれば速い。弦がBRSOらしい雑味を入れながらも軍隊行進曲のように鋭く音符を切るさまにもこの指揮者の厳しいアンサンブル指示ぶりが伺える。律儀ですらある。じつに色のないベートーヴェン的な演奏。この生臭いスケルツォをこう捌くやり方は、私は好き。オケは堪らないか。スタジオ録音ならここまで制御されると分析的で詰まらなく感じるかもしれない。あくまで設計ありきで近視眼的な変化を付けないさまもマゼールらしい。
3楽章。少しテンポが重過ぎてダレ味が出る。ザッツもそれまでの精度が保てない。2と3の曲想の変化が無いゆえにテンポや表現で違いを付けないと聴く側も気分的な切り替えができないから、そういう細部が気になりだす(一応チューニングを挟んではいるが)。この曲特有の難しさでもありマーラーの中間楽章に時折感じられる難しさでもある。中間部の悲愴な音楽を際立たせるのであればテンポでなくともせめて色調に変化を付けて欲しいものだが、わりと即物的に処理されている。ハーモニーのバランス良さには聴くものがある。コーダで初めて激しく動き出すがどこかバラケとテンポ的な躊躇を感じさせる。派手な音響を煽ったのは長い無音状態のあとの4楽章とのコントラストを付けるためだろう。
4楽章はしかしそれほど力まないsulGから始まる。録音が遠いのかもしれない。音構造の透けて見えるマゼールの整え方はやはり弦主体の部分で最も的確に生きてくる。チェロバスの弾く和音的フレーズの何と詰まらないことか。でも肝心なところで動くため、無いと成立しない。こういったところが実にわかり易く聞こえる演奏である。まるで鉄鋼機械のようなガッシリしたアンサンブルがマーラーの「境地」をしっかりうつす。線的で単純な、音符の少ない音楽。でもワルターのようなウィーン的な横の動き主体のメロディ音楽にはせず、あくまでマゼールは縦のしっかりした「アンサンブル」としている。だからこそハーモニーの妙なる動きが手に取るようにわかり、立体的なマーラーを好む向きには向いている。その方法はクライマックス後に本数を減らしていくオケの退嬰的な「響きの音楽」にスムーズに受け継がれ、繊細極まりない終演までの大きな流れに首尾一貫した印象をのこす。
拍手が変に歪んでいるがブラヴォはけっこう凄い。
追悼の慟哭が聴ける演奏ぶりで、特にこのオケの、名シェフに対する鬼気迫るというか、悲しみを情念としてぶつけたような表現ぶりに圧倒される。フリッチャイ的な引いたような整えた演奏では決してなく、壮年期クーベリックの生命力溢れるライヴそのままの解釈で、ディースカウの違和感バリバリだが巧さと力強さは認めざるを得ない表現とともに純粋にアグレッシブな50年代ふうの告別として聞ける。だがやはり最後は詠嘆の雰囲気を漂わせ、沈黙のままに終わる。個人的には追悼コンサートの最後の演目という前提条件無しに、こういうマーラーは好きであるし、また、こういう解釈であれば逆説的に、9番ではなく「大地の歌」こそ「本来生命力溢れる独裁者であった」マーラーの白鳥の歌にふさわしい作品であった、と思った。
かつて壮年クーベリックの実演を聴いた人が殆どおらず、特にマーラーに関してはDGのスタジオ録音しか聴かれていなかったころ、この人は中庸の指揮者として、8番は例外的に持ち上げられることもあったが、他は、可も無く不可も無くといった評をつけられていた。バンスタが強烈な輝きを放ち続けていた時期でもあり、提灯の脇の輝きに見向きもしない評者が多かったし、何よりマーラーを全曲個別に検証して、この曲はこう、この曲はこう、といった因数分解をする当然の評法すら避け全集としてまとめて「中庸」「中途半端」「ボヘミア的」といった単語だけで片付けることもまかり通っていた。だがクーベリックの演奏はあきらかに主情的なものが支配しており、それはDG録音にも萌芽は見えていて、異常なテンションで押し切るライヴ録音が海賊盤含め出だしたとき、それらが突然変異ではなく、延長上にあるものだと感じたマニアは多かったと思う。だが「前記のような論評を前提に」聴いていたとおぼしき若手ライターに、余りに違うとして堂々と「偽演認定」していた者がいた。評本にもそのように記述していたと思う。
今そのようなことを言う者はいない。
ネットに一時期多かったが、「偽演認定」をやっきになって行う向きがいる。特定の指揮者や演奏家に固執する「特化型マニア」がそういったことに熱をあげるのはしょうがない。だが、そういったマニアがとことん検証して追及して、更に様様な生きた意見を照らし合わせて認定するのとは異なり、たいていがスコアすら参照せずに一人で主観的に判断、もしくはあやふやな状況証拠に基づく邪推を安易に受け容れて判断している。私は敢えて明白でない限りは偽演うんぬんの記述は避けている。盤に記載されているものをそのまま受け容れ、そのときどきの印象で記述している。このサイト(ブログ)は前置きに書いているとおり全く同じ盤ですら10年の間をあけて全く違う感想を書いていたりするわけで、それが少なくとも「評を生業としない」「生きた人間」が網羅的に盤評を行おうとするさいには仕方ないことだと割り切っているが、なおさら偽演や、極めて録音状態が異なるものを識別してどうのこうの、なんてことを追求するのはめんどくさい。
詰まるところ今の私は「音盤コレクター」ではないからなあ。コレクターなら、固執する点なのかもしれないな。なんてちょっと余談。
新しい再発がいくらでも出ているがリマスターはあくまで好みなので私はCD初出のstrで聴いている。一楽章はどんなに室内楽的な細かいアンサンブルも乱れを許さないロスバウドだが堅苦しさは感じない。良い音ならどんなに多彩な響きを再現していたことだろう。陶酔的なアーティキュレーションは歌唱に沿ったものでもなさそうだ。二楽章は暗さより美しさが印象的。歌唱によりそうオケが絶妙で、マーラーの響きがする。うーむ、池畔で陽光のボートの動きにちらつくさまを見ながらきいていると、ケン・ラッセルになった気がする(うそ)。音は潔癖なのに表情が耽美だ。三楽章はしっかりしたテンポで規律正しくドイツ風。歌も奇をてらわず真面目だ。四楽章はピッコロに少し乱れがみられるものの基本三楽章と同様均整感のあるしっかりした表現。リズムがキレたロスバウトらしい激しい音表現が嵐を呼び込む。だが一部演奏にみられるキッチュな崩しは無い。歌は終始真面目なままだ。嵐の後もさらっと流すように過ぎていく。五楽章は三、四と違い味付けが濃い目となる。曲自体がそうとも言えるがリズムこそ律儀なもののアーティキュレーションがじっくり付けられている。陶酔的なテンポルバートも印象的だ。コンマスソロが巧い。
「告別」は怖い。長い休符の間に余計な音が一切入らないのが怖い。ホールが恐怖で静まり返っている。虚無感はそうとうなもので、そこからマンドリンが鳴り出したりすると荒地に一気に花が咲きだすような眩暈をおぼえる。とにかく音に雑味がない。この純粋さが怖い。思いいれで演奏していないのに(歌なんて殆ど素直)ルバートやアーティキュレーションは部分的だが思い切りつける。ウィーン風の味をこのオケの「音」ではなく「表現」で出そうとしたのか。ewigまでの歌唱とオケの融合した味は他の「歌曲的演奏」とは一線を画する。歌唱がついえたあとのシロホンの即物的な響のほうが印象に残るのだ。ワルターなどとは全く違う。しかし紛れも無いマーラーがここにはある。
<記載データが違うもの>
1957スタジオ録音
![]() | Hans Rosbaud Conducts Mahler & BrucknerVoxこのアイテムの詳細を見る |
ホフマン、ヘフリガー、ケルン放送交響楽団 1955/4/18
Mahler: Das Lied von der ErdePhoenixこのアイテムの詳細を見る |
放送マスターからのCD化だがモノラル音源に大幅に残響が付加されており不自然な拡がりを持つとともに少し撚れもみられ、私は余り好まない音。シューリヒトはマーラーに興味がなかったものの2、3番および管弦楽付歌曲伴奏のライヴ録音が複数残っている。したがってマーラー的にやろうという気はさらさらなくあくまでブルックナーやブラームスをやるとき同様、そつなく流麗に進めていく。この大仰な曲でさえ軽くハイテンポな表現を進めていくさまはまさにシューリヒト。絶妙のリズムを維持しながら常時歌謡性を重視しスマートなカンタービレを織り交ぜ、スムーズな流れを作っている。
二楽章などこの指揮者にあったとても心地よい牧歌だが、三楽章冒頭の打撃からリズミカルに進む音楽はなかなか扇情的でデモーニッシュ。それにしてもけして途切れない「流れ」を作るのが本当にうまい。こまかいアーティキュレーションもびしっと揃って雑味を混ぜない。連綿とつづく軽くも鋭いスタッカートが鮮やかに構造的書法を浮き彫りにしている。弦のレガートにみられるこまかな抑揚の変化はじつに説得力がある。ただ、マーラーという作曲家はモザイク状に楽想を継ぎ接ぎするのが特徴とすればこの余りに自然な繋ぎっぷりは意趣に反するのかもしれないが。
終楽章はさすがにオケに綻びが出てくるが依然精度は高く厳しい(その厳しさを感じさせないのがシューリヒトだ、ケーゲルとは違う)。ただ、行進曲主題が提示されるところで意外とテンポが落ち着き、ブラスの表現ぶりからオケ指示の客観性を強く感じるようになる。よく知られたとおり「幻想」の影響の強い「復活」においてのこの主題の役割は「断頭台への行進」に思える私には、抽象楽曲としてのドイツ・シンフォニズムの意識が強すぎるように思えた。余りに縦重視のリズムと整えられたテンポにライヴとしての「流れ」が失われた感は否めない。ここからは均整感が重視されているのだ。威厳はあるが軽やかさも明るさも維持される。
舞台裏オケの響きあいはじつに立体的に捉えられているが、録音操作が入っている可能性は高い。合唱が意気を張るあたりからは、意外と常識的に盛り上がり、計算どおりに終演するといった風情である。
エッジが立たず穏やかゆったりの演奏である。丁寧でスケールが大きく、瞬間的な激し方はしない。悪く言えばのっぺりしている。ゆえに3楽章がしっくりくる。他は甘く感じる。4楽章は遅すぎてブラスが乱れる場面もある。粘りもないので案外すっきり流れる演奏ではあるのだが、3楽章は例外的に丁寧に大きく粘るようなクライマックスから結部はあくまで幸福感の中にドラマを感じさせる。ひっかかりがないので無印。
いつ果てるとも知らない透徹したアダージェット!手綱さばきのうまさがこの癖の強い楽団を一気にとりまとめ、音色のみを強みとしてのこし他は高精度のベルティーニ・マーラーに仕立てている。晩年より生き生きしているが、アダージェットなど悟ったような涅槃性に9番のような死の気配がただよい、その前の楽章の暗い場面同様この指揮者の裏面を垣間見させる。指揮中激して足を踏みならしたり掛け声をかけたりと厳しさが聞こえる演奏だがそれほど萎縮しているように聞こえないのはプロのわざか良録音のせいか。中期純管弦楽交響曲に非常な適性をしめしたベルティーニのライヴの名演。