(旧サイトのコーナーを転載)

このコーナーは音楽カンケイの古書を抜粋紹介する試みです。本DEAD-MUSICS!(旧サイト名)の趣旨として、末流ロマン派以降の音楽に関するものが主になります。作曲家ベースで抽出しますが、さしあたってはオモイキりランダムということで、呆れずにまずは見てみてください。
やたら「古文書」が出てくるのは著作権モンダイに「イチオウ」考慮したためです。東京在住の方、神田の古賀書店(03ー3261ー1239)なら気長に待てば手に入らなくはないと思いますので、ご興味があれば御探訪下さい。ここは凄いです(少々お高めですが)。でも一部だけ読みたくて平日休める方なら、ちょっとマニアックな品揃えをしている場合がある地域図書館・大学図書館探訪や、東京なら民音(譜面の貸し出しでも有名、要会員申請)、上野の文化会館資料室で日がな視聴というのもよいですよ。前者は某有名評論家のコレクションも保管されています。
思えば私出張を口実に大阪や名古屋で漁盤猟書セドリストに走った時期がありまして、ナンバの古書店に野村あらえびす(コドウさん、銭形のとっつあん(・・違った?))氏の旧作が沢山あって狂喜したこともあります。地方やちいさな古書店ほど掘り出し物は多いので、音楽を多角的に楽しみたい方、ミュージック・セドリストになってみるのも良きかもしれません。ちなみに私今や外国語全くダメなので、洋書は余り書けません。翻訳物ばかりなのはそのせいです。ご容赦!
<もくじ>
「現代音楽論」ランバート
「近代音楽回想録」カルヴォコレッシ
「現代音楽入門」アーロン・コープランド
「民族音楽論」ヴォーン・ウィリアムズ
「私の観た現代の大作曲者」山田 耕作
(予定)
「素顔の巨匠たち」週間FM
「わが音楽人生」リムスキー・コルサコフ
「チェロと私」ピアティゴルスキー
「幸福だった私の人生」ミヨー
「レコードのある部屋」三浦淳史
「ロシア・ソビエト音楽史話」園部四郎
ほか・・・
「現代音楽論」コンスタン・ランバート著大田黒訳、S12/1第一書房刊、入手時5000円弱(ハードカバーで状態すこぶる良し)
門馬直美さんや野村あらえびす/光一さん以上に元祖評論家(資産家)として名を残す大田黒元雄氏訳出の版。イギリス20世紀前半の辛辣な評論家/指揮者にしてシンフォニック・ジャズ作家の草分けのひとり、1905年生まれ、コンスタン・”酒毒さえなければきっと大家になった”・ランバート28歳の名著”MUSIC HO!”の恐らく唯一の訳出です。ロンドンからペテルブルク生活をへて16でロンドン王立音楽学校に入学し、ヴォーン・ウィリアムズ、ボールト、サージェントなどに鍛えられてのち作曲開始、ロシア・バレエ団の総帥ディアギレフに見出され若干二十歳で序曲のちバレエ曲「ロメオとジュリエット」を上梓、これがいたく気に入られた。興行的には失敗だったが(曲は今でもマニア人気)名前は広く日本にまで知られるほどで、24で書いた「リオ・グランデ」は一種現代の舞踊音楽に通じるような瑞々しく詩的な清新さがあり、当時評判をとり代表作となった。ウオルトンの新鮮な作風に通じるものがある。融合音楽「シンフォニック・ジャズ」としては、芸術性においてガーシュインを凌駕していると言う人も(本人含む)。・・・が酒没。個人的に「ホロスコープ」が大好きですが、プロコフィエフの亜流のようなところが正直あるものです。メジャーになるには寿命のみならず、才能の器も足りなかったのかもしれませんが・・・。
本作、故三浦淳史氏の抜粋紹介(たいていヴォーン・ウィリアムズ(ランバートの師匠)についての箇所、下記)で知っている方も多いかもしれません。高名な評論家セシル・グレイに心酔するママ若さにまかせて疾走させた筆は、正しいか正しくないかは(コリン・ウィルソンのそれみたいに)読む側がきちんと意識して客観判断すべきことで、まあ薄ら笑い乍ら読むのに適した感じではあります。でも20世紀初頭の作曲界周縁を総括したものとしては出色の幅広さと洞察の深さがある。内容的には「国民主義音楽」に対する時代・地域的にすこぶる広範な考察と、ジャズやストラヴィンスキーに代表される新しい流れの概観から成り立っています。
書かれている近代作曲家:ストラヴィンスキー、ヴォーン・ウィリアムズ、ディーリアス、バルトーク、ミヨー・オネゲルらフランス六人組、シャブリエ、ラヴェル、サティ、ドビュッシー、シベリウス、エルガー、ドビュッシー、ウオルトン(当時まだ「ファサード」「ヴィオラ協奏曲」くらいしか知られていなかったが、後者けっこう絶賛されている)、バラキレフ、アルベニス、ファリャ、トゥーリナ、ボロディン、ムソルグスキー、リムスキー・コルサコフ、デユーク・エリントン、グリーグ、モーラン、ヒンデミット(”近代音楽のジャーナリスト”だそうです。「技術のための技術」という章に記述)、ベルク(”控えめで知的”)、プロコフィエフ、ワイル(”通俗的”)、ディーレン、ウオーロック、シェーンベルク、ブゾーニ、リヒャルト・シュトラウス、スクリアビンほか
例えば:「・・・われわれはフランスの風景を知らなくてもまた好まなくてもドビュッシーの「春のロンド」をよく味わうことができるが、英国の風景の落ち着いた灰色と緑色とに、静かなうちにも細部に見出されるくさぐさの面白味に、それからなだらかな起伏に、気凛の上で調和していない限り「田園交響曲」(ヴォーン・ウィリアムズ)の気分と形式のいづれをも真に味わう事は明らかに困難である。この作品は美しいには美しいけれど、それが地方的情調の余りに直接な再現である事とシベリウスの諸交響曲におけるように全体の象徴の中に特殊なものを入れてしまう事ができ、且つ地方的な独自的な特徴に普遍性の質を興える事ができる、いわば心的消化の過程を材料が経ていないこととを人に感じさせる。・・・」
*ヴォーン・ウィリアムズについての記述はかなりの長文が割かれており、抜粋だけではその両義的な内容を正確に把握できないかもしれません。が、故三浦氏に敬意を表しよく引用された部分を取り出してみました。
「(注釈から)ポール・モーランはアフリカの土人(ママ)たちがジャズのレコードを好まないで、ロシア民謡のレコードに興奮し共鳴すると言っている。」
*この記述は「ジャズの精神」という章で、エリントンら白人ジャズに対する批判めいた文中に挿入されていますが、当時のアメリカ音楽界を物語る面白いエピソードだと思いました。アイヴズが、幼い頃黒人のお手伝いさんが歌ってくれた霊歌の想い出と一緒に、ジャズよりフォスターの方が黒人たちに訴えるものがあったようだと記述していたのをどこかで読んだような気がします(多分洋書ですが手元に無く、勘違いの可能性もあるので予め謝っておきます。すいません)
「近代音楽回想録」カルヴォコレッシ著大田黒訳、S13/4第一書房刊、入手時3000円弱(ハードカバー)
良く知られたこの回想録は、19世紀末から20世紀前半のロシア/フランス音楽界を生きた名評論家にして作曲家カルヴォコレッシにより書かれました。原著は複数あったようで、日本語訳のさいに再度編まれたものと思われます。 インタビュアーとして数々の大作曲家に触れてきた経験を中心に、とても魅力的な時代を同時代の目で叙述風に描いた佳作です。特に親友ラヴェルについての記述はこの著作の中心を占めるもので、いろいろと面白い部分があります。ラヴェルをはじめとする”アパッシュ”(ろくでなしとかアバズレとかいった意味とのこと)と呼ばれた若きパリの音楽家たちについての想い出には、多分に感傷的な雰囲気があります。
書かれている近代作曲家・演奏家:ランドウスカ、ダンディ、ドビュッシー、ラヴェル、ヴィニェス(”アパッシュ”)、ルーセル、ディアギレフ、シュミット、グリーグ、シベリウス、アルベニス、カプレ、ダンディ、ムソルグスキー(「ボリス」について長大な記述がある)、サティ、カルーソー、バラキレフ(親密であった。可成のページがさかれている)、ディアギレフ(親しかった)、ロマン・ロラン、グラズノフ、リャプノフ、ストラヴィンスキー、チャイコフスキー、リムスキー・コルサコフ、ブリューメンフェルド、スクリアビン、グリンカ、チェレプニン、アレンスキー、パブロヴァ、シェーンベルク、キュイ、ダルゴムイシスキー、プロコフィエフ、シテインベルク他
例えば:「・・・グリーグは愛想良く私を迎え、私の質問に答えた上、自筆の楽譜と署名した写真とを呉れた。私がインタビューを終わったとき、彼は近代フランス音楽について逆に私をインタビューしはじめた。可也長い間話した末、彼は未だその「ペレアスとメリザンド」の譜を見たことが無く、また短期間のパリ滞在中にそれをきくことのできなかったドビュッシーについて、私に質問し出した。私はそのヴォーカル・スコアと夜想曲の総譜とを彼に貸そうと言った。会話はなおも続いた。そのうちに突然とんだことが起こった。ドビュッシーは「ジル・ブラ」誌上にグリーグについて不親切な且つ甚だふざけた批評を発表したばかりであった(注)。その批評は「ドレフュス事件」当時のグリーグの態度に筆を起こして、彼の容貌や彼の音楽のマンネリズムをひやかしていたのである。(それは「ムッシュ・クロッシュ・アンティディレッタント」の中に載せられている。)グリーグがパリで受けた迎接について語った何かを私は間抜けなことにこの批評の事を仄めかしているものと考えた。そこでドビュッシーが気まぐれな事は誰も知っているので、誰も彼の悪口などには注意をしないというようなことを私は言ってしまった。ところが弱った事に、グリーグはこの批評を見ていなかったのであった。それゆえ私の失言が彼の注意を初めてそれに向けたのである。
数日後、彼は次のような手紙と一緒に私の貸した楽譜を返してきた。
「拝啓、コロンヌ演奏会についてのクロード・ドビュッシー氏の記事に小生の注意をお惹き下さらなかったならと思います。今小生はそれを読んでしまいました。そして芸術家たるドビュッシー氏が同輩の芸術家の事を語る場合に採る調子にまったく呆れました。勿論、小生の芸術を氏が全然理解しないことも同様に遺憾ですが、これは要点ではありません。要点は氏の悪意に満ちた軽蔑的な調子です。真正の芸術家たる者は、心に関するあらゆる事柄に高い水準を保ち、且つ他の芸術家等の観点を尊敬するように努むるべきです。
あの政治上の問題について言えば、小生は氏の言うように、かくかくの国に再び足を踏み入れることを欲しないとは決して申しませんでした。今はパリに行く事ができないと感じると申したのです。同輩を傷つけんがために意識して嘘を言う事はドビュッシーのような天分ある芸術家に似つかわしくありません。
小生は「ドビュッシー氏のような天分ある芸術家」と特に強調して申します。幸いな事に小生は小生についての氏の言葉によって影響されずにいることができるだけでなく、氏の音楽に同感する事もできるのです。小生は三つの夜想曲を非常な興味を持って読みました。それらは見事な色彩感と秀でた想像力とを示しております。この作品を知る機会をお与え下さったことに対しては深謝致します。小生は北国でそれの演奏を指揮したいものだと思います。
「ペレアスとメリザンド」に至っては、ヴォーカル・スコアを読んだだけで意見を纏める事は到底できかねると感じます。それがベルリンで演ぜられるのを聴けたらと思います。しかし勿論この場合にも小生は氏の観照の真面目な事と真正な事を認めるのです。そして小生を氏の方へ惹きつけるのは、氏が誤って小生の音楽的観照に否定しているこの真面目さです。なぜならそれは小生自身の理想なのですから。あなたがよく小生をご理解下さる事を確信致します。」
レオン・ヴァラスがその著「クロード・ドビュッシーの理論」のなかに指摘しているとおり、ドビュッシーはそれから11年後にグリーグの音楽の「心を惹きつける憂鬱」と暗示力とを称賛して書きながらある種の償いをした。それよりも可也前に・・・グリーグの死後にではあったが・・・彼は又グリーグのヴァイオリン・ソナタの演奏にピアノを受け持ったこともあった。しかし多くの人々に驚きを与えるであろうのは、「ムッシュ・クロッシュ」の最初の校正を見た頃に未だ生きていたのにも関わらず、1903年に書かれたこの不幸な文章の或る部分を削除し或いは修正する事を彼が考え付かなかったことである。」
(注)文庫化もされているドビュッシーのひとりよがりな評論集「音楽のために」杉本秀太郎訳・白水社1993刊、p.147~157に採録(1903/4/20付)。その中には2年前ディーリアスの歌曲について評した詩的なセリフがそっくりそのまま、しかも完全に否定的な意味にすりかえて使われていたり、他の論評も多かれ少なかれそうなのだが、非常に問題のある評論文ではある。尤もドビュッシーのような絶後の天才作曲家からすれば、凡庸に見えたり詰まらなかったりというのは致し方無いことではあるが。ドレフュス事件初期においてグリーグはドレフュスへの重罪判決を批判したことがあるらしい(訳注より引用)。
「・・・その晩餐の時に私はグラズノフとスクリアビンの間に座った。われわれの話しはその前日に演奏されたスクリアビンの交響曲第2番のことに転じて行った。スクリアビンは「甚だ平凡な曲です」と無造作に言った。これは私自身の意見の通りであったので、私は甚だ閉口して、言葉を濁すだけにとどめた。するとまもなくグラズノフは完全な重々しさで、「あなたは気に障ったのですよ。センセイは反対されることを予期していたのです」と私の耳に囁いた。」
「現代音楽入門」アーロン・コープランド著塚谷晃弘訳、S32音楽之友社刊、入手時300円(音楽新書)
今でも版を重ねているのでは?余り引用するとやばいかもしれないが、アメリカの才気煥発な作曲家コープランドによる20世紀前半音楽の紹介本である。末期ロマン派、十二音音楽から新古典主義という19世紀後半~1914年までのクラシック音楽の総括をメインに置いた前半、良い意味でも悪い意味でも伝統より自由で「アメリカ人らしい」発言が随所にみられるが、開放的でひととおりのものを受け容れる器の大きさと、同業者に対するプロフェッショナルな視点が光る。後半ジャズや自身の作曲を含むアメリカ現代音楽についての記述がメインになるが、放送、レコード、映画音楽にまで言及し、総じて子細で且つわかりやすい総括本となった。基本的に前掲の本のような叙述集ではなく音楽史の教科書に近い。細部の正確さについては若干の検証を要するだろうが、時代の流れを知るには格好の参考書だ。ランバートやカルヴォコレシ等歴史的著作の引用も随所にみられる。
書かれている主な音楽家:アイヴズ、ミヨーらフランス六人組、ムソルグスキー、ドビュッシー、リヒャルト・シュトラウス、マーラー、スクリアビン、フォーレ、シベリウス、シェーンベルク、ストラヴィンスキー、バルトーク、ラヴェル、ルーセル、サティ、ハリス、セッションズ、ピストン、トムソン、チャベス、コープランドほか
「(ヒンデミットとドイツ音楽についての記述)・・・普通の音楽好きは、音楽の方法と理想に徐々に変化をもたらした幾つもの段階にあまり気がつかない。こういう人たちに、どこかほかの遊星から来たようなひびきのする音楽を理解してもらおうなどと期待することができたろうか。20年代の終わり頃には、作曲家たちは、ギャップが次第に大きくなっていって、自分たちと聴衆と何らの接触もない自分たちが危険な状況におかれていると自覚しなかったとすれば、彼らは駄目になってしまうところだった。これに加えて、新しい音楽が「アブノーマルなもの」でなくなり始め、しかもこの傾向はますます著しくなっていったがため、音楽を聴く大衆の全部に、近代音楽に対する関心を巻き起こすよう努力することが、従来にもまして望ましいばかりか、ぜひ必要な事だとも思われるようになった。
過去十年の音楽界での顕著な新しい傾向がただ一つあった。それは、目立たない聴衆との、健全な連絡が全然無いことに対して、作曲家のほうが、満足できないと思いはじめた事である。その結果として、二つの措置が取られた。~第一に、多くの作曲家は、できるだけその音楽用語を単純なものにしようと努めた。第二に、音楽会で、聴衆に接するだけでなく、さらにどこででも~高等学校や大学や、音楽教習所、映画館などで、あるいはラジオやレコードを通じても~音楽が、実際に聴かれたり演奏されたりするところならどこででも、音楽の聴き手と演奏者を見つけだそうと試みた。
歴史的には、この新しい傾向は、20年代の中頃の中央ヨーロッパに最初にあらわれた。音楽が他の国よりも発達している国では、作曲家は、自国の音楽的教養のある人々と接触が無い事を意識させられるのは、つらいことだけれども、きわめて当然のことである。典型的にドイツ的な解決法が試みられた。パウル・ヒンデミットを長とする作曲家たちは、ことに音楽の素人のための音楽を書き始めた。この種の音楽~それは、後に「実用音楽」と呼ばれた、文字どおり実用的な音楽である~は、しろうとの演奏家を、彼らの良く知っている古典音楽の仕組と異なる仕組に慣れさせるために考案された。この第一歩は、これまで未開拓だった市場に新しい販路を開く可能性を予見したドイツの出版社によって激励を受けたのである。*
*原註:ヒンデミットの作品の出版者b.ショット二世商会からニコラス・スロニムスキーにあてた手紙(スロニムスキー著「1900年以後の音楽」の中に引用されている)では「社会音楽」~社会の為の音楽と、「実用音楽」~演奏会とか芸術的音楽とかに対比される何か特別の目的の為に書かれた音楽、とが区別されている。最近では、ある特定の目的や用途の為に、演奏会以外の分野のグループによって書かれた音楽はすべて「実用音楽」といわれるようになった。
しかし、この第一の措置の価値はまったく戦略的なものだった。というのは、多くの「実用音楽」が、実際に有する音楽的内容は、ごく貧弱なものであったからである。作曲家たちは、依然として、彼らの最善の考慮を純音楽の為にだけ残しておいた。しかし、とにかく、新しい作曲家と普通の音楽好きと交渉を持つ可能性が、ここにはじめて試みられたのである。
同時に、大衆と接しようとするもう一つの運動が、ドイツでひろげられた。今度は、その目標は、オペラ愛好家におかれた。ジャズの影響と関連して、すでに述べたクルト=ヴァイル(三文オペラ(”マック・ザ・ナイフ”)やマハゴニー市の興亡などブレヒトとの共同作業で知られる。「007/ロシアより愛をこめて」の婆スパイ役で強烈な個性を放っていたのが、比類無きソング唄いロッテ=レーニア、ヴァイルの奥さん)やエルンスト=クシェネック(マーラーの娘婿で様々な作風を渡り歩いた佳作家。長寿に恵まれ最近まで存命。それはコープランドも同じだが)はその舞台作品で「大衆への訴え」に慎重に入っていった。この二人は、きわめて難解な形式で書くことのできる非常に練達した作曲家であった。しかし、戦後のドイツで、オペラを見に行く人は、戦前の比較的博学な聴衆ではなかった。彼らは、何の予備知識も持たなかったから、ベルクやシェーンベルクの無調音楽の複雑さを認めることができなかった。ヴァイルやクシェネックは、時代遅れのアリアの部分に、ジャズ的な手法で唄を導入することで、何か聴衆の理解できるものをあたえようとした。目標をかえることによって作曲家は、非常に、多くの聴衆に接することができるのだということが、ここでもまた、証明された。
第三の、そしておそらくは、もっとも意義ある傾向のきざしは、ロシアを経て、ことに、若いソヴィエトの作曲家ドミトリ・ショスタコーヴィチの作品を通じて顕れた。もし他のロシアの現代作曲家の作品がソヴィエト同盟の外の国々で、ショスタコーヴィチの作品ほどにしばしば聞かれたならば、きっとショスタコーヴィチのような例は、他にもっとあらわれたであろう。社会革命の真っ只中にあって、この若い作曲家の胸のうちに真っ先に浮かんだのが、聴衆と密接に結合するという問題だったことは容易に理解できることなのである。新しい、教育を受けない大衆は、音楽の微妙さを相手にするための準備が全くもたないことは明らかであった。にもかかわらず、ソヴィエトの作曲家は、その作品がこういった大衆にのみ向けられることを知らねばならなかった。こういう状況が、セルゲイ=プロコフィエフの音楽に対しておよぼした影響に着目するのは興味深いことである。・・・」
「民族音楽論」ヴォーン・ウィリアムズ著塚谷晃弘訳、S59雄山閣刊2500円
今でも版を重ねているので余り引用するとやばいかもしれない。20世紀イギリスの代表的作曲家のひとりヴォーン・ウィリアムズによる有名な著作の翻訳である。複数の著作を編じたもので、半分以上を占める「民族音楽論(1934)」とワインガルトナーの著作を彷彿とさせるが批判的な視点も篭り面白い「ベートーヴェン「第九」についての考察(1953)」、そして音楽的自叙伝「音楽の創作(1955)」という内容的にばらばらのものである。この中では一番短く(全文載せようと思えば載せられるくらいではあるが)、ヴォーン・ウィリアムズを語る上で必ず引き合いにだされるもので、20世紀初頭の音楽的環境を断層的につづった最後の部分が最も興味深い。すこぶる広範な知識と深い考察、それにウィットに富んだ流麗な語り口は堅い内容であっても読ませる。時折異論を唱えたくなるシニカルな内容も織り交ざるが、お勧めの本。
触れられた主な音楽家:ベートーヴェン、ドビュッシー、パリー(師匠)、エルガー、ホルスト(親友)、ディーリアス、ブルッフ(師匠)、ラヴェル(師匠)、ドビュッシー、ワグナー、バッハ、バックス、ウオルトン、コンスタン・ランバート、ヘンデル、ブラームス、ムソルグスキー、モーツアルト、ヴェルディ、リスト、ハイドン、ショパン、ムソルグスキー、スメタナ、グリンカ、ボロディン、リムスキー・コルサコフ、ストラヴィンスキー、リヒアルト・シュトラウス、シューベルト、ドヴォルザーク、グリーグ、ラフ、スタンフォード(師匠)、バントック、バタワース、グノー、タリス、パーセルほか
「全音音階の発明者はドビュッシーではなかった。ピアノに向かってすわれば誰でもそれを弾くことができる、おそらく作曲者たちはしばしば独りでそれを試みただろう。私がヒュー・アレン卿から確かめたところでは、18世紀のイギリスの作曲家、ジョン・スタンレーは全音音階による主題を持つフーガを書いたが、もちろん実験的なものだった。この表現方法をもつ意味を見抜き、和声の面での可能性を探る仕事はドビュッシーのために残されていた。ドビュッシー以前に、ジョン・スタンレーが全音音階を用いながら、彼の想像力の中に何らこれと呼応する和声を見出さなかったために、生命を持ったものが生まれなかったと同じように、ドビュッシー以後の若い世代の作曲家は、彼らにとって全音音階がもはや真理以前の平凡な自明のことがらになっていたため、生命ある全音音階音楽を作るのに失敗している。作曲家が独創的なのは、彼が独創的であろうとしたからではなくて、彼にはそれ以外の道がなかったことの結果である。」
「エルガーは、「私が指揮する時、私はオーケストラに演奏させる」といった。よいオーケストラならば、もしも指揮者が彼らの自由に任せるならよい演奏をするであろう。そして彼らは、指揮者が彼らに向かっておかしな顔つきをしてみせれば、なおさら、よい演奏をするわけではない。」
「マックス・ブルッフもスタンフォード先生と同様に、私の特有の語法~短7度への偏好には大変悩まされた。「この和音に妙に愛着をもっているね」と彼はいった。彼はまた私に、書くだけの「眼の音楽」は、「耳で聴く音楽」とはまったく別のものなのだと警告した。この戒めは、だが、私には無駄であった。もともと私は、作曲するときは常に、格好がよくないのを気にしないでピアノを使っていたからである。」
「意識して盗用するのは少しもかまわないし、一種の「創作」でもあるのだが、巧妙でわからないような剽窃は、危険且つ有害だと私は思う。私の「ロンドン交響曲」の序曲の中に、ドビュッシーの「海」からかりた部分があったのを、コンスタン・ランバート(生徒)が指摘して、私におぞましい思いをさせるまで気がつかなかったのである。そのころ、私はロンドンにいたディーリアスと親しく交わっていた。私は、「海の交響曲」の全曲を彼に任せると言い張った。気の毒に、どんなに彼はそれを嫌がっていたことか!けれども彼は大変うやうやしく、次のように言ってあきらめていたようである。「ほんとうにそりゃ、わるくないね」と。」
「(ラヴェルの想い出から)・・・彼は、私に、楽譜通りではなく、音色のニュアンス、表現の綾をどういうふうにオーケストレートするか、ということを示してくれた。彼はブラームスやチャイコフスキーを、「少し鈍い」といい、「エルガーは、全くメンデルスゾーン的」であり、彼自身の音楽は、「まったく単純で、少しもモーツアルト的などでない」といった。彼は、展開の為の展開に反対した。一つの要素は、なにか他のよりよきものに到達するためにのみ発展すべきである。かれは、いつも、いきいきとした音楽には、すべて旋律があらわになっていないといい、ハ短調シンフォニーのはじまりをその例にひき、「旋律が、あらわでなく、内なる香りが漂っている」というのであった。私が仕事をしていた小さなホテルには、ピアノがなかったが、彼はそれをひどく嫌がり、「ピアノ無しでは新しいハーモニーを創り出せない」といった。・・・」
「私の観た現代の大作曲者」山田 耕作著、S9大阪毎日新聞社刊、入手時3000円程度
この興味深い本は、恐いもの知らずの氏が留学中(1910~13ドイツ、1917からアメリカに数年、1921欧米に計半年)会いま見えた20世紀前半における六人の作曲家の姿を叙述的に(そして自分が彼らにどのように接してきたかを、時には英雄的気分も交えて)描いたものだ。読みやすい文体で鮮やかに浮き彫りにされる伝説的作曲家たちの実像。無論おのおのに長い交友を持ったわけではなく、あくまで断片的な描写にすぎないが、本人も長い序文の中で、
「この書は現代六大作曲家(ブルッフ(師匠)、オルンスタイン(滞米中の親友、いまは無名だがこの時期の本を読んでいるとたびたび目にする名前だ。ロシア系)、ブロッホ(一度無遠慮に論を戦わせた)、ラフマニノフ、プロコフィエフ(論敵、と書いている。ブロッホ以上に舌戦をかわした)、リヒャルト・シュトラウス(聴けば自明のことだけれども、私汝していた))の側面観であると同時に、又一面私にとっては、私自身の海外における生活の一記録でもあります」
と書いているので、そのように読むといいだろう。こういう「伝説を産む本」は歴史的資料というより、音楽を楽しむ為のスパイスとして価値がある。さっと読めるので、できれば全文に接していただきたい。
ブロッホとの対話・・・
「・・・42、3歳とも見える恰幅のいい紳士が私の傍によって来ました。その着物の着こなしや、もののいい具合などから見て、私は美術商か、芝居者だろうと思って、それ相当の応対をしてをりました。その人は私の作品について、こうした意見をのべました。
「私は貴方の作品を今日はじめて聞いて、非常に愉快に感じます。あなたの名はよほど前から聞き知っていた丈け、あなたのものを聴くことに対して、私はいろいろな期待をもっていました。しかし私はあなたの作品の中に、歌麿を求めていました。北斎を見出し得ると思っていました。私はあなたの作品を、決してつまらないというのではありません。あなたの作品は西洋の手法において欠ける所がありません。私はあなたの血の中に、あるいは私との血と同じ血が流れているのではないかとさえ思います。私はあなたの作品に失望するものではありませんが、しかしあなたは日本人であるのに、あなたは何故日本の音楽を書かないのです。何故歌麿の音楽を書き、北斎の音楽を書かないのです。」(中略)
早速その紳士に次のように答えました。
「あなたは私から歌麿をもとめ、北斎をもとめていらっしゃいます。それは私が日本人であるために、あなたが北斎や歌麿を通じて知ってをらるる日本の姿に、私をはめて見ようとなさるからではないでしょうか。一応考えていただきたいものです。歌麿は歌麿の時代において、決して言うところの歌麿ではなく、北斎もまた彼の生存してをった時代においては、決して今日の北斎でありませんでした。彼等もまたその時代においては、一人の先覚者として、新しきものの創始者として、立ってをったのです。(中略)あなた方欧米人が日本の古い時代の、文学や絵画を通じて知った日本あるいは夢の国、お伽噺の国として、あなた方の頭に描いた日本、そうしたままの姿の日本の国民であれというのは少し無理だと思います。私はさらに一歩を進めて、あなたに質問したい。もしもあなた方が私どもの国と、私どもの国民に対して、そうした要求をなさるのならば、何故私どもの鎖国の夢をやぶってまで、あなた方欧米人の尊い文明の恵みを私どもにあたえたのです。(中略)とにかく、もしもあなたが私にその全部において、日本の日本人であることを要求されるならば、あなたは私と語るために、まづ日本語を修得されなければならないでしょう。」
私がこう答えますと、その紳士は不遜にも見える無遠慮な私の言葉に少したぢろいだらしく、何事か言いたげに見受けられましたが、ただ口の中で、何か言いよどんでいるばかりでした。私は少しく気の毒にもなったので
「失礼ですがあなたの御専門は何ですか。」
と聞きますと、その紳士は
「私も又作曲家です。で、唯今私があなたに質問した所の疑問も、実は私自身の作曲家としての苦しい経験から申し述べたものなのです。私はユダヤ人ですが、御承知の通り、ユダヤ人は国というものをもっていません。至る所に家を作り、至る所で自分たちのすべてを、その土地に同化させています。従ってユダヤ人には、個性というものが欠けています。日本がもしそのもっている所の特質を、他国へ同化させすぎたならば、日本は早晩私どもユダヤ人と同じような悲運に遭遇しはしないでしょうか。私はそれをおそれているのです。」
と申しました。(中略)そしてこの紳士はあるいはソネック氏の示したあの管弦楽曲の作者ブロッホかもしれないと直覚したのです。しかし私はそれによって私の舌鋒をゆるめようとはしませんでした・・・」
ラフマニノフとの交流より・・・
「プロコフィエフが「馬鹿」とののしったラフマニノフはモダニストの話が出た時、プロコフィエフの名をあげて、Talented Pianistといい、その作品についても、むしろ同情のある言葉を発していました。」
プロコフィエフとの激烈な会見から・・・
「プロコフィエフは極めて無遠慮に日本人には音楽が判らないと断定しました。プロコフィエフのためにかなり種々の労を取られたといわれてをるある人々についても、忌憚のない、罵言に近い意見を発表してをりました。(註)
(中略)
私の向かい側に席をとっていたフィラデルフィアの新聞記者は、まづプロコフィエフに、「作曲家のうちで誰を一番尊敬するか。」とたづねました。しかしプロコフィエフはそれには答えないで、ただ皮肉な笑いを鼻辺に漂えるばかりでした。(中略)プロコフィエフの選評に合格したものは、ほとんど一人もなかったように覚えます。(中略)シュトラウスはやや可、ドビュッシーも悪くないという風で、現存の作家の中にも、プロコフィエフのMeritを勝ち得るものは殆ど皆無でした。(中略)その傍若無人さが、あまり度を失いすぎているので、終いにはある痛快味をさえ感じるようになりました。記者はさらにその言葉を進めて、
「それではあなたの作曲に対する信条はどのようなものですか。」
と聞きますと、彼は寸隙をも与えず、
「形式の打破、自由なる表現」
と放言しました。この信条を聞き取った記者は、今度は私の方に向き直って
「あなたは作曲家として、プロコフィエフ氏の言葉をどう考えるか。」
と聞き込んでまいりました。(中略)
「・・・形式の打破自由なる表現というと、いかにもその響きが近代的に聞こえますが、それとても決して特殊な主張であるとは思われません。(中略)即ち日本人である私自身にとっては西洋音楽の一切が、プロコフィエフ氏における如く因習的なものでなく、従って私共は何等のTraditionにも煩わされないですむほど、新しい立場に居ります。それ故私たちはバッハからスクリアビンに至るまでの、すべての時代の作品を、何らの先入観念なしに同時に観照し得るのです。」と答えました。この時プロコフィエフは、私の言によほど激昂したらしく、その寸の長い体躯を卓上に折り曲げて、何事かを口の中で言いどもってをったようでした。(中略)機を見るに敏な私のパパは、事態の急なるを察知して、突然言を入れ、
「日露戦争はとっくの昔に済んだ筈なのに、今時分ニューヨークのクラブで、又開戦されるとは何というおかしなことだろう。そんなおそまきな喧嘩をするようでは、あなたがたもあまりModernだとはいえませんね。」・・・
(註)参考までに以下に大田黒元雄氏のことば(インタビュー集「素顔の巨匠たち」週間FM、音楽の友社S50)を採録する。プロコフィエフが日本経由でアメリカへ渡った、その日本滞在中における親友であった氏の回想だ。
「・・・私たちは、その晩、英語で語り合ったのだけれども、お互いに不自由な外国語で語り合いながら、心温まる雰囲気を感じましたね。(中略)プロコフィエフは、自分の芸術について語りはしましたけれど、むしろロシアの楽壇の近況をいろいろ話してくれました。彼の愛したスクリアビン、ストラヴィンスキー、さらにミャスコフスキーについて、大いに熱っぽく語っていましたよ。・・・
(大田黒宅の楽譜棚を物色中、)グラズノフのワルツかなにかをみつけた。彼はグラズノフが嫌いなんだね。くだらない馬鹿みたいな曲だと言っていたよ。その次に、グリンカの曲がでてきた。その「幻想的ワルツ」を弾いて、「実になんともいえない」といって感激していたね。グリンカは好きだったんだな。
そのあと、ラヴェルの「マ・メール・ロア」のなかの「美女と野獣の対話」を繰り返して弾いて、「これはオーケストラだといっそう効果がある」といって、ファゴットやチェロの口真似をして弾いていた。彼は、ラヴェルも好きだったね。「夜のガスパール」では、手間がかかりすぎるなんていってたね。とにかく、ピアノを弾くことに夢中でろくに話しもしなかった。(中略)なかでも、連弾用に編曲された「ペトルーシュカ」の譜をみながら、ところどころ弾いて、たびたび「すばらしい」と感心していましたよ」興味深い文が続くが、この項ではこのへんで中断しておく。アメリカにわたってからもしばらくは頻繁な手紙の交換をする仲だったらしいが、一流作曲家の風格はなかったという。
要は折々の心理的な状況にすぎなかったわけで、プロコフィエフというひと、ある意味分かりやすい人間だったのだろう。
シュトラウスについて(長文の一部)
「その手紙には、「君の希望(弟子入り)をシュトラウス氏にお伝えしたところ、シュトラウス氏も日本人で作曲をするということに、非常な興味を覚えたと見え、一度会ってみてもいいといっていた。しかし教授するということは、到底時間が許さない。もし一回二百マルクの謝礼を出すことが出来、そして一週間に二回づつ、自分の所に稽古に来られるようなら、それくらいの時間の犠牲は忍んでもいいということだった。」(中略)けれどもその時分の私は、(中略)僅か三百マルクで生活していたのですから、一回二百マルクの授業料などは、思いもよらないことでした。」
・・・兎に角崇拝しているものだから痘痕もえくぼ、前掲ブロッホやプロコフィエフとは視点が違っている。しかもこの留学期間中は直接会ったこともなく、一方的に演奏会を聞きまくっていただけらしい。・・・そして十年後・・・
「シュトラウスと私との会見は、五分間ばかりで終わりました。しかし短時間であってもこの会見は私にとっては何物にもかえがたい貴い時間でした。(中略)ニジンスキーの踊りの夜(註、有名な「牧神」の舞台を鑑賞したことについては、別項でページがさかれている)、そのあとをしたって、ウンター・デン・リンデンのWeinstubeまでシュトラウスを尾行したということ、敬慕のあまり、師事しようと決心して果たさなかったことなど・・・。
私がそこまで話して来た時、シュトラウスの眼にも、追憶の光が輝いて来たのを私は見逃しませんでした。彼はおもむろに口を開いて、
「おお、私は覚えています。日本人の学生で、私に習いたいと希望して来た人のあったことを。それがあなただったのですか。」*
(中略)
私は今一度繰り返して申します。リヒャルト・シュトラウスこそは、現存する世界の作曲家中で、私の最も尊敬し且つ愛慕する巨人であります。」
*「覚えている」発言はこの会見中唯一の発声であったようだが・・・。恐ろしきはファン心理・・・。
※2001年以前の記事です