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湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

ブロッホ:シュロモ~ヘブライ狂詩曲

2018年03月17日 | Weblog
ネルソヴァ(Vc)作曲家指揮LPO(decca/pearl)1950・CD

ブロッホの代表作。二十世紀のチェロ協奏曲の代表作のひとつでもある。ユダヤ音律の支配するかなりクセの強い作品だが、ネルソヴァはほぼ旋律的な崩しや指のズラしを使わず正確に音をとっていくことにより、この音階の特質をイデオロギーと切り離して聞く者に問うてくる。もちろん作曲家晩年の指揮がバックにあっての演奏で、晩年はそれほどこだわらずアメリカの新古典主義に立っていたブロッホの、過去作品に対峙した解釈と理解することもできる。録音的には正直勧められるものではないが、ネルソヴァのブレない演奏ぶりや、見本的な全体設計を聴くにはよい。
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ブロッホ:神聖祭儀(アボダシ・ハコデシュ)

2018年03月17日 | Weblog
○作曲家指揮LPO&cho.、ロスミュラー(b)ボンド(sp)コワン(ca)(decca/pearl他)1950・CD

ダイナミックでロマンティックな「ユダヤ祭儀」である。これが大好きでLPしかなかったころミヨーの似たような作品とともにやたらと聴いていた。イギリスオケのせいかイギリスのオラトリオふう作品、ヴォーン・ウィリアムズの周到な作品に似て耳馴染みがとてもよい。当たり前だが宗教曲だから悪い音はなく、ユダヤ音階などもヨナ抜きに慣れた日本人にとって特に引っかかる要素はなく、しかもイギリスオケとあってイギリス民謡的にも全く違和感がないものだ。かつ、これはブロッホの民族主義の後半の作品となり、新古典主義の洗練が民族の独創性を簡素化、というか漂白し、西欧音楽の語法の上でもすっかり「普通」となって吸収された、まるでマーラーほども普遍的な歌謡性を持ち合わせたものになり、祭祀にふさわしいのかどうか、20世紀音楽の娯楽性をしっかり発揮した大作として先入観なく聴くのが相応しいように思える。体臭のない指揮ぶりがまた面白い。職人だ。歌手もしっかり仕事している。マーラー聴くと思って聴いてほしい。
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バーンスタイン:ミュージカル「ウエスト・サイド・ストーリー」抜粋

2018年03月16日 | Weblog
○ゴーバーマン指揮管弦楽団、ラリー・カート、キャロル・ローレンス他オリジナル・ブロードウェイ・キャスト(sony)1957・CD

第一幕(前半)を中心に編まれたオリジナルキャストによる録音。オリジナルではバーンスタイン自身は振っていない(複数ある録音もシンフォニックダンスが殆ど)。音こそ古びて色彩的な派手さがないし歌も素朴、管弦楽もこの頃の雑味を帯びているが、生のままというか、リズムを中心とした粗野な味わいは劇音楽というより劇そのものを直接感じさせる。歌いながら踊っているわけでそこも評価に加味せねばなるまい。平易な英語なのでわかりやすいのも、これがダンス・ミュージカル、「アメリカのミュージカルの真の誕生」であることを実感させる。舞台では啓蒙的であろうとしたバーンスタインが、劇の構成要素であるプエルトリコからの舞踏音楽をジャズの要素と巧みに織り交ぜて、通俗的だが永遠に残る伝説的な素晴らしい歌のメドレー、「トゥナイト」「アメリカ」など(各々さほど長く何度も歌われるわけではない)、踊れるダンス、「マンボ!(体育館のダンス)」「クール」などといった曲でのはっきりしたリズムの連環という形で構成している。コープランド的な「アメクラ」の部分はあるのだが、バーンスタインにとってそれは同時代の風物として「中に取り込む相手」であり、明るく空疎な響きと複雑なリズムだけに純化されたそれとは違い、厚みある響きや色濃い旋律表現によってバーンスタイン化されており、他の要素も同様で、全部を見事に構造的に融和させている。世俗性は何も客受けだけを狙ったわけではなく、たった2日の間に大都会の底辺で起こった、対照的な移民系の若者同士の悲劇を、「刹那的なもの」の連続によって「ロメオとジュリエット」のフォーマットを使い表現したということだ。これは「アメリカ」を代表するミュージカルであるとともに「アメリカ」に問題提起する、今もし続けているミュージカルである。シェークスピアのフォーマットを使って若者を取り巻く社会問題を音楽化したというと、ディーリアスのケラーによる「村のロメオとジュリエット」があるが、ここではディーリアスの時代から半世紀を経、より肌につくような内容が語られている。ケラーは美談を書いたわけではないがディーリアスは世紀末の雰囲気そのままに二人の死を美化してしまった。バーンスタインは、トニーだけが死んで終わる。日常の続きまで描く。このオリジナルキャスト抜粋版では美しい高音でディミヌエンドはするが、あまりにあっけない、現代の悲劇は一瞬で終わると言わんばかりの「銃弾一発」(ま、筋書きはローレンツだが)。さすがに全編聴くのはしんどいが、バーンスタイン自身の豪華盤は話題にもなり、当時はよく聴かれていた(それすら全曲ではない)。ダンスを楽しむには舞台であり、音ではどうにもこうにもだが、それでも、バーンスタインの作曲の腕をもってこの録音くらいなら聴かせる力がある。けしてシリアスなバーンスタインの作風ではないが、ユダヤの出自を押し出した交響曲などよりある意味結局は「アメリカ人」である(トニーのような)自身を素直に投影した作品として聴くことも可能である。
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☆ルーセル:組曲

2018年03月16日 | Weblog

◎ザッヒャー指揮ラムルー管弦楽団(PHILIPS)

パウル・ザッヒャー氏が亡くなっていたということをつい半年前まで知らなかった。数年前、90代の現役指揮者として来日するとかしないとかいう記事を新聞で読んだ記憶があり、バルトークやオネゲルなど20世紀前半の大作曲家を後援し作品委属ならびに演奏を行った時代の生き証人が、まだ現役であるということに感慨を覚えたものだ。このまま死なずにえんえんと生き続けるのではないかと思うほど精力的な活動を続けていたこの人も、結局鬼籍に入ってしまったのか、と落胆した。言わずと知れたスイスはバーゼルの室内楽団の主宰者で、ごく若い頃から既にバリバリ演奏活動を行っていて、演奏精度は他の追随を許さなかったと言われる(そのわりに録音が極端に少ないのはどうしたものか、私もこのほかにはオネゲルの1枚くらいしか持っていない)。それにしてもロザンタールも亡くなってしまったし、いよいよ20世紀音楽も過去のものとなりつつあるのか。

うーん、悲しい。さて、

これはもうほぼ同時期の3番シンフォニーと並んでルーセルの代表作と言っていいだろう。バレエ音楽で見せた溌剌とした躍動性と硬質な叙情性がオーバード、牧歌、仮面舞踏会の3つの楽章に凝縮されている。シンフォニーよりわかりやすく、簡潔で引き締まった楽曲だ。ザッヒャーは明るくしなやかな音楽を描く。それは不思議なほど垢抜けていて、ルーセルの欠点であるリズムの鈍重さもまったく感じさせない。これも欠点、分厚く脂ぎった響きも見事に灰汁抜きされ、非常に軽やかに、まるで遊園地の音楽のように懐かしいセピア色の感傷を秘めたものへと昇華されている。楽天性はルーセル本来の持ち味だが、それがたとえばミュンシュがやると管弦楽の重たさと相克してしまい、今一つ入り込めない人を産み出してしまう。だがザッヒャーはこの曲で一番晦渋な緩徐楽章「牧歌」においても、ミヨー的なひびきの晦渋さを極力おさえ、わかりやすい調性的な主題を過剰にならないように巧く浮き彫りにしている。ともするとストラヴィンスキーの影響を過大に誇張するようなどぎつい色付けをされがちなルーセル作品であるが、ザッヒャーの適度な透明感と適度な艶美性があいまったきらめくように鮮やかな色彩感は実に見事と言うほかなく、そのすがすがしさ、楽しさはもうこの上ない。アンサンブルも完璧。引き締まった弦楽、規律正しい木管・金管はしかし堅苦しさの微塵もなく、音色やフレージングには遊び心すら感じられる。曲がザッヒャーの性向と見事に一致していると言ったらいいのか。至上の幸福感を味わえる演奏だ。文句無し◎。

※2004年以前の記事です

FRでCD-R化していると思う。
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アイアランド:前奏曲「忘れられた儀式」

2018年03月15日 | Weblog
ボールト指揮LPO(LPO)1970年代live・CD

アイアランド初期の人気作。例によって古代の島嶼部の風景を写した音詩になるが、かなり素直で、ドビュッシーの影響を穏健に受け、しんとした情景での管楽ソロやメロディアスなところの和音の重厚な揺らぎにディーリアスの影響が聞いて取れるが、僅かな部分にはヴォーン・ウィリアムズに近いものも存在する。つまりこの二人の得意とする心象的な表現を狙っている。そこにハープなど少し特殊な音を織り交ぜ独自性としている(それすらホルスト的ではある)。1912年当時としては作風が古かったと思われるが、アイアランドはこのような穏健な作風と呪術的な複雑さのある作風を後年使い分けたようである。題名は祭礼(RITE)としているものの、後者の作風はまだ全く無い。おしなべてロマンティックで壮大な、なだらかな丘のような構成の、とても清々しく美しいワグナー風の厚い響きをも持つ作品だ。ボールトには1965/12のlyrita録音が知られるがこれはそれより後のライヴで、状態は残念ながら悪い。この繊細な世界を味わうには不利である。何人かの指揮者が録音しているので新しいもので静寂の中、聴けば楽しめるとおもう。
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☆ミヨー:ピアノ協奏曲第1番

2018年03月15日 | Weblog
ロン(P)作曲家指揮ORTF?(columbia/cascavelle/pearl他)1935/4/5・CD

被献呈者と作曲家による骨董記録だが、今聞いてもやっぱりこの曲の決定版。一楽章は録音のせいもあって少しまだのりきっていないが、二楽章は前衛性がパリのオシャレな洗練により後年の作品より晦渋にならずに済んで、ロンだから硝子のような響きが、六人組の世俗性より、ミヨーもわりと仲の良かったラヴェルに近い仄かな感傷を燻らせる。何より派手に始まる三楽章のロンの大御所たる表現力、曲がじつに簡潔に上手く出来ている、そこにきてタッチの確かさとスピード。重すぎず大風呂敷すぎず、これぞフランスのピアニズム。これに尽きる(その盛り上がりはまさに新古典主義!)。作風がミヨー得意のプロヴァンス風の牧歌的な旋律で曇りのないもので、全三楽章でも15分もかからないから初心者にもわかりやすい。細部が聴こえないゆえ一部技巧に陰りがあるように聴こえるかもしれないが、この曲だから弾けないはずはない。錯覚だろう。pearlのほうが音が聴きやすかった覚えがある。自作自演新録はアントルモンだが作曲家も年を取りアントルモンも芸風が芸風なので熱量とスピードは劣る。オケは聴き劣りしない。オケ名は原盤にちゃんと書いていないようでまちまちだが、まだ設立されてなくてもまあ書いてある通り、ということでハテナ付きで。

※2017-02-26 22:06:30の記事です
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コープランド:静かな都会

2018年03月14日 | Weblog
バーンスタイン指揮NYP(DG)1985live・CD

3番シンフォニーと組み合わされているが何れも穏健な作風に依っており、こちらはしんとした空気感を持つ劇音楽からの編曲で、コーラングレのための、とも書くがコーラングレとトランペットの対話のような、ソロを中心とした音詩。高音をひたすら分厚くし低音域(ここでは弦楽のみ)は1パートしか受け持っていない、そういう空疎な響きがアメリカ的なるものを、カラッと晴れた西部の荒野に吹きすさぶ風のようなものを感じさせる(これは「市」だけど)。バーンスタインにしてはすこし冷たく感じるのは曲のせいか、このころのニューヨーク・フィルの持ち味か。特筆すべき派手さはなく、旋律もぱっとしないが、劇音楽として意味を考えて聴けば面白みもあるかもしれない。
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ドビュッシー:管弦楽組曲第1番(マヌリ一部補筆)

2018年03月14日 | Weblog
ロト指揮レ・シエクル(ASM/warner)2012/2/2パリ(世界初録音版)・CD

三曲目「夢」以外は完全な草稿が見つかり(ピアノ連弾版は既に知られる)、びっくりの「ピリオド演奏」による初稿版海とともに発売されたばかりの音源が、早速Warnerに融通されて全集の一部として発売されている(海は未収録)。成人したばかりの学生時代の作品とはいえ同時期にすでに「春」「小組曲」が発表されており、期待は高まる。しかし30分の印象は後ろ向き。ワグナーというよりロシア国民楽派だ。ワグナーの和声や管弦楽の影響があるとすればリムスキーを通じてくらいのものではないか。ロマンティックで、穏やかで書法も自然で、「春」が好きなら勧められるが、ドビュッシーを求めるならかなり聴き込まないとダメである。まさかグラズノフの交響詩みたいなものが出てくるとは思わなかった。まあ、ロシアの革新あってドビュッシーの革新があった証拠ではあるか。補筆された三楽章はひときわ凡庸感が強いので、それを気にする必要はない。四曲目は仰々しくも清々しい響きの盛り上がりをしっかり作っている。各曲の題名は素晴らしくドビュッシーだ。以下


バレエ

行列とバッカナール

演奏は透明感があり神経質なほど響きとアンサンブルのまとまりを重視している。フランス往年のオケの持っていた雑味のなさがこのような曲だとすこし逆に、飽きをきたさせるところもある。スコア外の色の変化をも求めたくなる。木管や弦楽はいいがブラスが単調な曲なので派手に鳴らされる箇所はウンザリするが、これこそロシア節からの影響なのだろう。
Comments (4)
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ドビュッシー:ピアノと管弦楽のための幻想曲(改訂版)

2018年03月13日 | Weblog
○デュシャーブル(P)プラッソン指揮トゥルーズ・キャピトル国立管弦楽団(warner他)CD

ステレオの良い録音だが音質的には少し古びて聴きづらいところもある。「改訂版」によっており、warnerのドビュッシー全集ではフェヴリエの「原典版」と並べて収録されている(後者モノラル、ともにEMI音源か)。原典版のほうが単純に長い。詳細は省略。明るい音で危なげない演奏をくりひろげ、ミュンシュとアンリオのものなんかに比べるとソリストもそれを含むアンサンブルも技巧的にすぐれているように聴こえる。また全体設計もしっかりできており巨視的にまとまっていて、長ったらしい同曲をちゃんと聞かせるように配慮が行き届いている。だらりとしたテンポの冒頭からは想像できないほどスピーディーでかっちり噛み合った演奏に仕上がっていくさまは圧巻だ。音色は明るくフランス的で、ソリストの透明感もまさしくそういったところだが、指がよく回り緩急も即興ではなくきちんと理由のある付け方をして上手い。セッション録音なので細かな音響的仕掛けも聴き取ることができ、クライマックスの三楽章は聞きもの。どうせならフェヴリエではなくステレオの新録音と並べてほしかった(差がわかりにくい)。
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☆スーク:アスラエル交響曲

2018年03月13日 | Weblog
ターリッヒ指揮チェコ・フィル(supraphon)1952/5/22,28・CD

ヴァイオリニスト、ヨゼフ・スークの祖父にあたるチェコの作曲家。これは5楽章からなる大作交響曲である。師であり義父でもあるドヴォルザークの死、さらに作曲中の妻の死が、「死の天使」アスラエルを名前に持つこの陰うつな作品を生んだ。陰うつとはいえ諸所に美しい響きの箇所がある。リヒャルト・シュトラウスら西欧の世紀末音楽、印象派のドビュッシー、さらにロシアの異人スクリアビンを彷彿とするところがあり、国民楽派の民族的な作風とは異なっている。第3楽章にヴィヴァーチェ(といってもそんな聴感はない)の楽章を据え、1、2楽章にアンダンテ、4、5楽章にアダージョを置いている。ターリッヒの演奏は古く余り録音状態がよくないため、この精妙な作品を味わい尽くすことはできないものだが、適度に緊張感があり、とくに響きの感覚に鋭敏なところを感じる演奏となっている。

※2004年以前の記事です
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ワグナー:歌劇「さまよえるオランダ人」序曲(ドビュッシー二台ピアノ編曲)

2018年03月12日 | Weblog
エッセール、プリュデルマシェ(P)(warner)live・CD

warnerのボックス集成シリーズの中でもきわめつけのマニアボックスで、他社音源からの融通はもはや当たり前だが、とにかくドビュッシーのホンモノの全曲集成として企画された三十枚余りに及ぶCD。さすがにデータやライナーはあまりしっかりしておらずそれもあって配信で聴いているが、CDだと既存盤とのダブリを考慮したら若干高い感はあるものの、これのために録音された初物(多くはこの曲のような編曲や版違いとなるが)は他に替えがたい価値がある。たとえさまよえるオランダ人が「まんまじゃん!」というもので和音一ついじってないにせよ、初期ドビュッシーのスタイルを思い起こさせるロマン性、ワグナー自体のはらむ現代性、ドビュッシーマニアなら満足はいくだろう。演奏はほとんどフランス人によっており、こだわりはドビュッシーの権威が監修しているところからも伺える。もちろん他人の編曲や、補筆版もある(生前のドビュッシー自身が管弦楽配置を他人に任せがちだった)。注記はあるが、個人所有の楽譜は対象外としており、オーリッジ氏のプロジェクトは(ほぼオーリッジ作品と言えるような代物だからだろう)無し、管弦楽のための間奏曲についても対象外として収録していない。編曲も全部網羅しているのかどうか、少し疑問はあるが、面白い音源がカンタータあたりにもあるし、フランソワなど往年の名録音もふくまれるし、何よりピアノと管弦楽のための幻想曲が2バージョン、改訂版が含まれるのも嬉しい。興味があればどうぞ。
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☆ショスタコーヴィチ:交響曲第7番「レニングラード」(1941)

2018年03月12日 | Weblog
△バルシャイ指揮ユンゲ・ドイチェ・フィル+モスクワ・フィルのメンバー(BIS)1991/6/21,22live・CD

話題盤だったものだが、純粋に演奏だけを聞くとどうも今一つの感が否めない。爆発的な力感など望むべくも無いし、バルシャイだから主観的に盛り上がるようなことも無い。だがバルシャイに望まれる研ぎ澄まされた音の繊細なまでのコントロール、アンサンブルの緊密さというものすら聞かれないのだ。混成オケだから仕方ないのだが、もっと集中力がほしいし、激しい場面ではもっともっと鋭い音が聞きたい。柔らかな録音のせいかとも思ったのだが、最大の要因はオケの技術的限界だろう。懸命さは聞こえなくはないが、そもそも、頑張っている、と聴衆に思わせてしまったらプロとしては失格である。この盤には残念だが良い箇所が見つからなかった。

※2004年以前の記事です
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ディーリアス:舞曲(フェンビー編)

2018年03月12日 | Weblog
デュラン(fl)フェンビー指揮ボーンマス・シンフォニエッタ(EMI)1979版・CD

編曲元を寡聞にして知らない。舞曲と呼ばれる曲はラ・カリンダからのアリアと舞曲のフェンビーによる編曲(これはこのトラックのあとに収録されているので別物)、ハープシコードのための舞曲(これがディーリアスとは思えないような生ぬるい後期ロマン派で憂いのある同曲とは長さも違う)、チェロのための曲(不明)が確認できるが、何かの抜粋かピアノ曲かもしれない。三分弱のディーリアスらしい【踊れない舞曲】で、ほの暗いメロディに沿ってリズムを刻むさまはヴァイオリン・ソナタの中間楽章などでも聴かれる調子だ。鬱曲と言えよう。ただ、ディーリアス特有のオーケストラの重さが無いのは編曲作品だからか。演奏は良い。
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ディーリアス:イルメリン前奏曲

2018年03月11日 | Weblog
○フェンビー指揮ロイヤル・フィル(unicorn)1987版・CD

唸るほど美しいヴァイオリンの音色。まだ単純な、それだけに純粋にメロディの爽やかな感傷と細やかなハーモニーにやられてしまう。フェンビーはほんとにこの音楽を愛している、もっと言うならディーリアスのメロディを愛している。バルビローリというメロディの異才がディーリアスにおいて独特の高みを示す一方、フェンビーは使徒としての十二分の役割を果たしている。とにかく、弦楽合奏の響きも黄金に眩く輝き、絶品。木管やハープも音色を損ねない。強いて言えばホルンに少し違和感があるが曲のせいだろう。
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ディーリアス:弦楽合奏のためのソナタ(フェンビー編)

2018年03月11日 | Weblog
フェンビー指揮ボーンマス・シンフォニエッタ(EMI)1979版・CD

通常大編成版としては【去りゆくつばめ】のみ演奏されるものだが、これは編曲者が弦楽四重奏曲を全曲、四楽章すべて弦楽合奏用に編曲したものだ。単純に肥大化させたわけではなくソロの導入や奏法の工夫などしっかり創意も入れた編曲になっている。私は原曲から先に入ったので【去りゆくつばめ】即ち三楽章の【大仰さ】に辟易したのだが、鄙びた素朴な味わい、これはディーリアスが室内楽についてはあまり手を付けなかった理由、耳で聴くぶんにはボロディン2番めいた楽しさがあるものの、弾くと結構なんだかなーという偏ったアンサンブルの感じがあり、私の譜面にはビーチャムの手が入っている旨書いてあるが、やはり編成の大きく分厚い響きを動かしてこそのディーリアスであるのだろう(ピアノは別)。その点、フェンビーは純粋な【ディーリアス節】を取り出し、軽やかな味付けを施すから、いわばディーリアス晩年のフェンビーが口述に基づき書いた作品にとても近い聞き心地がする。【夏の歌】が好きなら比較的楽しめるだろう。四楽章構成で聴くと案外いけるなあ、と思ったのは、編曲者自らの指揮であるせいもあろうか。オケもリリカルで、専門室内楽団に要求されるようなキリキリするほどのアンサンブルの力は無いが、それが鄙びた民謡風味にもあっているか。【去りゆくつばめ】はただ、原曲をお勧めはする。あの哀しみ、ディーリアスの愛したつばめが今年は遅く飛び立っていった、心象的な、微細な音符の動きは大編成には不向きだ。
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