作曲家(P)ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R)?live
放送音源。簡単な作曲家紹介に重ねて僅かしか流れない。ストラヴィンスキーの影響の強い曲だなあ、くらいの印象しか残らない。無印。録音悪し。一緒に収録されているのはダフクロ二組の穏やかなリハとダンディの僅かなリハ、そして壮絶な悲愴のリハ風景。50年代と思われるが、オケが鳴っていようが関係なく歌い叫び喋くり乱れるミュンシュと意のままにノリまくるボストン響の余りにスリリングで濃厚な、ひょっとすると本番より全然凄い演奏。
(参考)チェレプニン先生のピアノ協奏曲の現役盤はこれしかない。。![]() | チェレプニン:ピアノ協奏曲第2番 Op26 ピアノ協奏曲第4番「幻想曲」 Op78 他 [Import]BISこのアイテムの詳細を見る |
○コリン・デイヴィス指揮王立歌劇場管弦楽団(DA:CD-R)1973/9/6live
最もロシア国民楽派的にして最も急進的なオペラ作曲家ムソルグスキー。リムスキーの手による整理をへない姿は一長一短。ロシア臭を臆面もなく振りまく、全体設計のはっきりしないまるでオペラかバレエ音楽かといった長々しい常套的表現がグリエールあたりまでのロシアの伝統の中のものとしか捉えられない半面、随所に見出される非常に先鋭な音感覚、まさにラヴェルらフランス派に影響を与えたような和声的天才性が剥き出しになっており、現代の耳をもってしても驚くべき効果をあたえているように感じられる。麻薬かアルコールの力を借りたとしか思えない、無造作に配置されているのではなく必然性をもって劇的音楽の要所要所を締めている。デイヴィスの指揮は熱があり、オケも激しい。音はイギリスなりの透明感を持っているが、歌劇場オケであるからこその原曲の劇性が際立っているとも言えるか。なかなかの演奏。録音も明瞭なステレオ。
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(参考)しょうじき安いです。
他にアバドのDG版など。
最もロシア国民楽派的にして最も急進的なオペラ作曲家ムソルグスキー。リムスキーの手による整理をへない姿は一長一短。ロシア臭を臆面もなく振りまく、全体設計のはっきりしないまるでオペラかバレエ音楽かといった長々しい常套的表現がグリエールあたりまでのロシアの伝統の中のものとしか捉えられない半面、随所に見出される非常に先鋭な音感覚、まさにラヴェルらフランス派に影響を与えたような和声的天才性が剥き出しになっており、現代の耳をもってしても驚くべき効果をあたえているように感じられる。麻薬かアルコールの力を借りたとしか思えない、無造作に配置されているのではなく必然性をもって劇的音楽の要所要所を締めている。デイヴィスの指揮は熱があり、オケも激しい。音はイギリスなりの透明感を持っているが、歌劇場オケであるからこその原曲の劇性が際立っているとも言えるか。なかなかの演奏。録音も明瞭なステレオ。
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![]() | ムソルグスキー:展覧会の絵、はげ山の一夜 ボロディン:中央アジアの草原にて(CCCD)オムニバス(クラシック)エイベックス・クラシックスこのアイテムの詳細を見る |
○ラフリン指揮モスクワ放送交響楽団(SERENADE:CD-R他)
MELODIYA原盤、そちらは別項にあげた。セレナーデは単純板起こしのはずが強調処理やノイズリダクトの感じがして、いかにもロシアなアナログの巨大なぶよぶよした音響を、少し乾燥させ主観的にわかりやすく彫刻しなおしたような違和感をおぼえた。元が悪い録音とはいえスケールが落ち、デジタル圧縮音源の復号化した音みたいにも感じ、単純勉強用にデュナーミクやテンポの変化だけを拾うには向くがとくに弦楽器のニュアンスや厚みの変化を読み取るには不足をおぼえる。まあ、細部を無視し大局的な解釈だけ正確に聞き取れるゆえ、あー、ラフリンも大局的にはたいした解釈を提示してないんだな、ということを認識できたぶん価値があった。
MELODIYA原盤、そちらは別項にあげた。セレナーデは単純板起こしのはずが強調処理やノイズリダクトの感じがして、いかにもロシアなアナログの巨大なぶよぶよした音響を、少し乾燥させ主観的にわかりやすく彫刻しなおしたような違和感をおぼえた。元が悪い録音とはいえスケールが落ち、デジタル圧縮音源の復号化した音みたいにも感じ、単純勉強用にデュナーミクやテンポの変化だけを拾うには向くがとくに弦楽器のニュアンスや厚みの変化を読み取るには不足をおぼえる。まあ、細部を無視し大局的な解釈だけ正確に聞き取れるゆえ、あー、ラフリンも大局的にはたいした解釈を提示してないんだな、ということを認識できたぶん価値があった。
○ゴーベール指揮パリ音楽院管弦楽団(COLUMBIA)1929・SP
色彩的でリズムの明瞭ななかなか迫力のある演奏。純管弦楽的な表現で、描写音楽にしては抽象度が高い。ベートーヴェン的ですらありベルリオーズ的でもある。ロシア国民楽派のルーツとしてのリストを感じさせるのは編曲のせいか、現行版より西欧的なパセージが特徴的。聴く価値ある演奏。
色彩的でリズムの明瞭ななかなか迫力のある演奏。純管弦楽的な表現で、描写音楽にしては抽象度が高い。ベートーヴェン的ですらありベルリオーズ的でもある。ロシア国民楽派のルーツとしてのリストを感じさせるのは編曲のせいか、現行版より西欧的なパセージが特徴的。聴く価値ある演奏。
○ロヴィツキ指揮ワルシャワ・フィル(LYS他)1960-67・CD
この指揮者の荒っぽく派手好みで耳障りな音楽作りが私は耳にきつくて余り好きではない。LYSの復刻集成は加えて板起こしのやり方が荒々しくフォルテでの雑音や音色の汚さが聴くにたえない。しかしこの演奏も辛抱強く聴けば感情を揺り動かされないわけではない。聴き辛い部分と聞き込ませる部分がモザイク状に配置されている、といったふうだ。東欧的な硬い音色がとにかく気に入らないし雑味も気に入らない、でも、まあ、○にはすべきだ。
この指揮者の荒っぽく派手好みで耳障りな音楽作りが私は耳にきつくて余り好きではない。LYSの復刻集成は加えて板起こしのやり方が荒々しくフォルテでの雑音や音色の汚さが聴くにたえない。しかしこの演奏も辛抱強く聴けば感情を揺り動かされないわけではない。聴き辛い部分と聞き込ませる部分がモザイク状に配置されている、といったふうだ。東欧的な硬い音色がとにかく気に入らないし雑味も気に入らない、でも、まあ、○にはすべきだ。
ガウク指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(MELODIYA)LP
ステレオ。だが・・・ステレオだからこそ、グズグズの演奏ぶりが露骨に聴こえてしまう。曲はリムスキーやボロディンの気配もするがおおむねグラズノフ風の渋いものであり、長々しく非構造的で余り上手ではない感のある楽曲になっており、演奏者が如何に料理するかで印象が大きく変わるたぐいのものだが、とにかく木管を中心としてオケの統率がなっておらず、音程すら悪く感じられ、どうにも聞いていられない箇所が多い。無印。
ステレオ。だが・・・ステレオだからこそ、グズグズの演奏ぶりが露骨に聴こえてしまう。曲はリムスキーやボロディンの気配もするがおおむねグラズノフ風の渋いものであり、長々しく非構造的で余り上手ではない感のある楽曲になっており、演奏者が如何に料理するかで印象が大きく変わるたぐいのものだが、とにかく木管を中心としてオケの統率がなっておらず、音程すら悪く感じられ、どうにも聞いていられない箇所が多い。無印。
○ガウク指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(MELODIYA)LP
ステレオ。リムスキー風のオリエンタルな曲で、極めて色彩的で単線的な取り止めの無いところがいかにもシェヘラザードを彷彿とさせる。表面的な幻想性の強いムードに対してガウクはフランスものやレスピーギで見せた意外と適性あるところを見せていて、美しくもわくわくさせるような楽しい演奏にまとめている。作品的には凡作だが、○。
ステレオ。リムスキー風のオリエンタルな曲で、極めて色彩的で単線的な取り止めの無いところがいかにもシェヘラザードを彷彿とさせる。表面的な幻想性の強いムードに対してガウクはフランスものやレスピーギで見せた意外と適性あるところを見せていて、美しくもわくわくさせるような楽しい演奏にまとめている。作品的には凡作だが、○。
○ガウク指揮ソヴィエト国立放送管弦楽団(MELODIYA/LMC,A440records)
タネーエフ作品としては近年4曲の交響曲が数えられているが、1,2番は習作として作品番号すら振られておらず、3番についても演奏譜が出版されなかったことから、かつてはこの4番が「1番」とされた(但し「2番」以降は無い)。参考までにハンス・モルダーの解説抄訳
~この曲は1898年に作曲されモスクワにてジロティの指揮で初演された。出版は1902年、交響曲第1番作品12としてグラズノフに献呈された。実際にはタネーエフの四番目の交響曲である。1番~ホ短調~は音楽院卒業試験のために作曲された。2番は1878年に書き始められたものの放置され再び筆をとるのは音楽院の仕事を引き受けたのちのことであった。交響曲第3番ニ短調はアレンスキーに献呈された素晴らしい作品であるが、1884年に書かれ後年インペリアル・ミュージック・ソサエティによって初演された。しかし1947年まで出版されることはなかった。
ハ短調交響曲は大規模オーケストラのために作曲されているが、ベートーヴェンの古典的なオーケストラ編成が未だ根本にある。古典的な交響曲の基本である4つの楽章により編まれている。第一楽章(アレグロ・モルト、3/4)はヴァイオリンと木管による主題提示から始まり、他の弦楽器とブラスが主題の第二パートに入ってクライマックスに持っていく。著しいコントラストを示す第二主題のワルツはその後すぐに低弦からモルト・エスプレッシーヴォで提示される。
第二楽章はヴァイオリンの美しい旋律から始まる(アダージオ、2/4)。中間部(ピュー・モッソ)はチェロとベースから律動的で唸るような音形が現れ、オーボエの短くなだめるような旋律によって応えられる。
第三楽章スケルツォ(ヴィバーチェ、6/8)は軽く淡い。オーボエ・ソロの主題から始まる。中間部~三部形式で書かれてはいないが~は6/8から2/4に変わり、リズムのみならず遅いテンポへの変化で印象が変わる。この「トリオ」はアダージオ主題の三~四小節目に基づいており、ヴァイオリンによって再現される。
最終楽章、フィナーレ(アレグロ・エネルジコ、アラ・ブレヴ)でタネーエフは主題の素材を再び第一楽章ならびに第二楽章に求めている。この楽章はまず第一楽章の最初の主題のリズムを変容させた行進曲的なムードから始まる。第二並びに第三主題は第二楽章の中間部からとられている。前者は小さなオーボエの旋律がヴァイオリンに用いられている。後者は唸るような音形の最初からなる。ヴァイオリンとチェロのために編まれているが、暗いムードを保つためにG線で演奏される。解決としてそれら主題を違うスピードで同時に用いているが、まさにタネーエフの対位法的技術の熟練を示している。クライマックスとしてタネーエフは第一楽章のワルツ主題に還り、フルオーケストラによるハ長調・モルト・マエストーソに至る。
~訳してどうこういうこともないし譜例が載せられない以上余り意味が無い気もするが、まあ、こういう曲ということはわかると思う。非常に西欧的な曲であり、メンデルスゾーンやら(作曲技術の練達さが髣髴とさせる)フランクやら(両端楽章の循環的な構造や主題のムードが似ている)、とりわけブラームスやらといったロマン派先行交響曲をかなり意識した作風である。構造的なところは特筆すべきでグラズノフ以上のものがあり、メロディも鮮やかでチャイコフスキーのようによくできている。ガウクはやや弱体なオケを煽りに煽り荒れ狂って、かなりテンポの起伏もつけ、アタックも激しくつけて盛り上げてくる。グラズノフ風スケルツォである三楽章など舞踏リズム処理の巧いガウクの真骨頂だが、一方ゆったりとした表現では音色が痩せがちで、終楽章のワルツ主題回帰など効果的にやろうと思ったらいくらでもできそうなものだが、テンポが急くように速く仰々しさがないから盛り上げ方が足り無い。もっと潤いが欲しい。全般トスカニーニ的で力強いが、同曲の魅力を拡げるものではなく、○にとどめておく。好み的には◎だが。
タネーエフ作品としては近年4曲の交響曲が数えられているが、1,2番は習作として作品番号すら振られておらず、3番についても演奏譜が出版されなかったことから、かつてはこの4番が「1番」とされた(但し「2番」以降は無い)。参考までにハンス・モルダーの解説抄訳
~この曲は1898年に作曲されモスクワにてジロティの指揮で初演された。出版は1902年、交響曲第1番作品12としてグラズノフに献呈された。実際にはタネーエフの四番目の交響曲である。1番~ホ短調~は音楽院卒業試験のために作曲された。2番は1878年に書き始められたものの放置され再び筆をとるのは音楽院の仕事を引き受けたのちのことであった。交響曲第3番ニ短調はアレンスキーに献呈された素晴らしい作品であるが、1884年に書かれ後年インペリアル・ミュージック・ソサエティによって初演された。しかし1947年まで出版されることはなかった。
ハ短調交響曲は大規模オーケストラのために作曲されているが、ベートーヴェンの古典的なオーケストラ編成が未だ根本にある。古典的な交響曲の基本である4つの楽章により編まれている。第一楽章(アレグロ・モルト、3/4)はヴァイオリンと木管による主題提示から始まり、他の弦楽器とブラスが主題の第二パートに入ってクライマックスに持っていく。著しいコントラストを示す第二主題のワルツはその後すぐに低弦からモルト・エスプレッシーヴォで提示される。
第二楽章はヴァイオリンの美しい旋律から始まる(アダージオ、2/4)。中間部(ピュー・モッソ)はチェロとベースから律動的で唸るような音形が現れ、オーボエの短くなだめるような旋律によって応えられる。
第三楽章スケルツォ(ヴィバーチェ、6/8)は軽く淡い。オーボエ・ソロの主題から始まる。中間部~三部形式で書かれてはいないが~は6/8から2/4に変わり、リズムのみならず遅いテンポへの変化で印象が変わる。この「トリオ」はアダージオ主題の三~四小節目に基づいており、ヴァイオリンによって再現される。
最終楽章、フィナーレ(アレグロ・エネルジコ、アラ・ブレヴ)でタネーエフは主題の素材を再び第一楽章ならびに第二楽章に求めている。この楽章はまず第一楽章の最初の主題のリズムを変容させた行進曲的なムードから始まる。第二並びに第三主題は第二楽章の中間部からとられている。前者は小さなオーボエの旋律がヴァイオリンに用いられている。後者は唸るような音形の最初からなる。ヴァイオリンとチェロのために編まれているが、暗いムードを保つためにG線で演奏される。解決としてそれら主題を違うスピードで同時に用いているが、まさにタネーエフの対位法的技術の熟練を示している。クライマックスとしてタネーエフは第一楽章のワルツ主題に還り、フルオーケストラによるハ長調・モルト・マエストーソに至る。
~訳してどうこういうこともないし譜例が載せられない以上余り意味が無い気もするが、まあ、こういう曲ということはわかると思う。非常に西欧的な曲であり、メンデルスゾーンやら(作曲技術の練達さが髣髴とさせる)フランクやら(両端楽章の循環的な構造や主題のムードが似ている)、とりわけブラームスやらといったロマン派先行交響曲をかなり意識した作風である。構造的なところは特筆すべきでグラズノフ以上のものがあり、メロディも鮮やかでチャイコフスキーのようによくできている。ガウクはやや弱体なオケを煽りに煽り荒れ狂って、かなりテンポの起伏もつけ、アタックも激しくつけて盛り上げてくる。グラズノフ風スケルツォである三楽章など舞踏リズム処理の巧いガウクの真骨頂だが、一方ゆったりとした表現では音色が痩せがちで、終楽章のワルツ主題回帰など効果的にやろうと思ったらいくらでもできそうなものだが、テンポが急くように速く仰々しさがないから盛り上げ方が足り無い。もっと潤いが欲しい。全般トスカニーニ的で力強いが、同曲の魅力を拡げるものではなく、○にとどめておく。好み的には◎だが。
○ロヴィツキ指揮ワルシャワ・フィル(LYS他)1960-67・CD
民族的な荒々しさを感じさせるリアルな演奏だが技術的な弱さもなくしっかりした縦の揃った音楽となっている。この人のつねとしてここでは夜明けの弱奏部に憂いがなく魅力がないが、悪魔や魔女の乱舞する前半部は独壇場。なかなか凄絶。録音は左右の分離のきつい古いステレオだが不足はない。
民族的な荒々しさを感じさせるリアルな演奏だが技術的な弱さもなくしっかりした縦の揃った音楽となっている。この人のつねとしてここでは夜明けの弱奏部に憂いがなく魅力がないが、悪魔や魔女の乱舞する前半部は独壇場。なかなか凄絶。録音は左右の分離のきつい古いステレオだが不足はない。
○ロストロポーヴィチ(Vc)コンドラシン指揮モスクワ・フィル(russian disc)1964/3/13モスクワ音楽院大ホールlive・CD
どうにも評しようのない現代曲だが、こういう曲も手を抜かずしっかり表現することができた万能の人ロストロ先生。オケはなかなかの集中力。いちおう○。
どうにも評しようのない現代曲だが、こういう曲も手を抜かずしっかり表現することができた万能の人ロストロ先生。オケはなかなかの集中力。いちおう○。
○L.コーガン(Vn)コンドラシン指揮モスクワ放送交響楽団(MELODIYA)
フレンニコフが諸所でやけに目に付くと思ったら先月亡くなったそうで。。。前に紹介したDVDなど見直すことをお勧めする。48年の有名な「批判」でのプロコなどに対する糾弾は悪名高いがこの曲などほとんど、平易な作風に落ち着いた晩年のプロコが美しく力強い旋律を駆使して多少長めに作り上げた、といったふうの作品である。このあたりの作曲家の間には大した距離はなかったのだ。後年擁護の言をとったというのも当たり前かもしれない。この聞きやすさの裏にある目覚ましい機械的な構造は後年のカバレフスキーの余りに民族に阿った作風よりよほどショスタコ・プロコふうにとんがっている。シェバーリンの弟子という位置づけにあるがいろいろな想像を生む話でもある。これは初演メンバーによる演奏である。コーガン最盛期ってこのあたりなのだろうか、すさまじく正確でそれでいて憂いまで帯びたような演奏振りは、この旋律だけで突き通された楽曲を非常によく弾きこなしており、むしろコンドラシンのバックが鈍重と思えるくらいだ(終楽章のピッコロなどひどい)。非常に聞きやすいのに新鮮な感触の味わえる、円熟味の感じられる曲であり、構造的な単純さはともかく、いい演奏で聞けばカタルシスは得られよう。それにしても、ソヴィエトはほんとうに、遠くなった。

フレンニコフが諸所でやけに目に付くと思ったら先月亡くなったそうで。。。前に紹介したDVDなど見直すことをお勧めする。48年の有名な「批判」でのプロコなどに対する糾弾は悪名高いがこの曲などほとんど、平易な作風に落ち着いた晩年のプロコが美しく力強い旋律を駆使して多少長めに作り上げた、といったふうの作品である。このあたりの作曲家の間には大した距離はなかったのだ。後年擁護の言をとったというのも当たり前かもしれない。この聞きやすさの裏にある目覚ましい機械的な構造は後年のカバレフスキーの余りに民族に阿った作風よりよほどショスタコ・プロコふうにとんがっている。シェバーリンの弟子という位置づけにあるがいろいろな想像を生む話でもある。これは初演メンバーによる演奏である。コーガン最盛期ってこのあたりなのだろうか、すさまじく正確でそれでいて憂いまで帯びたような演奏振りは、この旋律だけで突き通された楽曲を非常によく弾きこなしており、むしろコンドラシンのバックが鈍重と思えるくらいだ(終楽章のピッコロなどひどい)。非常に聞きやすいのに新鮮な感触の味わえる、円熟味の感じられる曲であり、構造的な単純さはともかく、いい演奏で聞けばカタルシスは得られよう。それにしても、ソヴィエトはほんとうに、遠くなった。
