「労働」、翻訳語、外来語の検討。続き
前々回と前回は「権利」という翻訳語にについてでした。こういう基本概念は大学で哲学を担当する先生が教室でもっと吟味してもらいたいものです。今、「哲学」が大学ですみに押しやられているようですが、基本概念を学生に考えさせるだけでも、哲学の先生はとても大きな存在意義があると思います。
今回は「労働」。work、labor (labour)の訳語、というより、もともと日本語であったような単語です。でも、子供のころから、「労働者」というと、どうして商店主や農家、経営者たちは含まれないのだろうかと疑問に思っていました。社長さんだって働いているではないか、と。単に「働く」と「労働」は意味が違うのか、と。
答えは意外と早くやってきました。「労働」というとき、労働はなんらかの代償によって報われるもので、多くの場合、数字で表わすことができる売り物だということです。「労働」は売り渡してなんぼです。そこで、働いたにも拘わらず給料が払われない、寡少であるということは、「労働が盗まれた」と言えることになります。経営者は我々の労働を盗む盗人であるという論理につながります。それにより経営者からお金を奪い返すことは正当な権利となり、「革命」が正当化されることにもなりかねません。
世に労働歌というものがあり、その歌詞は、将来もたらされる代償のために現在の苦痛に耐えよというものです。「代償を交換価値とする労働」という考えがもとにあリます。「働く」こと自体を歌っているという感じではないのです。
有名な『森の水車』は「仕事にはげみましょう。」「いつの日か楽しい春がやってくる」で終わります。
緑の森の彼方(かなた)から
陽気(ようき)な歌が聞えます
あれは水車のまわる音
耳をすましてお聞きなさい
コトコト コットン
コトコト コットン
ファミレドシドレミファ
コトコト コットン
コトコト コットン
仕事にはげみましょう
コトコト コットン
コトコト コットン
いつの日か
楽しい春がやって来る
雨の降る日も風の夜も
森の水車は休みなく
粉挽臼(こなひきうす)の拍子(ひょうし)とり
愉快(ゆかい)に歌を続けます
コトコト コットン
コトコト コットン
ファミレドシドレミファ
コトコト コットン
コトコト コットン
仕事にはげみましょう
コトコト コットン
コトコト コットン
いつの日か
楽しい春がやって来る
もしもあなたが怠けたり
遊んでいたくなったとき
森の水車の歌声を
ひとり静かにお聞きなさい
コトコト コットン
コトコト コットン
ファミレドシドレミファ
コトコト コットン
コトコト コットン
仕事にはげみましょう
コトコト コットン
コトコト コットン
いつの日か
楽しい春がやって来る
陽気(ようき)な歌が聞えます
あれは水車のまわる音
耳をすましてお聞きなさい
コトコト コットン
コトコト コットン
ファミレドシドレミファ
コトコト コットン
コトコト コットン
仕事にはげみましょう
コトコト コットン
コトコト コットン
いつの日か
楽しい春がやって来る
雨の降る日も風の夜も
森の水車は休みなく
粉挽臼(こなひきうす)の拍子(ひょうし)とり
愉快(ゆかい)に歌を続けます
コトコト コットン
コトコト コットン
ファミレドシドレミファ
コトコト コットン
コトコト コットン
仕事にはげみましょう
コトコト コットン
コトコト コットン
いつの日か
楽しい春がやって来る
もしもあなたが怠けたり
遊んでいたくなったとき
森の水車の歌声を
ひとり静かにお聞きなさい
コトコト コットン
コトコト コットン
ファミレドシドレミファ
コトコト コットン
コトコト コットン
仕事にはげみましょう
コトコト コットン
コトコト コットン
いつの日か
楽しい春がやって来る
果たして、働きというものは代償ということで言い尽くせるものでしょうか。フランスの詩人、ポール・ヴァレリーが、木の葉を描いている画家のドガに、「なんて絵描きは辛抱のいる仕事だろう」と言ったら、ドガが、「お前はばかだ。こうやって描くのが楽しいのが絵描きなんだよ」と応じたといいます。
以下の、音楽評論家、吉田秀和へのインタビューで、吉田がこのことについて語っています。15分30秒ぐらいから。
ここには世に「労働」と言われるのとは異質の哲学が表明されているとみることができます。
子供のころのことに戻りますが、周りの中小企業主の間で、communistsが嫌われた、あるいは恐怖を持って見られたのはこういう労働=代償説だったようです。経営者=盗人という見方は職場の信頼関係を損なうと見られたのです。もうひとつ、世襲ということを、「親が金持ちだという理由だけで金持ちになれるのは不正だ」と言う理由で、communistsが毛嫌いすることも忌まわしいことでした。経営者にとってcommunismはこういうものでした。経営者はマルクスを読んでいるわけではないのですが、心の片隅にみな小さなドガを持っていたのです。
現代の複雑な社会の問題を解決するためには労働を数字化することは必須です。ですから政府の語彙にも「労働」はあり、問題を分かりにくくしますが、「万国の労働者よ、団結せよ」という場合の「労働」とは厚労省の「労」は違うのです。