外国語学習の意味、そして母国語について考えましょう

社内公用語の英語化、小学校での英語の義務化など最近「英語」に振り回され気味ですが、何故、どの程度英語を学ぶか考えます。

福沢諭吉の愉快な英語修行 1 刻苦勉励の巻

2018年11月25日 | 福沢諭吉と英語のつきあい

福沢諭吉の愉快な英語修行 1 刻苦勉励の巻

今回のシリーズは。ほとんど、『福翁自伝』(65歳。明治31年:1898年)の解読と言っていいでしょう。ですが、日本における英語学習者の第一号の一人がどう苦労したかを本人の口から聴いてみることは無意味ではないでしょう。あえて「口語訳」にせず、原文(青文字)で引用しますが、晩年の聞き書きということもあり、現代人にも分かりやすい文体です。

笑う福沢英語修行とはいうものの、どうしても、その前の蘭学(オランダ語)時代、それに福沢の意外な悪戯好きな面にも触れないではいられません。過去にかようなpractical joker=英語で悪戯好き、がいたでしょうか。大笑いです。しかし、福沢のこの面は一万円札の畏まった風貌の裏に隠されたままあまり人に知られていません。いまだかつて福沢のpractical jokeを全面に打ち出した物語やテレビドラマがないのは慶応義塾が後ろに控えているからかもしれません。

とはいえ、英語学習ブログを謳っている当サイトでは、蘭学、practical jokerの面は抑えに抑えて、いまでも生きている福沢の英語学習に対する態度に注目していただけたらと思います。

今回は、緒方洪庵の蘭学塾で福沢を含め書生がどのように勉強していたかを紹介します。大変な勉強ぶり、勉学への情熱が伺われます。

(-----) 夕方食事の時分に、もし酒があれば酒を飲んで初更(ヨイ)に寝る。一寝して目が覚めるというのが、今で言えば十時か十時過ぎ。それからヒョイと起きて書を読む。夜明けまで読んでいて、台所の方で塾の飯炊きがコト々飯を焚く仕度をする音が聞こえると、それを合図にまた寝る。寝て丁度飯の出来上がったころ起きて、そのまま湯屋に行って朝湯に這入って、それから塾に帰って朝飯を給べてまた書を読むというのが、大抵緒方の塾に居る間ほとんど常極りであった。(岩波文庫 p.81)

ここでは競争ということがとても前向きに行われています。以下の長い引用を見てください。現代の試験制度とどこが違うか考えてみたいです。次回の冒頭で、現代の英語学習、いや、勉強ということそのものに対する批判をくみ取ることができるという点について触れます。それはさておき、最期の方に「市中に出て大いに酒を飲むとか暴れるとか云うのは」云々とあるのが気になるところです。

適塾二階会読(かいどく)は一、六とか三、八とか々大抵たいてい日がきまって居て、いよゝ明日が会読だと云うその晩は、如何な懶惰生でも大抵寝ることはない。ヅーフ部屋と云う字引のある部屋に、五人も十人も群をなして無言で字引を引きつゝ勉強して居る。それから翌朝の会読になる。会読をするにもくじでもってここからここまでは誰ときめてする。会頭はもちろん原書を持て居るので、五人なら五人、十人なら十人、自分に割当てられた所を順々に講じて、もしその者が出来なければ次に廻す。又その人も出来なければその次に廻す。その中で解(げ)し得た者は白玉、解げし傷こなうた者は黒玉、それから自分の読む領分を一寸ちょっとでも滞りなく立派に読んで了まったと云う者は白い三角を付ける。これは只の丸玉の三倍ぐらい優等なしるしで、およそ塾中の等級は七、八級位ぐらいに分けてあった。そうして毎級第一番の上席を三ヶ月占しめて居れば登級すると云う規則で、会読以外の書なれば、先進生が後進生に講釈もして聞かせ不審も聞いて遣り至極しごく深切にして兄弟のようにあるけれども、会読の一段になっては全く当人の自力に任せて構う者がないから、塾生は毎月六度ずつ試験に逢うようなものだ。

緒方洪庵2そう云いうわけで次第々々に昇級すれば、ほとんど塾中の原書を読尽くして云わば手を空なしうするような事になる、その時には何かむずかしいものはないかと云うので、実用もない原書の緒言(ちょげん)とか序文とか云うような者を集めて、最上等の塾生だけで会読をしたり、又は先生に講義を願ったこともある。私などはすなわちその講義聴聞者の一人でありしが、これを聴聞する中にも様々先生の説を聞て、その緻密なることその放胆なること実に蘭学界の一大家、名実共に違たがわぬ大人物であると感心したことは毎度の事で、講義終り、塾に帰って朋友相互いに、「今日の先生のあの卓説はどうだい。何だか吾々は頓(とん)に無学無識になったようだなどゝ話したのは今に覚えて居ます。

 市中に出て大いに酒を飲むとか暴れるとか云うのは、大抵たいてい会読を仕舞ったその晩か翌日あたりで、次の会読までにはマダ四日も五日も暇があると云う時に勝手次第に出て行ったので、会読の日に近くなるといわゆる月に六回の試験だから非常に勉強して居ました。書物をよく読むと否とは人々の才不才にもよりますけれども、ともかくも外面を胡魔化して何年居るから登級するの卒業するのということは絶えてなく、正味の実力を養うと云うのが事実に行われて居たから、大概の塾生はよく原書を読むことに達して居ました。岩波文庫p.83

刻苦勉励、食事も寝るのも忘れるようなありさまでしたが、塾頭、長州出身の村田蔵六、のちの大村益次郎が、この人は、のちに福沢に言わせれば「攘夷の発作」のようなことを起こす人ですが、塾を去り、ほどなく福沢が頭角を現わし塾頭になります。塾頭とはいえ、今でいえばタメグチを聞かれる間柄、塾生たちに痛めつけられることもあったようです。それには、福沢の方にも理由がなかったわけではありません。

つづく(福沢諭吉2へ)