外国語学習の意味、そして母国語について考えましょう

社内公用語の英語化、小学校での英語の義務化など最近「英語」に振り回され気味ですが、何故、どの程度英語を学ぶか考えます。

画期的英文法書『マーフィー英文法』に不足していること

2017年08月12日 | 英語学習、教授法 新...

画期的英文法書『マーフィー英文法』に不足していること


今2017年8月、療養のためお休みしていたブログ、および、スクールの広告サイトを再開します。

マーフィー英文法英国"Grammar in Use" by Raymond Murphy (Cambridge)、通称、『マーフィーの英文法』という本をご存知ですか。英語で書かれた本ですが、邦訳も出版されています。日本の本屋に並んでいる「英文法書」のなかで、革命的と呼んでもよい優れた本です。

何が革命的か。英語学習者が困難を覚える点に焦点を合わせて記述、編集されている点です。今までの典型的な文法書は、たとえば、名詞、動詞、文型、などのの章が、相互の関係なく、並んでいて、各章には、それぞれ細分化された分類が行われます。なんとなくそれでいいような気になるのは、他の教科、そうですね、地理などと同じようなものだと心のどこかで感じているからでしょうか。北アメリカ、ヨーロッパ、アフリカとならび、さらに、北アメリカの章であれば、ワシントン、ニューヨーク、ハワイの産物などの説明が並びまず。北アメリカとヨーロッパの関係は如何に、ましてや、北アメリカとアフリカの関係は如何に、ということが書いてあることは、だれも教科書に期待しません。

しかし、ちょっと考えれば、名詞と動詞の違いは、北アメリカとアフリカの違いとは違う点に気がつくでしょう。名詞の意味は、動詞との違いが分からなければ分かりません。動詞の意味も名詞との違いが分からないと分かりません。つまり、文法の各項目は、各項目内の説明だけではなく、相互に関係している点に本質的な重要性があるのです。もっと言えば、言語という元来分けられていない現象を、習うために人為的に、あるいは人工的に分けたのが文法項目なのです。ですから、「私はアメリカの地理には詳しいよ」ということには意味がありますが、「私は英語の名詞の精通している」というのはナンセンスに過ぎません。

ラテン文法ところが、伝統的な英文法というものは、ヨーロッパ人がラテン語の文章を読むときの格(case)変化の変化表などから類推したもので、「正しい英語」を書くための規範という側面が強かったのではないかと思います。品詞の分類なども決して、外国人が英語を学ぶ助けとして作られたものではないのです。しかし、日本では、いや、他の国でも、なんとなく「英語を学ぶ助け」になるだろうとして疑うこともなく伝統文法を教科書に取り入れ、ときどき「規範」的な面が出て来たとき、「これは教科書に書いていないから、正しくない英語だ」などと言っても不思議に思わなくなりました。

その点、マーフィーの文法書は、英語を母国語としない人が英語を学ぶ際、一番重視する必要がある点、躓き易い点を中心に編集されています。伝統的な文法書のように、「名詞」、「動詞」、「文型」のような章分けを取らず、全145章(英国版:3rd Edition)中、最初に時の表現だけで25章を費やしています。その後、助動詞と仮定法が10章です。それだけ動詞部分の形が重要だということです。受験のための英語はリーディングと訳が中心なので、受験のための英語だけしか勉強していないと、時や助動詞の微妙な使い分けがいかに大切、かつ難しいかということに気がつかない人も多いでしょう。「なんでこんなに時の説明が多いの」と書店で不思議に思い、買うのを思いとどまる人がいるのが目に見えます。たしかに、

I have lost my wallet.も、

I lost my wallet.も

日本語にすると「財布を失くした」ですから、訳読だけを英語学習だと思い込むと、自ずと違いを学習する動機が薄れるというものです。マーフィーの文法書の右ページでは、上の各文の末尾にyesterdayがつけられるか、this morningならどうか、という練習問題がたくさん出てきます。それも、自習というより、教室で声を出して練習する形になっています。

ちなみに、各見開きごとに一章。左ページが解説、右が問題です。この構成は、有名な、I氏著の大学受験向け文法書の構成と同じですね。イラストも飾りではなく状況を判断して使い分ける問題に組み込まれています。

マーフィー 見開き例このように、構成だけ見ても今までの英文法書とはまったく違うのがマーフィーの文法書ですが、使っているうちにその限界にも気がつきます。しかし、限界があるからって、この書を貶めることにはなりません。マーフィー書を無視して英語を教えることは、今の日本では不可能ではないかとさえ思います。「独占」を恐れるほどです。それでも、マーフィーを知らない英語の先生が結構いるというというが不可解です。学生ではもっと多い。上の時の表現で述べたように、持っていてもこの本の意義を理解していない人にも多く出会います。

と、前提した上で、この本の限界をまず2点。

(1) 日本人向けに書かれたものではない。

(2) 紙に書かれたものである。

(1)について、マーフィーさんはロンドンで外国人に英語を教える経験からこの本を書いたと思われますが、そこではあらゆる母国語を持った人に共通する問題を扱っていたはずです。そのうち、中東、インド方面からの生徒が多かったと推察しますが、日本人は少数派であったにちがいありません。ですから、日本ごにはない、欧米語、とくに、英語に著しい疑問文の倒置構造についての練習はありません。最近、英語スクールで扱った「僕に何を手伝って欲しいの?」=What would you like me to help you with?など、なかなかすぐ言えませんが、マーフィーの本は練習の助けになりません。

英語スクール(2)は、なんだ?!、と思う人がいるでしょう。あまりに当たり前のことは頭に浮かばないものです。それは、言語は「音声」だということ。文字に書かれた言語は、それを写したものに過ぎません。人類始まって以来、音声だけの言語を持っている民族はいくらもいたでしょうが、文字言葉しかない民族はいなかったということは、確かめてみる必要はありません。さすがのマーフィーの本もここに大きな限界を持っています。上で、右ページの問題を声を出して練習する形になっている、それに、イラスト付だとも述べました。たしかにマーフィーさんも努力していますが、限界は否めません。やけに「限界」を強調するではないか、という声も聞えてきそうですが、じつは、現在、この限界を超えるのは不可能ではないからです。それは、インタネットを使うことです。カーンアカデミー(註)のような、マーフィーのネット版が出たら、そのサイトは大人気になることはまちがいないでしょう。

最期に、といいますか、じつは、これからが考察の課題になるのです。マーフィーの文法書は学習の手順が示されないという特徴があります。各章は、その時々、疑問に思ったり、間違いやすかったりするところを紐解いて見るという形が好ましく、通読するには適しません。I willとI am going toの違いは?、asの使い分けはどうするのだろう、couldとwas(were) able toの違いは、had betterとshouldの違いは?という疑問には、単に抽象的な説明だけでなく、直観的に間違わないようにするための適切な問題が右ページにあります。しかし、何をどういう手順で学習するか、何を優先し、何を後回しにするかは示されません。まあ、たしかに、時と動詞を優先すべきだというメッセージは強く伝わりますが、具体的にどうカリキュラムに組むかは分かりません。英語の先生でマーフィーを知らない人が意外に多いということの理由の一つはそれかも知れません。

さて、当ブログの「新英語学習、教授法」の章は、マーフィーの文法書を常に念頭に置きながら、何をどういう順序で、それに、もっと本質的なことですが、英語学習の中で英文法をどう具体的に関連させるか、さらに、もっともっと本質的なことですが、日々の学習活動、言語活動のなかで、「英文法」の位置づけるかを考えて行きたいと思います。

註:米国で、銀行員のカーンさんが始めた、電子黒板を使った数学、理科教室サイト。