外国語学習の意味、そして母国語について考えましょう

社内公用語の英語化、小学校での英語の義務化など最近「英語」に振り回され気味ですが、何故、どの程度英語を学ぶか考えます。

伊藤博文はどれくらい英語ができたか。3/3

2016年09月18日 | シリーズ:日本人の英語

 

伊藤博文はどれくらい英語ができたか。3/3

 その後、西南戦争、憲法制定、清国との交渉を通して、よく知られる、歴史の表舞台での活躍が続きます。「伊藤博文と英語」に関しては、歴史書にあまり記述が見つかりませんでしたが、拓殖大学の塩崎智さんといわれる方が、日清戦争から日露戦争にいたる時期の資料を発掘されました。以下の内容は、塩崎さんの論文に基づいたものです。(註1)

ヘンリー クルーズ1871年に遡りますが、伊藤一行(福地源一郎、陸奥宗光、中島朔太郎ら)が米国に貨幣制度の視察に赴いた際、多忙な政府関係者に代わって、公私にわたり日本人の世話を行ったヘンリー・クルーズという銀行家がいます。日本国の紙幣印刷の入札などで骨を折り、井上臨時大蔵大臣から、絹布一枚がクルーズに送られました。クルーズによると、その後も日本の要人と文通を続けていましたが、再びクルーズが史料に現われるのは1895年、日清戦争の時の、伊藤博文との往復書簡などからです。公開書簡のやりとりは、日露戦争まで続きます。

1895年10月30日、New York Tribune紙上に、A LETTER FROM MARQUIS ITO – The Japanese Prime Minister Writes to Henry Clewsという記事が載ります。そこに引用されたのが以下の伊藤博文の書簡です。(訳文は未完)

The following is Marquis Ito’s letter to Mr. Clews: Tokio,September 17, 1895

 Dear Mr. Clews: It is with a very pleasant and grateful feeling that I begin these lines. Your book, “Twenty-eight Years in Wall Street,”  which you kindly sent me, was received while I was in Kioto, where I availed myself of the scanty moments of leisure and read it with a good deal of interest. The delay in acknowledging the receipt of your thoughtful gift I trust you will attribute solely to the constant pressure of business. I now find myself doubly indebted to you by your kind letter of August 7. As I read it the memories of “good old days” vividly come up to my mind. Let me thank you for your lasting cordiality and friendship. The contents of your letter have received my careful consideration. I fully indorse your motto: “Let justice be done, though the Heavens  fall.”Japanhas no other ambition than to attain to the highest state of civilization.  She will never do violence, however slight, to the cause of justice and truth. Again  thanking you for your kind and friendly suggestion, and with my kind regards, I am, dear Mr. Clews, yours very sincerely.

 HIROBUMIE ITO.

 この時期から日露戦争に至るまで、クルーズとの往復書簡が米国の有力紙などに掲載されますが、これは日本の代表の意見を米国民に伝えるための巧みな広報活動だったと思われます。She will never do violence, however slight, to the cause of justice and truth.(「日本は、どんなに些細なものであっても、正義と真実の大義を、力で踏みにじるようなことはしません」)の部分、いや、この書簡全体の主な意図は、当時問題となっていた旅順虐殺事件を意識したものでしょう。日の丸演説の当時とちがい、英語のアドヴァイスを与えてくれる人は金子堅太郎をはじめ、ことかかなかったと思いますが、以下のような個人的ニュアンスの強い原文からは、伊藤個人の書いたものだという印象を受けます。 

ウォール街28年ウオール街30年 クルーズYour book, “Twenty-eight Years in Wall street,”  which you kindly sent me, was received while I was in Kioto, where I availed myself of the scanty moments of leisure and read it with a good deal of interest.

「お送りくださった御著書、『ウォール街での28年』は、私が京都にいる間に届き、在京中、わずかな余暇を利用して引き込まれるように読ませていただきました。」

 10年後の日露戦争時には、何度も電信で、伊藤自身が日本の立場を英語で米国人に訴えている姿が見られます。これほどのレベルの英文ですから、「中学英語」程度の英語力では、部下に下書きをさせたとしても、責任ある内容チェックはできません。そのため「中学英語に毛がはえた」程度以上の英語力はあったと考えるのが自然だと思います。ちなみに津田梅子も伊藤博文の英語アドヴァイザーだったそうです。

伊藤博文高杉晋作しかし、伊藤博文の英語において評価すべきは、たんに「~程度の英語力」ということではなく、日本語しか知らない江戸時代の人間が、日本語以外の言語を用いて、明確な意思を相手に正確に伝えることができたということです。往復書簡という、一方通行ではない言語活動がそのことを証明しています。しかも公開書簡です。ふつう、「英語ができる」と言ったとき、「英文解釈が達者」、「英文が立派である」、「会話によどみがない」という意味で、そう言いますが、その際、上の三つの一つのみを念頭において言うのがたいていです。そのどれも、「お互いに正確に理解し合う」という意味を目指して言われているわけではありません。ところが、往復書簡を見れば「お互いが正確に理解し合」っているかどうかは、一目瞭然です。その点で、福沢諭吉、ジョン・万次郎などの、維新当時の英語の達人とされる人たちとは異なる意義を「伊藤博文の英語」は持っていると思います。

註1:拓殖大学『語学研究』 122号 2010年3月 p.101

http://journal.takushoku-u.ac.jp/lcri/lcri_122.pdf

註2:写真上:ヘンリー・クルーズ、写真中:『ウォール街の28年』、写真下::中心が高杉晋作、向かって右が伊藤博文。


伊藤博文はどれくらい英語ができたか。2/3

2016年09月18日 | シリーズ:日本人の英語

 

伊藤博文はどれくらい英語ができたか。2/3

 4カ国連合艦隊の攻撃前には、伊藤は英国公使、オールコック、通訳、アーネスト・サトーと交渉し、戦後の講和交渉では高杉晋作の通訳を務めました。その後も、武器取引、外国人殺傷事件の通訳、交渉係を担当する間に、1968年の明治維新を迎えます。

1864年の第一次長州征伐に際しては、「私の人生において、唯一誇れることがあるとすれば、この時、一番に高杉さんの元に駆けつけたことだろう」と語っています。逆に言うと、その後の維新の動乱を通しても、英雄的な活躍はあまりしなかったということです。歴史には、アイゼンハワー米国大統領のように、戦時の英雄が戦後リーダーになる例が多いのですが、伊藤が総理大臣になった経緯はまったくそういうものではないようです。 


岩倉使節団維新後の海外渡航は頻繁です。1870年から71年にかけては貨幣制度調査のために渡米、1971年11月には、岩倉使節団の一員として再渡米。31歳の伊藤は、サンフランシスコで、「日の丸演説」と呼ばれる演説を英語で行いました。これが文書で残されている伊藤の英語力の、最初の証です。

以下は、1,200語からなる原稿の一部です。教科書のような模範的は英語です。 

Within a year a feudal system, firmly established many centuries ago, has been completely abolished, without firing a gun or shedding a drop of blood. These wonderful results have been accomplished by the united action of a Government and people, now pressing jointly forward in the peaceful paths of progress. What country in the middle ages broke down its feudal system without war?

「過去数世紀にわたって確立していた封建制度は、1年以内に完全に廃止されました。その間、一発の銃声もなく、一滴の血も流されませんでした。このすばらしい結果は政府と人民による共同の作業によって達成されたのです。今や、政府と人民は力を合わせて進歩を平和裏に達成することに余念がありません。世界のどこに、戦争を経ずして、中世の時代にあった一国がその封建制度を打ち破った例があるでしょうか。」 


イギリス公使館のフランシス・アダムズは「伊藤の英語は流暢だった」と述べています。ワシントンの日本代表部職員であったCharles Lanmanは『伊藤博文伝』で、「歓迎の辞に応えて伊藤副使ははっきりとした声で次の答辞を述べたので、聴衆はその言わんとするところをよく理解できた」と述べています。ネット上の記事を読むと、ナショナリスト的な気分での、「よくやった」という趣旨の論評がほとんどですが、まれに、「まあ、たいしたことはなかった」と言う意見も見つかります。原稿作成においては、Lanmanら、米国人との共同作業が行われたと思いますが、常識で考えますと、やはり、かなり上手に話せたのではないでしょうか。

若い伊藤博文そう考える理由は二つあります。一つ目の理由は、長州ファイヴ、英語での交渉、米国視察など、密度の高い英語経験があるということ。『福翁自伝』にみられる福沢諭吉の英語学習経験よりも、さしせまったものがあったでしょう。福沢の英語学習はあくまで知的探究心が原動力でした。

もっとも、海外経験が多くても、学習動機が少ない人は外国語能力が伸びませんが(特派員や外交官にそういう人が見られます)、若い頃から、そして、首相になったあとも英語学習の動機が大変強かったことを考えると、この時点で、大観衆を前に英語で演説をする自信がついていたことに不思議はありません。安倍首相も、米国議会での演説では、英語能力には不足はあっても、達人といわれた宮沢喜一などより、ずっとコミュニケイション能力を発揮したようですが、100年以上前の伊藤の演説の意義は、それと比べてみるとより分かります。

 演説は以下のように結ばれています。「日の丸演説」と呼ばれるゆえんです。

"The red disc in the centre of our national flag shall no longer appear like a wafer over a sealed empire, but henceforth be in fact what it is designed to be, the noble emblem of the rising sun, moving onward and upward amid the enlightened nations of the world." 

Page 16. The Japanese in America by Charles Lanman  London : Longmans, Green, Reader and Dyer. 1872.

「私どもの国旗の中心に位置する赤い円形、これは、もう、わが帝国を封筒に押し込める赤い封蝋には見えることはなく、昇る太陽を象徴する高貴な刻印という、元来の意味として人々の目に映ることになるでしょう。これからは、世界の文明国に伍して、前進し、向上する旭日を意味することになるでしょう。」

3/3へつづく


伊藤博文はどれくらい英語ができたか。1/3

2016年09月18日 | シリーズ:日本人の英語

 

伊藤博文はどれくらい英語ができたか。1/3

伊藤博文伊藤博文が総理大臣になれたのは、英語力があったからだ、とういのは定説のようです。1885年(明治18年)、内閣総理大臣を選ぶ際、太政大臣であった三条実美を押す声も強かったにも拘わらず、井上馨の「これからの総理は赤電報(外電)を読めなくてはだめだ」という意見に、山県有朋が「そうすると伊藤君より他にはいないではないか」と賛成することで、伊藤博文が選ばれたと言われています。

しかし、どの程度英語ができたのでしょうか。中学英語に毛の生えた程度だという人もいます。そこで、ちょいと調べてみました。

(お断り:出典については、まだ確かめていない点も残っています。)

 まだ、維新の表舞台に登場するずっと前から、伊藤は熱心に英語を学習していたようです。1858年から1859年にかけて、長崎の長州藩邸に住み込みながら、英語の特訓を受けたそうです。久米正雄『伊藤博文伝』(1931)には、グラバー邸で伊藤にあったドイツ人、トロチックが伊藤について触れているそうです。伊藤は」下手な英語で遠慮しないで話しかけてくるのでトロチックは当惑した」そうですが、「イトーは進んで外国人に接近したので英語が驚くほど進歩した。」と書いてあるとか。英語の本を読みながら長崎を散歩する姿をトロチックはたびたび見かけたそうです。

長州ファイヴ 1963年には、先ほどの井上馨の推挙によって、長州ファイヴの一員として英国へ留学することが叶います。幕府はまだ海外渡航を禁じていた時代です。途上、上海で船を乗りかえる際、「何を学びたいのか」との問いに、navy(海軍)というべきところ、navigation(航海術)と言ってしまったから(だそうですが)、英国まで水夫使いされて、それはひどい目にあったと、伊藤も後で述懐しているそうです。後の時代でも、高橋是清は、奴隷として売り飛ばされたのですから、当時としては不思議なことではなかったのでしょう。

 4ヶ月かけてロンドンに到着後、当時、国籍を問わず学べた唯一の大学、ユニヴァーシティ・コレッジ・オヴ・ロンドンで、英語、化学、数学など、英語で授業を受講、滞在先の、化学者、ウイリアムソン宅でも礼儀作法、英語を学びながら、ロンドンの博物館、工場、海軍施設などで見聞を広めました。この間、約6ヶ月。薩英戦争の報、4カ国連合艦隊の長州攻撃近しとの報道に接し、急遽、帰国することになります。

 この時期までの伊藤の英語力についての記録は見つけられませんが、上のとおりに英語経験を積んでいるとすると、そうとう英語力がついていると推定できます。中学英語レベルは超えているでしょう。

2/3へつづく