外国語学習の意味、そして母国語について考えましょう

社内公用語の英語化、小学校での英語の義務化など最近「英語」に振り回され気味ですが、何故、どの程度英語を学ぶか考えます。

英語教育と国語教育:三世代家庭と外国語学習

2014年06月15日 | 教育諭:言語から、数学、理科、歴史へ

 英語教育と国語教育:三世代家庭と外国語学習

帝塚山大学名誉教授・伊原吉之助さんの評論に、興味深い一節が見つかりました。

『若者を未熟にした核家族の弊害』 帝塚山大学名誉教授・伊原吉之助
2014.6.4 03:08 (最終閲覧:6月16日)
http://sankei.jp.msn.com/life/news/140604/edc14060403080001-n1.htm

英語教科書この評論の全体の趣旨は、「祖父母の存在は歴史と社会という外側の世界に子供の目を向けさせるので、子供の成長に欠かせない」ということです。それを、おもに、その反対例である核家族の弊害と対比しながら論じています。とりわけ、言葉の習得に、三世代同居の影響が大きいと指摘しています。

もっとも、この種の意見は、一般的な検証が困難なので、「保守派のたわごと」として片付けられがちな意見でもあります。こうした意見は定期的にマスメディアに登場ます。その際、一定の数の人が「溜飲を下げる」のですが、証拠がないので、人を動かし、具体的な対策にまで手が届かず、事態は変わらないという結果に終わりがちです。

 

ところで、この評論の趣旨とは別に、つぎの箇所に興味を持ちました。

 

日本人および日本文化の根幹は国語です。それがうまく継承されてゐません。日本人が言霊と尊び、聖書も「太初(はじめ)に言葉ありき」と宣言した大事な言葉を、戦後の日本人は実に粗末に扱ひました。せめて祖父母が孫と同居してゐれば基本はちやんと伝はつたのにと残念至極です。

 三世代家庭では敬語が自然と身につきます。父母が祖父母に敬語を使ふからです。そして敬語こそ人間関係を重んずる日本文化の精髄です。ここで孫は言葉の使ひ分けを学びます。これが将来、外国語を学ぶときに役立ちます。国語の使ひ分けは、国語と外国語の使ひ分けに通ずるからです。


abc 「これが将来、外国語を学ぶときに役立ちます。国語の使ひ分けは、国語と外国語の使ひ分けに通ずるからです。」という部分は、三世代家庭が好ましい論拠として、述べられています。著者はこのあとすぐに敬語の話を進めて、祖父母の存在が外国語教育に影響するという意見はこれ以上展開していませんが、ユニークな意見です。

 

外国語学習の本質をつきつめると、他者の理解ということに行き着きます。この場合の他者というのは、自分とは違う考えを持った人間という意味です。自分の持っている先入観、思い込みが通じないということは、外国語を学習する時、大きな障害でもあるし、また外国語を学習する際の深い動機となることです。外国語学習の最初の動機は、単に、「英語ができる自分がうれしい」とか、「映画を字幕なしで分かりたい」というようなことが多いのですが、この動機に目覚めるようになれば、その学習者の外国語学習が本物になったといえるでしょう。

伊原さんが述べている外国語とは、まさに、ここで述べた他者にほかなりません。自分たちが当たり前に思っている言葉が通用せず、または不適切な場合があるということをつきつめて、その一番先にあるのが外国語ということができます。このような他者の意識がないままで、英語学習を始めても、試験で点を取ってやめたり、えらそうに見せるために英語を学んだりすることに満足するだけに終わってしまうかもしれません。

ハロー外国語を学ぶ際、自分は本当は分かっていないのだろうか、自分の言ったこと、書いたことが通じていないのではないだろうか、という自問自答はとても大切なのですが、しだいに、つい、分かった気になっていまい、また、通じた気になってしまいがちです。「できる人」ほどその陥穽に陥いる可能性が高いのです。それはなぜか。その大きな一因は、外国語を「マスター」すべき技能、または道具だと思っているからだからと思います。しかし、言語は、国語であれ、外国語であれ、道具という客観的なものとして片付けられないもの、自分自身と切り離せない存在です。自分以外の他者に対する姿勢そのものであると言ってよいでしょう。その姿勢とは、外の世界に対して敬意を抱き、自分を疑い、謙虚な姿勢を維持することです。この姿勢があってはじめて、外国語学習は、楽しく継続でき、意義深いものになります。

この点で、祖父母の存在は、自分以外の世界があり、それが敬意の対象であることを体感させてくれるきっかけとして意味があると言えます。外国語学習が、じつは具体的に外国語を学ぶ前から始まっていると言っていいかもしれません。ブログのこのシリーズの分類項目は、「国語教育と英語教育」ですが、国語と英語を対立と妥協の関係でしか捉えない傾向にたいして、第三の意見を述べることが趣旨です。伊原さんの一節は、著者自身も軽く触れたと思っている点に過ぎないのかもしれませんが、外国語学習の本質について大切な点に触れていると思います。本質論ではありますが、一方、日々の英語学習、または英語の教員に対し、大きな示唆を与えていると思います。

しかし、この指摘も一般的な検証が困難なものです。「そうだ!」と思う人はいるでしょうが、一定の数の人が「溜飲を下げる」だけに終わらないで、少なくとも、国語の先生と、英語の先生の間の議論のきっかっけになってほしいですね。