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外国語学習の意味、そして母国語について考えましょう

社内公用語の英語化、小学校での英語の義務化など最近「英語」に振り回され気味ですが、何故、どの程度英語を学ぶか考えます。

小野田寛郎さん<5> 学習について

2014年03月12日 | 小野田寛郎さん

 小野田寛郎さん<5>


学習について

小野田 自然塾


「無意識に、遊びながら楽しんで覚えたことはふしぎに忘れないものです」と、いう感慨を、英語を学習している方から聞くことはあまりありません。しかし、 外国語の学習もこうでありたいものです。言葉は何かを知りたい、伝えたいという、、内側からの欲求、つまり遊びと同じ心持を軸に形成されます。競争心や、 利益、処世術の影で目立たなくなることが多いですが、言葉の学習の際にも忘れたくないことです。


『子どもは風の子、自然の子』p.191


人からいわれて、いやいやながらする勉強では、覚えることもなかなか身につきません。反対に、無意識に、遊びながら楽しんで覚えたことはふしぎに忘れない ものす。自分で気がつかなくても、脳のどこかに確実にインプットされているはずです。ところが、ぼくたちはしぜんに身についたものにはなかなか価値を認め ないのです。いい例はことばではないでしょうか。どんな子も毎日の生活の中でいろんなことをしながらしぜんと言葉を覚えてしまっているではありませんか。
日本に生まれて育って、日本語を話せない人はいませんし、日本語を覚えるために勉強したなどと、意識している人がいるでしょうか。幼少時は、知恵、知識も同じように、楽しんでいるうちに無意識に身につけるものではないでしょうか。


学校制度のなかで、ほとんどの人が勉強は「耐えなければならない苦」であると思うようになってしまっています。小野田さんのような野生児は、学校制度の洗脳から逃れることができたのでしょう。

楽しく英語を勉強したいものです。とくに小学生のクラスでは、楽しみから努力へとどう結びつけるか日々考えています。

小野田 牧場


小野田寛郎さん(4) 小野田さんの、子供のころの「ディベート」

2014年03月11日 | 小野田寛郎さん

小野田寛郎さん(4)

小野田さんの、子供のころの「ディベート」

『君たち、どうする』(新潮社 2004)に次のような一節があります。p.73

(---)私は因果なことに「負けず嫌いの強情者」だったのですから。


いつか母を言いこめてやろうと考えていましたが、母に叱られている時に言ったのでは「また口返答する」とお小言の種を増やすだけです。そこで、機嫌の良い 日を狙って、「お母さんは何時も親の心子知らずだと僕を叱るけれど、僕はまだ親になった経験がないから親心なんかわからなくても当たり前ではないの。それ よりお母さんも子どもの時があったのだから、その経験から子どもの心がわかるはずだと思うのだけれど」
と挑戦しました。「知識だけでは本当のことはわからない」という言葉をよりどころとした言い分でした。


小野田 10代

写真:右が10代の小野田さん 左は内貴直次さん


母は「またそんな屁理屈を並べ始めた」と言いましたが、私には「今日こそ決戦だ」の思いがあり、その位で引き下がれませんでした。


「だったら知識だけで経験がなくてもすべてわかるわけ?説明して」とさらにつめ寄りました。「食べてみなくても聞くか、見るかでお汁粉もお酒も味がわかるのだったら世話がない」とたたみかけたのです。


母は辟易して「もうわかったよ。『ネソ(寝ころんでばかりいる者)が事すりゃ大ごとする』で寝そべりながら考え、企んできたのだろう」と矛先をかわしました。私は、
「お母さんは、親を泣かすようなことばかりしていると、今度は親になって泣かされるぞと脅かすけど、今僕に泣かされているのなら、お母さんも子どもの時お ばあさんを泣かせたのだろう。そうでなければ僕に泣かされるはずはない。仏様は因果応報だと教えているとお母さんから何べんも聞いたけど」とあくまでも食 い下がりました。

案に相違して母は、
「そうだね、そういわれればやっぱり親に無理な事をいって困らせた覚えがある」
と話し始めました。もう権柄ずくで黙らせる年齢でもないからと感じたからだったのでしょうか、それとももう屁理屈といえなかったからでしょうか。

小野田 上海

写真:左が小野田さん 17歳 中国での商社員時代


母は末娘で、他に女兄弟はいなかったから可愛がられて育ちました。ある日、友だちが赤ちゃんをおんぶして遊びに来たので自分もそうしたいと思って、「赤ちゃんを産んで、おんぶしたいから」とねだったそうです。


ねだられた祖母はもう子どもを産める年齢ではないことを、母は知らなかったのです。あまりうるさいので、祖母は母のために猫を飼ってやり、母はそれをネンネコに包んで遊びに出たのだそうです。

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以上、珍しく引用のみでした。明日は小野田寛郎さんがルバング島から帰還して、40年目。



小野田寛郎さん(3) 小野田さんは、なぜ出てこなかったか。

2014年03月11日 | 小野田寛郎さん

小野田寛郎さん(3)

小野田 鈴木

小野田さんは、なぜ出てこなかったか。

このコラムは、英語教育、学習をテーマにしていますが、英語学習は、国語学習と気っても切れない関係がありますから、言語一般の話しは、むしろ積極的に取 り上げる予定です。

「小野田さんはなぜ出てこなかったのか」について一言。
前のコラムで触れた戸井十月は、01:08:24あたりで、「いまだに僕は(---)、不思議なのは、30年間近く(---)、ジャングルの中でがんばれ たんですかね、何故ですかね」」と尋ねています。

「出てこなかった」原因には、小野田さんの方と日本側の両方があるはずですが、戸井さんは小野田さんの方 の原因のみを考えています。このインタビューの性格上、仕方がないことでしょう。

では、日本側の原因は何か。小野田さんは「命令が下達されなかった」ということを繰り返し述べていますが、そのことをもう少し掘り下げてみましょう。小野 田さんの言ってる通り、前に投降した人間が、「住民とフィリピン政府に処刑されるのを恐れている」と言ったから、日本政府は「命は保証する」ということだけ言い続けたのでしょう。しかし、 少し考えれば、継続して威嚇活動、サボタージュを続けているわけですから、小野田さんが作戦計画を忠実に行っているのではないかと、考えることもできたわ けです。そうだとしたら、「投降命令」を命令系統を踏まえて伝えることの方が有効だということになります。従来の呼びかけと平行し て行うこともできるでしょう。軍人は命令と名誉によって動くものです。

なぜそうしなかったのでしょう。たぶん、1974年当時の「時代」の風潮のなかで、そういうことを思いつかなかったのでないかと思います。たとえ、中野学 校でいっしょだった末次一郎のような人が提案したとしても(実際、提案したかどうか分かりませんが)、受け入れられない雰囲気があったのではないでしょうか。誰も がなんとなく前提している当時の考え方は「人命尊重」です。1970年、日航機、よど号が「日本赤軍」のメンバーのよって乗っ取られた事件でも、「人名は 地球より重い」という考えにの下に人質が解放されました。そういう考えに捉われて、「殺さないから出て来い」と言うことばかり呼びかけて、小野田さんの考 えていることに思い及ばなかったのではないかと思います。(三島由紀夫が生きていたら何といったか、考え込んでしまいます。)


小野田さん 朝日


私たちは無意識に、その時代の考え方や雰囲気に支配されていて、何を言うにしても、行うにしてもそれを前提しています。ある意味で、それは言語の本質で す。まるでそれがないかのように無意識に使っていながらも、相手とのコミュニケーションが成り立つというのが言語です。ですから、その言語の外側にいる 人、つまり外国人には言葉は通じません。小野田さんのように基本的な母国語は共有していても、29年間に変化し、醸し出された無意識の共通言語の外側にいる人には通じなかったの でしょう。このことは私たちが言語を使う、また習う場合にも教訓となることです。言葉を相手に届ける場合、自分たちが無意識に前提していることを疑ってみ ることなしには通じない場合があるのです。

言語以外のことに触れる予定でしたが、結局、言葉の問題に戻ってきてしまいました。

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ついでに:

では、なぜ出てきたか。小野田さんのイメージの対極と言えるドロップアウトの「ヒッピー」、鈴木紀夫青年だけが、小野田さんの説得に成功した理由も考えてみる価値があります。小野田さんによると、鈴木青年だけが、島の住民と親しく交わり、「島の山猫」、「森の王様」について、住民の感触を得ていたからだということです。政府も、家族、戦友たちも、フィリピーノと対等のコミュニケーションを持とうとしなかったのでしょう。住民が「島の山猫」を最もよく知っていたにも拘わらず。

鈴木青年は1987年に、雪男を探しに行ったヒマラヤで死去しました。その死を悼んだ小野田さんは、寒さには弱いにも拘わらず、ヒマラヤの遭難地点を訪れました。「鈴木君はなぜ、(---) 急にこんな危険な場所にテントを移動したのだろうか。きっと彼は、雪男を見たのだ。(---) 私はそう信じたかった。」

(『たった一人の30年戦争』東京新聞:1995)



小野田寛郎さん(2)

2014年03月04日 | 小野田寛郎さん

  小野田寛郎さん(2)

英語教育とは関係ありませんが、文ではなく、語り方や表情で伝わることについて、一言。

小野田さんの語り口
2005年の、戸井十月によるインタビュー中心の番組から。
http://www.youtube.com/watch?v=I55pGrmbX1c

「みんな豊かになったからそれでいいんじゃないの、って。と云うのは、もう結局、そう言って自分に言い聞かせているだけですよね。」

小野田さんの語り口には、「ですよね」が目立ちます。英語の、Qustion tag、付加疑問に対応する表現です。仏語を学んでいる時、「おしつけがましい」から連発するなと教えられましたが、不思議と、小野田さんの「ですよね」には押し付けがましさが感じられません。

「心理的にはね、だれも命のかかることはやりたくないんですよね。」


「日本の天皇と、よその、外国の天子とは、ずいぶんかっこう、ちがいますよね。だから、自分たち、民族が作った1つの、あのお…、国の形、いわゆる、国体というか、1つの国の形なんですよね。」

このように、「ですよね」という語尾が目立ちますが、「ですよね」を連発した、かつてのニュースキャスター、のKの押し付けがましさが感じられません。

Kの言い方はこうです。「僕はそれが本当に全然わからないんですよね。」(K)、「 やっぱりお金ってある種使うためにあるような気がするんですよね。」(K)。「僕が」、「気がする」という主観的な気分を述べる文脈で、「ですよね」と使 うのは、語法として変なのですが、ある種の感情(ナルシズムでしょうか)に捉われているので気がつかない、とういう印象を受けます。

小野田さんの、「ですよね」には、「当然であるので言うまでもない」、しかし、「私は当然だと思うが、人がそう思わないのなら、それはそれで結構です よ」、という気持ちを伝える姿勢が現れています。あえて自分を語ろうとはしなかったが、求めたら淡々と語ったという、突き放したような小野田さんの姿勢の 現れではいないかと思います。
小野田 インタビュー


小野田さんの発言の語り口や、表情自体が表現が豊かです。ですから、上のように文字にしてみると、伝わらない部分が残ってしまいます。01:38:23 で、ブラジルに来るとどういう気持ちかと問われて、「ほっとする」と述べていますが、、関西のイントネーションで答えている、その時の表情は、文字では伝 わらないものを伝えています。(東京のイントネーションで「ほっとします」と言わないと失礼になるのですが、関西弁だと自然です。)

 


小野田寛郎さん (1)

2014年03月04日 | 小野田寛郎さん

 英語教育から少し外れますが…。

小野田寛郎さん(1)

1月16日、小野田さんが亡くなって、日本の新聞より外国の新聞の方が熱心に訃報を出しているようです。ニューヨーク・タイムズ、ワシントンポストという、米国の新聞(リベラル系)の記事を読んでみました。

NYT(140125) http://www.nytimes.com/2014/01/18/world/asia/hiroo-onoda-imperial-japanese-army-officer-dies-at-91.html?smid=tw-share&_r=0

WP(140125) http://www.washingtonpost.com/world/asia_pacific/hiroo-onoda-japanese-soldier-who-hid-in-philippine-jungle-for-29-years-dies-at-91/2014/01/17/7016d806-7f8b-11e3-93c1-0e888170b723_story.html

しかし、内容は、①日本の文化、歴史についての型にはまった偏見、②小野田さんの人間に迫ってない、という特徴が顕著であると思え、私はあまり感銘は受けませんでした。

"To many Japanese at the time, he embodied prewar virtues of endurance, obedience, and sacrifice" (=発見当時の日本人にとっては、小野田は忍耐、従属、自己犠牲というような戦前の価値を体現した存在であった。)

---という調子です。

読んだ上で、これらの長い記事が書かれた理由を推測すると、「浦島太郎、または、リップ・ヴァン・ウィンクルが、現代都市に忽然と現れた物語」だから、面白かろう、ということです。

しかし、なぜ、①島に留まったか、なぜ、②呼びかけに応じなかったのか、なぜ、③出てきたか、なぜ、④ブラジルへ行ったか、なぜ、⑤教育活動をしたか、これらは、全く伝わりません。

小野田さんについて知りたい方は、ATP賞テレビグランプリのドキュメンタリー部門優秀賞を受賞した、戸井十月(昨年7月に死去)の1時間50分のインタビュー中心のドキュメンタリーを見てみるとよいでしょう。

「わがまま」で、competitive(負けん気が強い)人間が、一方で、「らしく」振舞うことを基軸に据える、という生き方が浮かび上がって来ます。

小野田さんは、アイロニーと諦念の混ざった語り口で自己を複眼的に語ります。物事を両面から捉える発言が多いので、理解するためには注意深く聴く必要 があります。

インタビューアーは典型的な「戦後の子」。何をどう訊いていいか分からないと様子ですが、そういう人を小野田さんにぶつけるという企画なのでしょう。
http://www.youtube.com/watch?v=I55pGrmbX1c
英語の字幕を求めるコメントが二つありました。だれかに作りませんか。

小野田さんの1974年来の基本的自己認識は「自分は戦犯である」ということでした。また、戦友を死なせたことに関連し、「だから、なんか生きてるっていうことはあまりうれしくないのね」と若いタレントを相手に、微笑みながら述べている場面があります。

http://www.youtube.com/watch?v=uWa5QMud7PI 2分15秒

そのタレントの反応はいかに…。