昨日が自分の母のことで今日の映画がこのタイトルですが、順番に書いている読書、音楽、映画でたまたま番が回ってきただけです。ねこの話でも書いて1回開けようかとも思いましたが、それもかえっておかしいので今日も勇気を出して。
なお当然のことですが、生前私の母は「まったくきれいでないおかあさん」でした。高校の頃、ゴルフ場経営者の息子の同級生H君のお母さんが中学校教員だった父の最初の教え子で、何かの時にその若くてかっこいい白のギャラン・シグマを操るお母さんに送ってもらった後で家に着き、こたつでどうずばっている茶色のカローラの母に「何でそうゆうん。Hのお母さんなんかすごくきれいでかっこいいんだで」などとぶっ放したら「ハハハハハ」と笑ってました。愚かな十代の記憶ですが、その上恐ろしく片づけができず、それに似たのか私も……。おっと今日は映画の話でした。
スン・チョウ監督 2001年中国 90m. NHK-BSで収録 9月14日観
【introduction】
中国の代表的女優コン・リー演じる母親の、耳に障害を持つ息子への愛を描いた感動作。普通小学校への入学のためにあの手この手を使って奮闘する母の姿は悪くはないと思いますが、自分の理解力の問題か、あまり楽しむことはできませんでした。
【review】
楽しめなかったのは、“中国映画への間違った期待”が原因だろう。それは“中国”への間違った期待と言い換えてもいい。
市場経済導入と同時に接する機会が増えた中国映画。個人的にもっとも鮮烈なのは、美少女たちが内陸部の田んぼの真ん中で踊り回り、それでいながら貧困や性差別のリアリズムに西欧化社会では考えられない方法で迫った1991年の『五人少女天国行』だったが、他にもスケールで圧倒した『さらばわが愛 覇王別姫』、国土の力を見せつけた『黄色い大地』、数について考えさせられた『あの子を探して』など、ずっと驚かされっぱなしの十数年ほどだった。
だが中国は変わった。都市部には高級車を乗り回す人々があふれ、そのことが新たな問題を噴出させているにしても、かつての中国の一部は失われている。もちろん日本人には想像すらできない奥行を持つ中国に関して、行ったこともない人間にいえることはほとんどないが。
たとえば『中国の小さなお針子』。この作品では奥地の農家の建物はそのままに、不釣合いに豪華なソファや衛星放送のパラボラアンテナが同居している絵がものすごいリアリティを感じさせられた。
だがそれはパラボラアンテナが私が中国映画に望むものに近いかたちをしていたというだけのことであり、本作のシーメンスの補聴器やメイドの勤め先のスケベオヤジ、新聞配達といったディテール、それから過剰な音楽や世界標準といえる不可分ない演出などが、私が中国映画に求めているものと違っているだけなのだとも思う。
同じコン・リー主演の『秋菊の物語』はまったく違っていた。何だよ中国ってやっぱりこんなかよと思いながらみる官僚機構の中で正義を貫こうとするコン・リーの秋菊は、どんなにまぶしかったことか。
『秋菊の物語』からみてどうこういうのは、恐らく現代日本映画をみてクロサワやオヅと違うというのと同じようにばかげたことなのかも知れない。だが、現代日本映画がいかにすぐれた映画が多くあるといったところで、クロサワやオヅがすばらしいことに変わりはない。今の中国を本当に反映しているのが『きれいなおかあさん』だとしても、これから10年、20年していい映画として思い出すのは『秋菊の物語』の方だろう。
社会が変わる時、失うものがないわけはない。私には映画くらいしかそれを確かめるすべはないが、だからこそしっかりとみておきたい。ただし遠くで。
なお当然のことですが、生前私の母は「まったくきれいでないおかあさん」でした。高校の頃、ゴルフ場経営者の息子の同級生H君のお母さんが中学校教員だった父の最初の教え子で、何かの時にその若くてかっこいい白のギャラン・シグマを操るお母さんに送ってもらった後で家に着き、こたつでどうずばっている茶色のカローラの母に「何でそうゆうん。Hのお母さんなんかすごくきれいでかっこいいんだで」などとぶっ放したら「ハハハハハ」と笑ってました。愚かな十代の記憶ですが、その上恐ろしく片づけができず、それに似たのか私も……。おっと今日は映画の話でした。
スン・チョウ監督 2001年中国 90m. NHK-BSで収録 9月14日観
【introduction】
中国の代表的女優コン・リー演じる母親の、耳に障害を持つ息子への愛を描いた感動作。普通小学校への入学のためにあの手この手を使って奮闘する母の姿は悪くはないと思いますが、自分の理解力の問題か、あまり楽しむことはできませんでした。
【review】
楽しめなかったのは、“中国映画への間違った期待”が原因だろう。それは“中国”への間違った期待と言い換えてもいい。
市場経済導入と同時に接する機会が増えた中国映画。個人的にもっとも鮮烈なのは、美少女たちが内陸部の田んぼの真ん中で踊り回り、それでいながら貧困や性差別のリアリズムに西欧化社会では考えられない方法で迫った1991年の『五人少女天国行』だったが、他にもスケールで圧倒した『さらばわが愛 覇王別姫』、国土の力を見せつけた『黄色い大地』、数について考えさせられた『あの子を探して』など、ずっと驚かされっぱなしの十数年ほどだった。
だが中国は変わった。都市部には高級車を乗り回す人々があふれ、そのことが新たな問題を噴出させているにしても、かつての中国の一部は失われている。もちろん日本人には想像すらできない奥行を持つ中国に関して、行ったこともない人間にいえることはほとんどないが。
たとえば『中国の小さなお針子』。この作品では奥地の農家の建物はそのままに、不釣合いに豪華なソファや衛星放送のパラボラアンテナが同居している絵がものすごいリアリティを感じさせられた。
だがそれはパラボラアンテナが私が中国映画に望むものに近いかたちをしていたというだけのことであり、本作のシーメンスの補聴器やメイドの勤め先のスケベオヤジ、新聞配達といったディテール、それから過剰な音楽や世界標準といえる不可分ない演出などが、私が中国映画に求めているものと違っているだけなのだとも思う。
同じコン・リー主演の『秋菊の物語』はまったく違っていた。何だよ中国ってやっぱりこんなかよと思いながらみる官僚機構の中で正義を貫こうとするコン・リーの秋菊は、どんなにまぶしかったことか。
『秋菊の物語』からみてどうこういうのは、恐らく現代日本映画をみてクロサワやオヅと違うというのと同じようにばかげたことなのかも知れない。だが、現代日本映画がいかにすぐれた映画が多くあるといったところで、クロサワやオヅがすばらしいことに変わりはない。今の中国を本当に反映しているのが『きれいなおかあさん』だとしても、これから10年、20年していい映画として思い出すのは『秋菊の物語』の方だろう。
社会が変わる時、失うものがないわけはない。私には映画くらいしかそれを確かめるすべはないが、だからこそしっかりとみておきたい。ただし遠くで。
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