春になると桜が咲く。
桜の花は美しい。
でも、なんで美しいと思うんだろう?
桜のどこかに、美しいと感じさせる何かがあるから美しいのだろうか?
いや、ソレは違うな。
美しさなど何処にもない。美の本質なんて物もあり得ない。
まだ言葉も良く知らない子供の頃。
夕方、遊び疲れふと空を見上げる。
すると空は真っ赤に染まり見た事もないような凄い色。あまりに凄い色の空に子供のあなたは感動して言葉も出ない。
あまりの凄さに我も忘れて空を見上げるあなたに、お母さんはそっと教えてくれた。
「すごい夕焼けね。ああいうのを『美しい』と言うのよ」
子供のあなたは思う。
そうか、夕焼けは美しいのかと。
さて、子供の心の中にあるのは「凄い物を見た感動」だけだ。「美しい」など後付けの「言葉」にすぎない。
満開の桜や、凄い夕日。
そういったものにただ感動しているだけで、はじめから「美しい」と思って見ているわけではない。
感動をあえて言葉にすると「美しい」となるだけで、言葉なんか、他人に自分の感動を伝える為の手段にすぎない。
言葉に慣れすぎるとつい勘違いしてしまうが、美しいから感動するのではない。「すごい!」と感動した自分の心を他人に伝えるために「美しい」という言葉を利用しているだけなのだ。
どこにも美しい物などない。
人間が勝手に「美しい!」と感動しているだけ。
空も花も、人間なんか関係なく、ただあるようにあるだけだ。
では、なんで人は感動するのか?
たぶん、脳の仕組みがそうなっているからだろう。
空とか花を見ると感動するように出来てるんだ人の脳は。どういう仕組みなのかは知らないけど。
ただ、美人とか茶碗とか絵画とかいう共同体の価値観にドップリと漬かった物と違い、空や花には誰でも感動する。
自然の美しさに感動する心は、より本能に近い感動なんだと思う。
無くしてはいけない。
桜の花は美しい。
でも、なんで美しいと思うんだろう?
桜のどこかに、美しいと感じさせる何かがあるから美しいのだろうか?
いや、ソレは違うな。
美しさなど何処にもない。美の本質なんて物もあり得ない。
まだ言葉も良く知らない子供の頃。
夕方、遊び疲れふと空を見上げる。
すると空は真っ赤に染まり見た事もないような凄い色。あまりに凄い色の空に子供のあなたは感動して言葉も出ない。
あまりの凄さに我も忘れて空を見上げるあなたに、お母さんはそっと教えてくれた。
「すごい夕焼けね。ああいうのを『美しい』と言うのよ」
子供のあなたは思う。
そうか、夕焼けは美しいのかと。
さて、子供の心の中にあるのは「凄い物を見た感動」だけだ。「美しい」など後付けの「言葉」にすぎない。
満開の桜や、凄い夕日。
そういったものにただ感動しているだけで、はじめから「美しい」と思って見ているわけではない。
感動をあえて言葉にすると「美しい」となるだけで、言葉なんか、他人に自分の感動を伝える為の手段にすぎない。
言葉に慣れすぎるとつい勘違いしてしまうが、美しいから感動するのではない。「すごい!」と感動した自分の心を他人に伝えるために「美しい」という言葉を利用しているだけなのだ。
どこにも美しい物などない。
人間が勝手に「美しい!」と感動しているだけ。
空も花も、人間なんか関係なく、ただあるようにあるだけだ。
では、なんで人は感動するのか?
たぶん、脳の仕組みがそうなっているからだろう。
空とか花を見ると感動するように出来てるんだ人の脳は。どういう仕組みなのかは知らないけど。
ただ、美人とか茶碗とか絵画とかいう共同体の価値観にドップリと漬かった物と違い、空や花には誰でも感動する。
自然の美しさに感動する心は、より本能に近い感動なんだと思う。
無くしてはいけない。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます