死は宗教と思想を生むがそれは逃避であると俺は思う。個人の死は無以外のなにものでもない。だからこそ、子供は寝床で死を思いこれからの人生に絶望するのだ。
死ねば、無だ!自分はなにもなくなる。
それが俺の結論だが、種や共同体とすれば個人の死は死ではない。個人の記憶が種や共同体に残るうちは個人は消滅しないのだ。
転生輪廻を考えて欲しい。死んでも死んでも生まれ変わるのだ。魂の死はない。永遠に生き続けねばならないのだ。このことに、恐怖を感じないなら、あなたは感受性が不足している。
橋本治調に言うなら、永遠の生命に対するアンチテーゼが仏教である。仏となる事で永遠の生命から解放されるのだ。仏教は宗教と考えるより東洋哲学と考えたほうがいいようだ。奥が深く、底がない。
だが、現実問題として、死ねば終わりだ、後はない。死んだら、腐ってなくなるだけだ。もしくは火葬だ。この世は一見、平等からはほど遠いように見えるが、死を基準にものを考えればこの世は平等そのものである。ゴキブリも俺もたいした違いはない。
無とは無以外なにものでもない。無そのものである。では無とはなにか。
ほんとになにもないということである。正直、世界の中心はあなただ。あなたの感受性そのものが世界の中心だ。他のグローバルスタンダードなんてまやかしにすぎない。世界の中心はあなたの感受性以外にはなにもないのだ。
そのあなたがいない世界はすなわち無である。あなたがいなくても地球は回るが、あなたがいなきゃ世界は主役のいない舞台にすぎない。主役はあなたの感受性そのものである。
世界はあなたを欠いたとたんに、単なる舞台装置となる。あなたの感受性が神であり、あなたを中心に世界は回っているのだ。差別なんか永遠になくなりゃしないだろう。中心は常にあなたであり俺であるのだら。
こんな、あたりまえのつまんない話しかできなくて、本当にすまん。明日はもすこしがんばる。だが、逃避と自殺と殺人はかなり近い位置にある様な気もするが、すでにどうでもいい。
死ねば、無だ!自分はなにもなくなる。
それが俺の結論だが、種や共同体とすれば個人の死は死ではない。個人の記憶が種や共同体に残るうちは個人は消滅しないのだ。
転生輪廻を考えて欲しい。死んでも死んでも生まれ変わるのだ。魂の死はない。永遠に生き続けねばならないのだ。このことに、恐怖を感じないなら、あなたは感受性が不足している。
橋本治調に言うなら、永遠の生命に対するアンチテーゼが仏教である。仏となる事で永遠の生命から解放されるのだ。仏教は宗教と考えるより東洋哲学と考えたほうがいいようだ。奥が深く、底がない。
だが、現実問題として、死ねば終わりだ、後はない。死んだら、腐ってなくなるだけだ。もしくは火葬だ。この世は一見、平等からはほど遠いように見えるが、死を基準にものを考えればこの世は平等そのものである。ゴキブリも俺もたいした違いはない。
無とは無以外なにものでもない。無そのものである。では無とはなにか。
ほんとになにもないということである。正直、世界の中心はあなただ。あなたの感受性そのものが世界の中心だ。他のグローバルスタンダードなんてまやかしにすぎない。世界の中心はあなたの感受性以外にはなにもないのだ。
そのあなたがいない世界はすなわち無である。あなたがいなくても地球は回るが、あなたがいなきゃ世界は主役のいない舞台にすぎない。主役はあなたの感受性そのものである。
世界はあなたを欠いたとたんに、単なる舞台装置となる。あなたの感受性が神であり、あなたを中心に世界は回っているのだ。差別なんか永遠になくなりゃしないだろう。中心は常にあなたであり俺であるのだら。
こんな、あたりまえのつまんない話しかできなくて、本当にすまん。明日はもすこしがんばる。だが、逃避と自殺と殺人はかなり近い位置にある様な気もするが、すでにどうでもいい。
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