悪人などいない。
どこにもいない。
ヒトラーすら悪ではない。
性善説などではなく、善などただの思い込みで、直接に手を汚さなくても、誰もが同じ程度に悪である。
よく言うけど、馬鹿と言う奴が馬鹿なのだってのは真実だ。
悪を責める正義の味方も、視点を変えれば悪であり、下手すると世の中を混乱させるだけの人間かもしれない。
悪いのはシステムであり、システムが悪いのは共同体の共同責任だ。
それだけで、どこにも悪人はいない。
自分の責任も無視して、他人を悪人呼ばわりして責め立てるのはただの馬鹿である。
楽しそうに1人遊びしている子供。
それがヒトラーだったのかもしれない。
友達もなく1人きりなのに、羨ましくなるほど楽しそうに1人で遊んでいた。楽しそうなので、つい僕も仲間に入れてと言うと、ヒトラーはなんのためらいもなく仲間に入れてくれた。
絶望感に打ちのめされ、孤独だと思う人間には、1人で楽しそうに遊んでいる人間が羨ましく思えるのだろう。
だが、普通の時代なら1人遊びの子供なんか誰も相手にしない。勝手に遊ばせておく。
しかし、よりそっていた環境や共同体がバラバラにされたなら、淋しい人間はなんにでもすがりつきたくなる。
そして、1人遊びの子供の仲間に入ろうと考える事もありうる。
ヒトラーは、平和な時代なら宮沢賢治やヘンリー・ダーガーなどと同類の人間であったのかもしれない。影響力こそ強いが、平和な時代なら人間として何の害もないただの妄想家であった事だろう。だが、ヒトラーは妄想の実現の為に手段を選ばないという一面も備えていた。故に彼の妄想を実現する為に多くの生命が犠牲となった。
共同体が疲弊した時代には、価値観の転換が起こりやすく、安易に価値観は転覆する。そういう時代には、かってなかった価値観が人々から求められ、本来ならただの妄想家の価値感すら世間は採用する事もある。ヒトラーだけが悪いわけではない。ヒトラーを求めた人々にも罪がある。
他人を求めなければ生きていけない人間にとっては、1人でいるのが苦しいとは思わない、むしろ1人は楽しいという人間は憧れかもしれないが、人は人を求めずには本来は生きていられない生き物だ。
人を求めないのは強さでもあるが、狂気でもある。むしろ、正気を保ちたいなら人を求めたほうが良い。
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