墨汁日記

墨汁Aイッテキ!公式ブログ

死は宗教と思想を生むがそれは逃避である。

2004-10-05 19:15:07 | 
 死は宗教と思想を生むがそれは逃避であると俺は思う。個人の死は無以外のなにものでもない。だからこそ、子供は寝床で死を思いこれからの人生に絶望するのだ。
 死ねば、無だ!自分はなにもなくなる。

 それが俺の結論だが、種や共同体とすれば個人の死は死ではない。個人の記憶が種や共同体に残るうちは個人は消滅しないのだ。
 転生輪廻を考えて欲しい。死んでも死んでも生まれ変わるのだ。魂の死はない。永遠に生き続けねばならないのだ。このことに、恐怖を感じないなら、あなたは感受性が不足している。
 橋本治調に言うなら、永遠の生命に対するアンチテーゼが仏教である。仏となる事で永遠の生命から解放されるのだ。仏教は宗教と考えるより東洋哲学と考えたほうがいいようだ。奥が深く、底がない。
 だが、現実問題として、死ねば終わりだ、後はない。死んだら、腐ってなくなるだけだ。もしくは火葬だ。この世は一見、平等からはほど遠いように見えるが、死を基準にものを考えればこの世は平等そのものである。ゴキブリも俺もたいした違いはない。
 
 無とは無以外なにものでもない。無そのものである。では無とはなにか。
 ほんとになにもないということである。正直、世界の中心はあなただ。あなたの感受性そのものが世界の中心だ。他のグローバルスタンダードなんてまやかしにすぎない。世界の中心はあなたの感受性以外にはなにもないのだ。
 そのあなたがいない世界はすなわち無である。あなたがいなくても地球は回るが、あなたがいなきゃ世界は主役のいない舞台にすぎない。主役はあなたの感受性そのものである。

 世界はあなたを欠いたとたんに、単なる舞台装置となる。あなたの感受性が神であり、あなたを中心に世界は回っているのだ。差別なんか永遠になくなりゃしないだろう。中心は常にあなたであり俺であるのだら。

 こんな、あたりまえのつまんない話しかできなくて、本当にすまん。明日はもすこしがんばる。だが、逃避と自殺と殺人はかなり近い位置にある様な気もするが、すでにどうでもいい。




瘋癲老人のつぶやき

2004-10-05 18:13:27 | 
瘋癲老人のつぶやき
 宅間死刑囚は自殺したかったのである。そのことに気づき、自殺援助としての死刑執行をあたりまえとする世間やマスコミや国をかるく批判している。
 そして、宅間を死刑にする事は彼の児童殺しを容認したということでないのかと詰め寄る。ま、なんにしろ、死んだ子供も宅間ももう生き返らない。