ウフフフ・・・キタっ
・今親柱(の遺構)が残っているあの橋は石橋で「八千代橋」という名前だったらしい。橋長3m・幅員12.6m。
古地図で住所を調べてもその辺りだし、今でも推し量れる寸法からいってもまあ間違いなかろう。
・満光寺橋・・・うひょーっっ!!
橋長2.15m・幅員4.8m。
これは大きなヒントになるかも。
2mちょっとの「何か」を超えるための幅5m弱の橋。
しかも石造。
「江川堀自体は幅二間(3.6363636m)程の流れで、土手は堀の両側に一間(1.818 1818m)ほどの幅があったらしい。」
石神井用水についても。
荒川區史
荒川区の水脈と気象
2016/6/13追記
いやいや、集まってきたじゃないですか
東京戦災白地図
通巻57号 PDFファイル(1.0MB) - 日本交通計画協会より
都市と交通Vol.1 Vol.2 2003
さあ、問題は次の記述。
「市街地の街路は現在も、かつての農村当時の畦道や掘り割りであり、ほぼその原型をとどめている。」
日本には安土桃山時代に西洋人により伝えられたと推測されている[4]。最古の確かな文献は、1596年(慶長元年8月)、石田三成が博多の豪商神屋宗湛に送ったシャボンの礼状である。
最初に石鹸を製造したのは、江戸時代の蘭学者宇田川榛斎・宇田川榕菴で、1824年(文政7年)のことである。ただし、これは医薬品としてであった。
最初に洗濯用石鹸を商業レベルで製造したのは、横浜磯子の堤磯右衛門である。堤磯右衛門石鹸製造所は1873年(明治6年)3月、横浜三吉町四丁目(現:南区万世町2丁目25番地付近)で日本最初の石鹸製造所を創業、同年7月洗濯石鹸、翌年には化粧石鹸の製造に成功した。
1877年(明治10年)、第1回内国勧業博覧会で花紋賞を受賞。その後、香港・上海へも輸出され、明治10年代の前半に石鹸製造事業は最盛期を迎えた。1890年(明治23年)、時事新報主催の優良国産石鹸の大衆投票で第1位になったが、全国的な不況のなかで経営規模を縮小した。翌年創業者の磯右衛門が死去。その2年後の1893年(明治26年)、廃業した。彼の門下が花王、資生堂などで製造を続けた。
銭湯では明治10年代から使用され始め、洗濯石鹸のことを「洗い石鹸」、洗面石鹸のことを「顔石鹸」と称していた[4]。また、艦上で真水が貴重だった帝国海軍ではそれぞれセンセキ、メンセキと呼んでいたという。
掘割[編集]
白秋祭での掘割の夜景
掘割は、クリークとも呼ばれる水路であり、柳川を含めた筑紫平野南部に一般的に存在する。筑紫平野南部では六角川・嘉瀬川・筑後川・矢部川などの主要河川が有明海に注ぎ込んでおり、中世以前には低湿地帯が広がっていた。中世以降、徐々に低湿地帯を掘削・開墾(土地かさ上げによる乾田化)することで人工的な農地が形成されてきたが、掘削後の水路が掘割と呼ばれることとなった。
柳川市内の掘割は、戦国時代の領主蒲池鑑盛が柳川城の水の防壁として開発し、柳川城を九州屈指の難攻不落の堅城としたが、近世都市との関連では立花氏に先立つ領主田中吉政によって整備され、上水道・農業用水路・洪水予防の貯水路としての機能が強化された。上水道網が完備する昭和40年代までは掘割は上水道・水運など生活用水としての役割を担っていた。しかし、上水道網・道路網の整備が進むに連れて掘割の清掃がなされなくなり、掘割は水草に埋没し、ゴミの不法投棄が横行した。柳川出身の作家檀一雄は、当時の市長に「我が故郷はシブタも住まず蚊蚊ばかり」という句を送り、往時の姿を失った掘割を嘆いている(シブタとは小魚の一種)[9]。
昭和52年には、柳川市街地の掘割を暗渠・埋め立てする計画が市議会により承認され実施直前であったが、下水道係長であった広松伝の研究・啓蒙活動を受けて、市長古賀杉夫の判断により一転して掘割の保存、整備を進めることとなった。昭和53年に、掘割の浚渫や排水規制を主体とする河川浄化計画が実施され、柳川の掘割は蘇った[10][11]。しかし、化学薬品の流入や一般家庭の生活廃水による富栄養化の問題、下水道整備の不足など、掘割の再生は途上である。
柳川市の掘割の総延長は930kmであり、市街域の掘割を巡る「川下り」の舞台として貴重な観光資産となっている。
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